忍者ブログ

カレンダー

12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

プロフィール

HN:
ひなの
性別:
女性
職業:
ボタンつけ3級
趣味:
おひるね

ぶれぶれ

ブログ内検索

カウンター

バーコード

ザックスくん

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

タナトス

散らかった机に上着を放り投げ、男は崩れるように両手をついた。
「この世に神はいないのか……」
つぶやきは闇に消えるだけで、無人の部屋に返事などあるはずもない。
深夜の研究室は空調の音だけが響き、あとは所内を管理する機械音がまとわりつく。
男は肩で大きな溜息をつくと、乱暴に頭を抱えた。
一日中、カバンを抱えて歩き回った脚は棒のよう。
元々、社交的な性格でもない。
自分は研究室に篭って研究に没頭する方が、何倍も性に合っている人間なのだ。
それを絶望するほど思い知らされ、憔悴する日々が続いていた。
液晶に浮かんだ時間は、もうとっくに零時を回っていて、あたりは静まり返っている。
また、貴重な一日が幕を閉じてしまう。
柔らかな椅子に腰を下ろすと、疲労がどっと押し寄せて身体の節々が悲鳴をあげた。
タイムリミットまで、あとどのくらいだろうか。
もっと足掻かなければならないのに、身体が泥のように重く、思うように動かない。
眩暈を伴う眠気で身体は限界なのに、妙に頭の芯が冴えている。
まだ成さねばならぬことが山積みで、やり抜く時間はともかく、なによりも資金が底をついたことが男を苦しめていた。
――どうしたらいいのだ。
男は、ひどく憔悴していた。
研究資金どころか、すでに自分の資産すら男には残ってはいない。
健気に支えてくれていた妻の姿も、もう傍にはなかった。
金策を工面することなど、およそ男には似合わない作業だったが、頼れる者は誰もいなくなってしまった。
経営に不慣れな男にとって、これほどの資金難を立て直すなど無謀なことだったが、困難こそが当然だとも思っていた。
神の所業に匹敵する遺伝子研究が、容易く一般人に理解出来るはずがない。
『天下のヒビキ博士が研究資金ごときでそんな! お案じなさることなど何もありませんよ』
揉み手で近寄って来る同業者の作り笑顔からは、研究を根こそぎ奪おうと目論む下心がハッキリと透けて見えた。
最先端の現場において、ライバルから研究を横取りされる事件など、特に珍しい事でもない。
男は今までの経験から、ヒトが愚かで信用出来ない生き物だと言う事を十分すぎるほど見てきていた。
自分を鑑みても、もしも見栄えのいい研究が目の前に転がっていたなら、黙って自分の物にしてしまうか、自らの手で潰してしまうかのどちらかだ。
誰よりも先に研究成果を出せなければ、その結果を誇る権利などない。
一番と二番とでは、雲泥の差がある。
だから研究者は、信頼関係の成立しない支援者に、二の足を踏むのだ。
どこにスパイが潜んでいるか分からない。
どれだけ札束を積まれても、研究に理解のない支援者からの援助は警戒する。
けれどそれは、選ぶ余地が残っている場合だ。
男が置かれている状況は、そんなに甘いものではない。
もしも高額な寄付を申し出てくれる者がいたならば、男は再び自分の魂など売り飛ばしただろう。
どうせ、すでに一度金のために売ったことのある魂だった。
研究者は常に困窮している。
だから、売れるものは何でも売って金にしなければならない。
でなければ研究を続けられないという、それは切実なことだ。
誰もが願うのは、金払いが良く、自らの研究に介入することの少ない、都合のいい権力者の存在だった。
出来れば国の中枢に関わる裕福な政治家なら、なおいい。
彼らほど理想的なパトロンはいない。
国が保護してくれるならば、資金など気にすることなく、研究にだけ没頭できるのだ。
だが、どこの国の中枢も、すでに男の研究を取り締まる側に回っていて、援助を望む事は大変難しい状況になっていた。
オーブにある妻の一族は裕福で、今まで男は、その力に頼りきりだった。
妻はオーブの権力者の親族で、その国の国政に携わる友人も、男の研究を理解してくれていたのだ。
だからこそ、今まで成立していた相互関係だった。
だが、もうそれをあてに出来ない。
今の妻は、すでに男の研究を理解しないばかりか、ヒステリックに糾弾するばかりになってしまった。
結果、妻経由で男の元へ届いていた資金援助もプツリと途切れた。
――今にきっと、私への融資を絶った事を後悔するに違いない。
信頼していた妻や友人から背を向けられた事は、プライドの高い男を、ひどく傷つけていた。
資金が底を尽き、進退窮まるのを知っていて、援助を絶たれたすべてに憎しみすら覚える。
恨む相手が間違っていると知りつつ、男には研究がすべてだった。
妻を愛していないわけではない。
愛してはいたが、それに緊急性を感じなかった。
妻は美しく、たおやかな女性であり、男と同じ研究者だった。
最愛の妻がいたからこそ、男の研究は始まったのだ。
――三号機が成功すれば、きっと妻も分かってくれるはずだ。
きっと昔のように褒めてくれるに違いない。
だが願いは届かず、成果はない。
「今に見ているがいい」
苦く呟き、唇を噛みしめる。
だが、強がってみてもただの空回りで、今日までの成果のなさがすべてを物語っていた。
思えばずっと、今よりも莫大な援助があったときでさえ、資金繰りが必要でない年はなかった。
研究に明け暮れた男に処世術など全くなく、優秀な研究者ではあっても、マネージメントで生き馬の眼を抜くような力はない。
融資や援助を受けることが、とてつもなく大変なことを、妻や有力者の友人に頼っていた男は忘れていた。
とりわけ期待されて来た分野の第一人者だったので、他の研究者よりも、ずっと優遇されてきたのだ。
その頃は、支援者の方から頭を下げてやってきた。
かつてのそんな状況が、ひどく恵まれていたのだと気付けないまま、男は資金難と言う憤りと屈辱に押しつぶされて疲れきっていた。
「……どうしてだ。私も研究も何も変わってはいないのに、何故」
立場が変われば、今までのとりまきは獲物に飛びかかるハイエナと化し、男の研究を買い叩こうとする。
それだけはさせられないと、男は脚を引き摺りながら戻って来たのだ。
資金も限界だが、男にも限界が近づいている。
息を吐き出すと身体の力が抜け、そのままブラックアウトして意識が飛んでしまいそうだった。
だが追加予算が打ち切られた今、この施設の電力も、いつ落とされるか分からない状況だった。
無駄に出来る時間はないと立ち上がった、その次の瞬間、男は眩暈を覚えてグラリとよろけた。
溺れそうな焦りとは裏腹に、感覚の薄れた脚では床を踏みしめることも難しくなっていた。
両手で机に手をついて堪えても、膝がガクガクと震える。
「こんなことで……」
ぶら下がってくる絶望に息を詰めれば、そのまま灰になって身体が朽ちてしまいそうになる。
必死に目を開けば、机の上は請求書の山が散乱し放題で、見ているだけで心が荒んだ。
整理を任せていた最後の研究員が、滞った給料の未払いに痺れを切らして出て行ったのは先週だっただろうか。
一時は持て囃され、引く手数多だった融資や援助も、もはや思うようにならなくなって久しい。
苦悩の男は、強くコメカミを押さえ、もう片方の手で軽くカールして流した金髪を掻き毟った。
「あと少しなのだ。ここで中断すれば、今までの努力すべてが水の泡になる。それこそ人類そのものの損失なのに」
――なのに何故、誰もそれを分かろうとしないのだろうか。
自分の妻ですら理解してくれなくなったことが、一番堪えていた。
かつては最大の理解者であったはずなのに、今では同じ研究者でありながら口もきいてくれない。
そればかりか、顔を合わせるとヒステリックな叫び声をあげて暴れ出し、精神科に診てもらっている状況だった。
「もうやめて! あれは物ではない、命なのよ!」
悲痛な声は悲鳴そのもの。
命だからこそ完成させなければならないと必死だったのは、研究者の妻も同じはずだった。
彼女は、この五月に母になる。
腹に入れた子はナチュラルの女の子で、経過は全くの順調なはずだった。
きっと出産が終われば、落ち着くだろう。
ナチュラルの女の子が欲しいと言う彼女の希望は、叶えたはずだった。
なのに、どうして研究に理解を示してくれないのだろうかと、男は頭を抱える。
究極のコーディネイター計画のために、この十年、何もかもを犠牲にして費やしてきたのは、この人類の発展のため。
クライアントの希望通りのコーディネイトを成功させ、不幸な子供を作らないためだった。
資金難のため、自分たちの遺伝子を研究に捧げることは、妻とはお互いに了承済みのはずだった。
だが彼女は、自らの胎内に子供が宿ってから変わってしまった。
今まで抑えていたものが堰を切ったような激しさで噴き出したように、男を責め始めたのだ。
「もうこんな酷い事はやめて! こんな研究を続けても無駄よ、命は生まれいずるものよ! 作り出すものではないわ」
わめき散らす妻の悲鳴を聴き流すしか、男には術がなかった。
続けてきたのが大切な研究なのだという事は、彼女も知っていたはず。
折り合いをつけてくれるとタカを括っていた。
だがその日、妻は研究室で暴れだし、まだ残っていた職員が慌てて彼女を取り押さえる騒ぎとなった。
資金調達のため、地球軍に不適合なサンプルを譲り渡した日だった。
「返して! あの子を返して! もう一人の……!」
暴れる妻と、男は口論になった。
あれは、妻だけのものではない。
卵子に顕微授精した遺伝子は、間違いなく男のものだ。
「私の子供だ! 最高の技術で最高のコーディネイターにするんだ」
「それは誰の為? ――貴方の為?」
 妻は大きなスミレ色の瞳を涙で一杯にし、瞬きすら忘れて男を凝視していた。
彼女の白い頬に大粒の涙が伝って落ちたそのとき、男は自分がどんな冷たい顔をしていたか記憶にない。
「より良き者をと人は常に進んできたんだ。それは、そこにこそ幸せがあるからだ」
激情に任せて口をついて出たのは、今更の答えだった。
身重だというのに、ひどく激昂したため、貧血を起こして床にくず折れた妻を抱き起こしもせずに、男は腹立ちを隠さずに見下ろしていた。
亜麻色の長い髪と細い背中を震わせて、妻は泣いていた。
まるで自分に宿った命を、これ以上奪わせないと死守するが如く、自らの腹部を庇い、さらに男を責めたてた。
男にとって、妻から腹の子の親権をも剥奪されたような、そんな日だった。
確かに、研究に倫理的な問題のあることや、外部に漏れては聞こえの悪い事が多すぎることは、今更のことだった。
その直前までは、妻は自分の理解者だと、男は当たり前に信じていた。
『命を弄び、実験サンプルにしている』
研究所職員の間で、男の実験そのものが不信感を募らせていたのは知ってはいたが、あの日の妻の狂態が決定打だったかもしれない。
合法的ではないことをしているのだから、抵抗があるのは当たり前で、資金さえ足りていればしなくても済んだことばかりだった。
遺伝子提供を受けられたなら、自分たちの受精卵を使うこともなかった。
そして、資金のために規定レベルに達しなかったサンプルを、破棄という名目で売却することもなかった。
妻が反対すると分かっていたので話さなかったのに、一体どこから漏れたのだろうか?
L4宙域にあるメンデルは、多くの遺伝子研究者が集まっているので、必然的に業者や仲介屋の出入りも多い。
口々に囁く彼らを封じる事が出来なくなってしまったことも、男の失策のひとつだった。
口封じのために必要なのも金。
スーパーコーディネイター計画は出入りする関係者にも極秘扱いであったが、耐えられなくなってここを出た研究者が口を滑らせる可能性も低くはない。
男は仮定の上で、その誰だか分からない彼らを本気で憎んだ。
――故意に、私の実験を潰したい者がいるに違いない。それに妻が唆されているのだろう。
その思いつきは信憑性があり、自分の成果に焦るあまり、男は自らの罪に気づけぬまま一気に荒れた。
襲ってくる疲労と、思うようにならない苛立ちから、そんな過日の事を思い出し、男は激昂したままデスクを叩いた。
すると、脇に散乱していたメディアのタワーが、乾いた音をたてて床へと散らばった。
そのどれが大切な資料だったのかさえ、もう男には分からなくなっている。
まるで空き巣にでも遭ったような荒れ様だったが、疲れ果てた男は、そんなことに構う余裕がないほど疲弊しきっていた。
――だが、私には三号機がある。
デスクについた握りこぶしで立ち上がろうとすると、昼間、男が必死に頭を下げた取引先の顔が、自動的に脳裏に甦った。
長い黒髪の一見柔和に見える遺伝子学者は、男と同じ会社の若いコーディネイターで、以前から男の研究に深い興味を示していたのを知っていたが、今の研究そのものを買い上げるという条件を提示してきたときに向けられた微笑みが壮絶に美しく、男は恐ろしくなり後ずさった。
そして男が次に会いに行ったのは、以前、とある条件と引き換えに投資を受けた金髪の中年実業家で、相変わらず男の研究には興味を示さず、同じものを彼の言う条件に替えてから作り直すならば金に糸目はつけぬと、相変わらずの容赦なさと狡猾さで、有無を言わさず札束を目の前に積み上げてきて、男をたじろがせた。
さらに或る教授は、男の研究と言うよりも、それが成功した暁に、畑違いの自分の研究にとって、どんなメリットがあるのかと何度も訊いてきた。
最後に、仕上げのように、誰も彼もが口々に、もったいぶった口調で言うのだ。
『下手にあなたに手を貸せば、こちらが命取りになるのだ。貴方も、そのくらいは弁えて貰わなければ』と。
本当は、喉から手が出るほど男の研究に興味があるはずなのに、こうして買い叩かれる。
だがそれと同時に彼らの中に、脅迫めいた危険なものが含まれていることを男は肌で感じていた。
結局、今日も資金援助の額は、どれも申し分のない破格の物であったが、そのどの条件も男は飲む事が出来なかった。
スーパーコーディネイター計画は究極のコーディネイターを作る研究で、莫大な資金が必要な研究だった。
ここ数年、特に資金難に陥ってからは、成功に能わぬサンプルを売却することで、研究資金を稼ぐしかなくなっていた。
人工子宮の開発は比較的早くに完成したが、最高のコーディネイターを誕生させるには、それでは駄目だったのだ。
一号機二号機と失敗続きだったが、今残っている三号機の胎児は、十年をかけて、ようやく成功の兆しが見えたものだった。
「あれは奇跡に近いのだ。まさに人が神の領域に手が届くかどうかの瀬戸際――それを私が、この手で掴む――それが私の研究のすべて」
力の入らない指で握った拳を机の上に押し付け、ユーレンは呻いた。
満足に動けないほど疲れきっていたにもかかわらず、彼は片手で体を支え、疲労により震えの止まらぬ指で机の裏のボタンを押した。
すると音もなく奥の戸棚が移動し、隠し扉が現れた。
男を急がせ掻きたてる、大切な研究がそこにある。
整然とした次の部屋へと、ユーレンは引き込まれるように吸い込まれていった。
そこは、無機質な空間。
ドアの向こうに広がる闇は、まるでどこか別の異空間へとつながっているかのよう。
モーター音が低く響き、それ以外の音が存在しない。
部屋の陽のあたらぬ闇の中で、整然と並んだ機材だけが静かに点滅していた。
男のいた部屋の荒れ具合が嘘のように、こちらには何もない。
研究室とは別の、この光の一筋も入らない隠し部屋に、男のすべてが詰まっていた。
壁を埋め尽くして並ぶボックスの、そのほとんどが暗く空っぽだったが、部屋の中に収められたポッドのひとつに、この世の誰よりも優れた完璧な命が宿っていた。
ここにあるのが三号機。
男が命を賭けた大切な宝。
幾層にも重なる繊細な装置の中心に、発光する蒼白い光がある。
その中で静かに眠る命が、男のすべてだった。
大きな円柱状の機械からは、何本もの太いケーブルが延び、周囲のモニタには内部の胎児の様子とバイタルの数値が浮かび上がっている。
それに異常は一つもないことを、男は計器でチェックし、一通りそれを終えるとホッと肩を落とした。
すべて健やかに、確実に生を刻んでいる。
――どうか、一刻も早く誕生してくれ。
厚い硝子の向こうの、おぼつかない胎児の心臓は、規則正しく動いていた。
人工子宮の羊水の中で、まどろむようにゆらゆらと揺れる小さな姿が、男には『生』という芸術そのものに見えた。
大きな可能性が、ここにあると言うだけで、心が震え出す。
バイタルの正常値を示す密かな電子音が、どんな素晴らしい音楽よりも疲弊した心を癒すのだ。
それは、まさに男の作り出した命が目覚めを待っている証拠。
人工子宮という孤独な揺り籠の中でたゆたいながら、最高の能力を秘めたヒト形と魂が合わさった、至上の宝物。
三号機に眠るその命が、今の男に持てるすべて。
人生すべてを、この小さな命に捧げたのだ。
何があっても、これを守らなければならない。
男は、妄執に取り憑かれたように誓うのだ。
だが守ると言っても研究資金のとうに尽きた、このままでは費えてしまうのは目に見えていた。
支援者の誰かを選ばなければ、男の研究は無へと帰してしまう。
だが誰か一人でも選べば、この宝は男の手から離れてしまうだろう。
――それは出来ない。
男の遺伝子を宿した子供なのだ。
何としても持ちこたえなければならない。
眩暈を堪えて、ポッドの無機質な表面に手をあてると、泣き出したい気持ちになってくる。
「やっとここまで来た……あと少し、あと少しなのだ」
このままでは終われない。
諦められない。
諦めるタイミングを測り違えていると、世界中から嘲笑されても終われない。
目頭に、にじむ涙をぬぐうつもりもない。
唇を噛んで苦悩する男にも、この人工子宮の命が本当に、あと少しで誕生となるか否かは分かっていない。
そして、誕生してみなければ分からない事もある。
他の多くの事例のように、シャボン玉が弾けるほどの儚さで無に帰してしまうのかもしれないのだ。
男が作り出そうとしているのは、そんな危ういバランスの中で誕生を待つ究極の命であり、男が人生すべてを賭けた、あまりに心もとない一つの可能性だった。
けれど、成功すれば人類すべてをひっくり返すことが出来るだろう。
神を作り出した技術として、男は歴史に名をはせ、後世までその功績を称えられることになるだろう。
何故なら男が作っているのは人類の憧れであり、その頭上で燦然と輝く希望と言っていい。
数多の犠牲は否めない。
だれもがこうありたいと切望する祈りであり、夢そのものを形にしたものを、ユーレンは自分と妻の遺伝子で作り上げるのだ。
それがスーパーコーディネイター計画。
ヒトの遺伝子を組み替え、誰よりも優れたコーディネイトを施した、最高のヒトを作り出す研究だった。
優秀な頭脳と身体能力と、美しい容貌を兼ね備えた究極の命を誕生させることが、コーディネイターの極み。
資金援助のために法も倫理も犯し、資金調達のために、男は禁じられたヒトクローンに手を貸す所業まで犯した。
だがすべてが、究極のコーディネイターを作り出すため。
自分の遺伝子を引き継ぐ子供を、最高のコーディネイターにするためだった。
我が子の受精卵を培養し、遺伝子操作を繰り返す。
遺伝子の無尽蔵な組み換えに、ヒトの形を保てない胎児は放置、或いは破棄され続けた。
残酷なようだが、それは最高の人類を作り出し、人の夢を叶えるための聖なる犠牲。
研究者が前に進むためには、屍や犠牲の山に怯んではならない。
人類のためだという免罪符は、自らの子供を犠牲に捧げることとで男を正当化させ奮い立たせた。
ヒトの命を使った遺伝子操作実験は、神への冒涜という古臭い言葉だけでなく、倫理的な観点から風当たりも強い。
だが、成功の夢を振り仰いだ男に、それは雑音でしかない。
メンデル遺伝子研究所の円筒形の施設群は、ユーレン・ヒビキ博士が作り出した墓場そのものだと醜聞が流れたが、ついぞ男の耳には入らなかった。
ヒトになれなかった屍の山が、どう処理されていくのか、忙しい男の視界に入らなかったのだ。
「この三号機は成功させなければならない」
男は低い声で呟いた。
このままでは、彼の人生のすべてをかけた、人が神になる可能性が、ゴミ同然の価値しかなくなってしまうことになる。
――そんなことが許されてなるものか。
「私は神を作るのだ」
握った拳を震わせて、男は厚い硝子の向こうの羊水の中で、静かに丸まって眠る胎児を睨みつけた。
最高の可能性を秘めた命。
それが、男の持てる研究の結晶。
ユーレン・ヒビキは遺伝子研究の第一人者で、優秀な研究者なのだ。
今に超人どころか、神さえ作りだすだろうと囁かれ、そして、それを実現させる力が自らにあると信じた。
美しい容姿、明晰な頭脳、身体能力が高く、疾病に強い身体。
こうなればいいという、人の夢や憧れを形にする研究のはずだった。
人材こそが国の宝。
それは、連綿と続く人類の発展に繋がる。
人は絶えず競争して、洗練されていくのだ。
隣人よりも優秀な遺伝子であればあるほど、その家系は繁栄していく――簡単な図式だ。
最も簡単に優秀な人間を作り出す方法、それが遺伝子操作であり、それがなければ凡人が天才の域に到達する確率は極めて低い。
凡人のままで良いと誰が思うだろうか?
隣人よりも劣ったまま良いと、誰が本当に満足するだろうか?
もしも遺伝子をコーディネイトすることにより、人生のスタート地点を確実に押し上げられるならば、世の親は遺伝子操作のリスクを厭わないだろう。
事実、優秀な遺伝子ほど裏切らないものはない。
それを操るユーレンは、これまで、さほど困難なく支持者からの資金を集め、顧客の要望のままの遺伝子操作を行い、富と名声を手に入れてきたのだ。
そのユーレンの願いは、唯一つ。
自分の遺伝子を受け継いだ、スーパーコーディネイターを作り出すことだった。
自分の遺伝子を継承した子供に、数多のコーディネイターの頂点を統べさせたかったのかもしれない。
初めは、妊娠中の母体に影響されない、より安全で確実なコーディネイターを誕生させるための、研究のはずだった。
だが、そんな凡庸な研究では多額の融資は望めず、いつしか究極の遺伝子操作を施したコーディネイターを誕生させることへと目的は変わった。
それがスーパーコーディネイター計画だった。
莫大な資金をつぎ込んで、今ようやく完成間近となったのに、反コーディネイター団体ブルーコスモスによる、コーディネイターの排除が進められていた。
必然的に男とその遺伝子研究のすべては、その標的のトップに名を連ね続けた。
地球では、コーディネイターの治療や誕生に関わった病院施設や研究所、さらには支援、援助する団体や個人までもが、テロや暗殺の標的となり始め、新たにコーディネイターの誕生を希望するものは激減した。
世界がコーディネイターを閉め出そうとしているのだ。
そうして手足をもがれても、ユーレン・ヒビキ博士は地球を離れ、L4宙域でスーパーコーディネイター計画を遂行した。
彼には、それしかなかったし、それが研究者の彼が選んだ道だった。
そうやって、男は一人でここに立っている。
そして目の前の三号機が、彼にとっての最後の希望である。
この三号機の胎児が誕生しなければ、金銭的にも倫理的にも社会的にも、もう二度と、このレベルのコーディネイターを作る事は出来ないだろう。
ゆえに、何があってもユーレンは完成させなければならなかったのだ。
改めて固く握りこぶしを握ったとき、奇妙なことに、冷たい風が足元を吹き抜けた気がした。
いくら荒れた研究所とはいえ、まだセキュリティは生きている。
一般人が入りこめるシステムになっていないのだ。
まして、隠し部屋のこの場所に踏み入ることは、限られた数名にしか許していない。
気のせいかと思ったが、その次の瞬間、確かに人の気配を感じて振り返り――そしてユーレンは恐怖のあまり掠れた悲鳴をあげた。
闇の中、振り返ったすぐ後ろ――三号機の前に、いつの間にか、ひっそりと佇む人影があったのだ。
恐怖に固まったユーレンの前で、頭からつま先まで黒いマントに覆われた人影は静かに立っていた。
ドアの開く音はしなかったし、網膜認証がなければここへ簡単に入れる訳がない。
まるでテレポートして現れたような不気味さにザッと鳥肌がたち、ガクガクと膝が震えた。
何者かが一瞬で現れるなど、尋常ではない。
照明をつけなかったことを、これほど後悔したことはなかった。
だが、機材の放つ蒼白い光に照らされて現れた、ほっそりしたシルエットを見て、幾分ユーレンは落ち着きを取り戻した。
――女か……?
相手が自分よりも、ずっと華奢に見えたからだ。
これなら、捻じ伏せられる――そう思えた。
「誰だ?! こ、ここへはどうやって入っ……ッ?!」
ユーレンは高圧的に叫んだが、直後に再び吹くはずのない冷たい風に頬を撫でられて戦慄した。
こんな凍えた風が、密封状態の研究所内に吹くはずはないのだ。
冷気で体温を奪われた場所が、凍りそうに引き攣る。
――疲れて悪い夢を見ているのだろうか。
正気に戻れと一度目を固く閉じて開けば、黒い影の頭上に大きなシルエットを確認し、ユーレンはギョッと目を見開いて、さらに声にならない悲鳴をあげた。
心臓が大きな音をたて、身体に流れる血液が一気に引いたのが分かった。
何故なら侵入者の右手には、大きな刃を持つ鎌が握られていたからだ。
不穏なシルエットの威圧感は、凶器だった。
ぬらりと光る凶悪なそれ。
その尋常でない大きさと形状が本物なら、人間など一振りで真っ二つに引き裂かれてしまうだろう。
ユーレンは、自分の研究が反コーディネイター団体の標的にされている事を知っていた。
――ついにここへ来たのか。
「貴様、ブ、ブルーコスモスか……ッ?!」
動転した男の呻きにも、返事はない。
だが、返事がないと言う事が肯定なのだと思い込み、男は死を覚悟しなければならなかった。
どうにかしようと思うのに、身体が動かない。
心臓と脳とが危険だと訴えるのが、遠い世界の他人事のようだった。
男――ユーレン・ヒビキ自身は現実感が薄く、おかしな夢を見ているようでもあった。
黒づくめの異様さはあるが、目の前のほっそりしたシルエットからは、不思議と殺意が感じられなかったからだ。
恐怖に怯えて爆発しそうな心臓の音を他人ごとのように感じながら、ユーレンは何度も首を横に振った。
――何かがおかしい。
目の前の人影がブルーコスモスならば、何故こんな奇妙な出で立ちだろうか?
彼らは、銃やナイフや爆弾を使う。
こんな大鎌は聞いた事がない。
凶器を持っているとは言え、動きやすいとは思えぬ黒マントは、一般に知られるテロリストの姿からは、大きくかけ離れていた。
それどころか、笑えない冗談のようだ。
テロリストと言うよりもむしろ――目の前にいるのは、もっと根本的に異質なもの。
テロリスト特有の怒りや満たされない暴力とは対極にある、不条理の結晶。
人の力ではどうしようもないものを、淡々と当たり前のように運んでくる『不文律』のような大きな力を持つものではないか。
そんな得体の知れない恐怖が、ユーレンを震え上がらせずにはいられなかった。
長い柄の先についた、蒼白く光る三日月型の大きな刃。
独特な形状の大鎌を持つ者については、昔話に聞いた事がある。
実物を一度も目にしたことはなくとも、きっと誰もがひと目で理解するだろう。
それは、人の命を刈りとると言われる禍々しいもの。
タロットカードで見たことのある、Death Scythe――デスサイズそのもの。
こんな武器を使う者が『アレ』以外の他に存在するだろうか?
身体が強張るのは、疲れているせいだけではない。
体中の毛穴が恐怖に煽られ心もとなく開いて、そこから体温も力も抜け出して行っているのだ。
恐ろしいと身体が怯える――それは、どうしようもない本能的な震え。
目の前にいる者が、この世のものではないと悟るまでに、そう多くの時間はかからなかった。
だが同時に研究者であるユーレン・ヒビキは、そんな馬鹿な事などないとも思っていた。
何故なら、思い描いた『アレ』は民話や作り話の中だけの抽象的な存在のはずで、科学文明の発達した現代では、ただの御伽噺のようなものだ。
――こ、こんな馬鹿な話、聞いた事がない……ッ。
しかし、ユーレンの目の前に在るものを説明するには、それしか思い浮かばない。
図らずも、畏怖を伴う圧倒的な原始本能が囁くのだ――ただ一言『ひれ伏せ』と。
顔も見えない簡素な黒マントに、屈服して許しを請うように、ユーレンの身体は強張ったまま平伏する。
顔も上げられず、ただ不条理なまでに震えるしかない。
人は、自分の想像を越えたものと遭遇した時、あまりにも無力だった。
あの通常考えられない質量を持つ大鎌を携えてここに来たと言う事は、無論、それを使うためだろう。
黒マントは、運命によりユーレンを殺しに来たのだ。
その事実を悟ったとき、鉛を飲んだように胃が重くなり、ユーレンは息を詰まらせた。
――逃れられない。
足が床に縫いとめられたように、動けないのだ。
それは、自分のしてきた所業に気付いて、急に恐ろしくなったからだろうか。
――否、あれは必要な研究だったのだ!
言い聞かせても、体の奥底から『許されない』と言う声がした。
誰でもない、ユーレン自身の声だった。
身体の自由が利かないことにパニックに陥る。
生まれ出る命に、ユーレンが遺伝子操作を施し続けてきた事。
間違ってはいない人類の進歩のためだと、何度も誇っていた研究だった。
だが人の進化のためとはいえ、人の命を無残に奪うことになったのは、事実に他ならない。
生まれてくる子供に、親にとって都合の良い能力を付加することに、どれだけの意味があったのだろうか。
コーディネイターでなくても、生まれてくれば幸せな日もあるだろう。
だが、スーパーコーディネイターが欲しかったユーレンにとって、それ以外はゴミ同然で、欲しい結果でなければ破棄処分を躊躇わなかった。
――仕方ないじゃないか……私は研究者だッ!
ガクガクと震える両手で頭を掻き毟り、ユーレンは取り乱した。
いっそ狂ってしまいたかったかもしれない。
 

拍手

PR

Comments

Comment Form