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タナトス 続き

自分の所業に対する罪悪感に潰され、侵食されていく。
裁きを受けても仕方無いと、垂れ込めてくる闇よりもどす黒い絶望に、ユーレンは顔を覆い、呆然と懺悔した。
あんなに諦められないと粘っていた研究すら、一気に霞んだ。
頭の中は真っ白で、立ち上がる気力もない。
――あの大鎌で身体を裂かれるのだろうか。
ぼんやりと考えながら、よほど特殊な猟奇殺人でも、そんなやり方は聞いた事がないと、頭の隅で冷静に考えた。
生死を司る魂の管理者は、その大鎌を振り上げ、振り下ろす間に何者かの魂を獲ると言う。
昔、きいた御伽噺は、そんな曖昧なものだったのだが、そうやって裁かれた前例をユーレンは知らない。
科学者の端くれであり、神にもなろうと驕った男が『アレ』――つまり死神を信じるなどと、どう考えても狂気の沙汰だが、それとしか呼びようのないものに直面しているのだからどうしようもない。
身体が怯えて、逃げる事も抵抗する事も思い浮かばなかった。
死神ではないかと思い始めた途端に、声すら立てる事が出来なくなっていたのだ。
だが、目の前の影は大鎌を振り上げるどころか、構えるそぶりもない。
指の間から覗いたユーレンの目に入るのは、マントの横――床に突かれた鎌の柄だけ。
それは、初めから一向に動いてはいない。
それなのに、やけに大きく見えるのだ。
張り裂けてしまいそうな緊張が、どれだけ続いただろうか?
――誰か助けてくれ。気が狂ってしまう。
息が苦しくて、胸に穴が開きそうになる。
密度の深い闇に放り込まれて、恐慌状態に陥っている。
瞼を閉じても開いても真っ暗で、どちらが現実か分からなくなって眩暈がしてくる。
視界で蒼白く発光するのは、人工の月だろうか、それとも――。
デスサイズ?
間違えようなどないはずなのに、完全に混乱していた。
どちらにしろ、目の前の大鎌を持った黒マントは、変わらず目の前にいる。
ユーレンは、自分の気が狂ってしまったのだと思い始めていた。
だがその時、人工子宮の計器パネルが点滅しているのに気付いて、我に返った。
さらにカタンと音がして、医療ガスが充填され始めて、完全に異変に気付いた。
計器が異常を示しているのだ。
――失われていく。
人工子宮内の異常を知らせる耳障りな電子音が鳴り響き、その音でユーレンは金縛りが解けたように、飛び出していた。
真っ先に守らなければならないものがあった。
大鎌を支えた影は、それを一度もユーレンに向けようとしなかった。
黒尽くめのマントは、初めからユーレンを一顧だにしていなかったのだ。
狙われているのは自分以外にないと思っていたが、あの人工子宮の中には、胎児の命が在る。
黒マントが見ていたのは、初めからずっと、硝子の向こうで眠る最高のコーディネイターの、その儚い命だったのだ。
――奪われてなるか!
考える前に、体が動いていた。
気付けばユーレンは、よろめきながらも三号機の前に両手を広げて立ち塞がっていた。
息が詰まり、恐ろしくて顔が上げられないが、黒マントの裾は見えている。
それは、すぐ目の前にあった。
荒い息で三号機を背中に庇っても、黒マントからは応えはなく、ユーレンの心臓だけが壊れそうなほど大きな音で打っていた。
トクントクンと、内側から叩きつけるような、変則的な血流の音が胸や耳元で大きく響くのがわかる。
身体中から心臓の音がして、振動で体が震えているのだ。
それは、ユーレンが生きていると言う証。
普段は気にもとめもしない事だったが、命があるからこそ生きていられる。
痺れるほどの緊張に苛まれながら、自分の鼓動が苦し紛れの生を叫んでいるのが分かる。
生きている、生きているのだ、死にたくはない。
――まだ死にたくはない……っ!
死の恐怖に駆られた今、ユーレンは自分が生きているという事を痛いほど意識せずにはいられなかった。
けれど、それを擲ってでも、目の前の研究を守らなければならなかった。
それなのに、どうして後先考えずに丸腰で飛び出したのだろうか?
銃は、デスクの引き出しの中だった。
ユーレンの焦りとは裏腹に、対峙した黒尽くめのマントは、大鎌を天に立てたまま微動だにせず立っている。
思えば、この黒い人影は、初めから一歩も動いた様子はなく、彫像か人形のよう。
蒼白い顔は影になり、全く表情も見えないが、きっと恐ろしい顔をしているに違いない。
生き物ではない何か――きっとこの世のものではない。
悪夢こそ相応しい、対峙するユーレンの目の前に、亡霊のようにただ居るのだ。
静かに佇むその影は、まるで何かを『待っている』ようにも思えて、ユーレンは額から流れる嫌な汗を拭う事も出来ず、ただ負けないように凝視するしかない。
背中に庇った人工子宮から繋がるモニタには、異常を知らせるアラートが鳴っていた。
これは、人工子宮内の状態が芳しくない状態に傾き始めたという予備警報だった。
目の前で、計器の数値は上昇して行き、ユーレンは叫びそうになる。
まるで佇む黒い影が、人工子宮の中の命に、人知の及ばぬ力で干渉しているようにも思えた。
このままでは殺されてしまう。
スーパーコーディネイター計画は、終焉を迎えてしまうのだ。
「こ、これには手を出さないでくれ!」
やっとの思いで絞り出した声は、怯えに震え、ひっくり返っていた。
すでに、広げた両手が鉛のように重く痺れ、垂れ下がっていたが、それでもユーレンは必死に広げて――そして毅然と顔をあげると、黒マントと正面きって対峙した。
目の前は暗く空気は重く、異様な大鎌が妖しく光るだけだった。
あれで一閃された瞬間、すべてが終わるのだと思うと、背筋が凍るほど恐ろしい。
本当は、ここから逃げ出し、再び状況が整ってから、新たにスーパーコーディネイター計画を打ち立てる方法もあったと、今更気づいたが遅かった。
――命がなければ、何も出来ないのに。
汗が吹き出して、背中が冷たくなっていく。
身体は疲労困憊して現実感が薄いのに、ユーレンの頭はやけに冴えていた。
どうしようもない勝負を挑んでいる。
奥歯を噛んで真っ直ぐに見据えても、黒いフードの影になった容貌は影になって見えない。
それが余計に不穏な胸騒ぎを突きつけた。
ただ、青白く光る大鎌は、すぐ目の前にあった。
それでも、身を挺して守らなければならない、それだけで男は両手を広げていた。
その姿を見て、闇の中の黒マントは、ようやくユーレンという人間に気づいたように、そっと首を折った。
影絵の黒が、ほんの少し動くと重い空気が震えたように思えた。
だがそのとき、ビーッ! と、別の機器から不快な電子音が続けざまに長く響き、人工子宮内の胎児の異常を伝えた。
ユーレンは反射的に機材へと向き直り、処置を始めた。
ろ過装置を最大にしても、血圧は二百を越え、どんどん心拍数が上昇していく。
ブクブクと音をたてて濁り始めた羊水の中で、胎児は苦しむ様子もなく、ゆっくりと沈んでいく。
酸素濃度を上げても、ろ過を最大にしても焼け石に水とでも言うように、あっという間に羊水は濁っていく。
これまでの失敗と同じように、為す術も無く狼狽える無力な研究者は、今、自分の置かれている状況を完全に見失っていた。
「何故だ?! 急にどうしたんだっ!?」
人工子宮装置のどこを弄っても、手の施しようがない。
これまでに何度も経験したことと同じ。
「――無駄です。その命はもうじき終わってしまうでしょう。あなたがどう足掻いても、どうしようもないのです」
淡々とした声が暗闇から響いた。
その静かな宣告に背中を叩かれたとき、ユーレンは逆上していた。
「どういう意味だ? オマエが何かしたんだろう!? えっ?」
幽鬼のように、ゆっくりと振り向くやいなや激昂するユーレンの前で、ほっそりした黒いシルエットは静かに首を横に振った。
「その魂は、もうすぐここから離れてしまう。ただそれだけのこと」
「それだけだと!? 馬鹿を言うなッ! 命が離れるってことは――それは」
それは死ぬと言う事だろうか、実験が失敗したと言うことだろうか。
初めての失敗ではないと言うのに、このときユーレンは立っていられないほどのショックを受けていた。
恐怖など吹き飛び、ただ人工子宮装置にしがみつくだけ。
冷たい風が、足元をひゅうと吹いた。
「どんな魂も例外なく、その時が来れば身体から解き放たれて自由になる。――それがこの世の理。そして私は、あなたの目の前の未成熟な魂が身体から離れたあと、迷うことのないよう導くために来たのです」
失意の男の隣で、黒いマントが揺れた。
感情の一切の篭らない声は、穏やかにも冷酷にも聴こえる。
見上げる男には、黒いシルエットが絶望を凝縮した漆黒の闇に見えた。
つまりは、死神がデスサイズを携えて、死を宣告しに来たと言うのだ。
「こんなこと、嘘だ……っ。これは全人類の頂点に達する最高のコーディネーターなんだぞ!? オマエにその価値が分かるかっ?!」
掠れた呻き声をあげて頭を掻き毟ってみても、目の前の黒マントを見たときから、薄々分かっていた事だった。
研究は失敗して、このままスーパーコーディネイター計画の最後の希望はついえてしまう。
これでユーレン・ヒビキは切り札を失うのだ。
蒼褪めて消沈する研究者の目の前で、黒い影は淡々とした少し悲しげな声で告げた。
「死は誰の上にも等しく平等に訪れます」
「嘘だ」
こんな馬鹿なことがあるはずがないと、血を吐くほどに叫んだが、ユーレンの目の前の影は、異質で異様。
万が一、机の中の武器を構えていたとしても、きっと影は身じろぎひとつしないだろう。
そういう存在なのだと、ユーレンは知っている。
「信じてくださらなくとも結構です」
冷徹な言葉に、頭を抱えた男は発狂しそうになる。
「何なのだ!? こんな事があっていいはずがない! そもそもお前は誰だ。誰の許しがあって、私の目の前にいるッ?!」
問いに影は、ゆっくりと瞼を開けて男を視た――ような気がした。
瞬間、ザッと男に鳥肌が立った。
訊かなければよかったと、すぐに後悔したが遅かった。
「薄々お気付きのようですが、私は死神と呼ばれる者です」
ごく簡単な挨拶が、鉛のように男を貫いた。
デスサイズを掲げたまま、黒マント姿のほっそりしたシルエットは、静かに男を見ていた。
男よりも、ずっと若い声なのに抗えない厳しさがあった。
死神と聴いた瞬間、男は鉛弾で撃たれたように、体に力が入らなくなった。
背中から下半身へと衝撃が走って、ミシリと骨が鳴ったのが分かった。
だが、男は鉄を捻じ切るが如く、無理矢理に首を横に振って床を踏みしめた。
「う、嘘だ。そんなものっ――死神などあるはずがない」
「ええ。理解できないのが当たり前ですし、あなたの、その認識でいるほうが幸せです。私はただ、死者の魂を運ぶのが仕事なだけで、追い詰められたあなたの眼に、偶然私の姿が映っただけのこと。今まで通り見えなければ気付く事もなかったでしょう。――わたしは毎日のようにこの場所へは訪れていたと言うのに」
「嘘だ……!」
気迫をこめ、震える息を吐き出して睨みつけても、続かない。
目を開いて現実を見る事を、身体全部が拒絶する。
そんな男の前に、確かに死神は彫像のように立っていたが、同時に存在は空気のように希薄だった。
そして男は、不思議とこの死神を見失ってしまう事が怖かった。
見失ったその時に、すべてが終わるのだと分かったからだ。
力を振り絞って男は立ちあがろうとし、そんな男を、死神は淡々と見下ろしていた。
暗闇で、ぬらりと大鎌が光る。
死神が、ユーレンへと近づいてきたのか、自分で近づいたのか分からない。
ユーレンの背中の人工子宮のカプセルに、死神が動いたように見えた。
魂を狩るつもりなのだろう。
「こんな事は嘘だ! この世に神も仏もいないと言うのに、死神だけがいるはずがない!」
ユーレンの叫びに、顔をあげた死神は、マントの影から見せた清潔そうな唇を自嘲的に歪めた。
「そう言えば、死神にも一応、神と言う名がついていましたね」
硬質な声は、ひどく淋しげに聞こえた。
頭から深く被ったマントのため、辛うじて死神の口元だけしか見えなかったが、唇の輪郭は理知的で、最初に思った通り、まだ若い姿形をしているように見えた。
大鎌は掲げてはいるが冷酷には見えず、神と言われたからではないが神聖で理知的に見えた。
まさに男の目には、誰よりも慈悲深い神に映ったのだ。
昼間、ユーレンが金策に走った者が道化のように思えた。
頼れるのは、この死神しかいない。
それは、一瞬の閃きのような戦慄だった。
一縷の願いをこめて、ユーレンは再び床に両手をついた。
「来てくれたのが死神でよかった。頼む、助けてくれ! お願いだ、あの子を連れて行かないでくれ」
「それは死神に願うことではありません。人には定められた寿命があります。それに則って私は魂が迷う事のないよう、導くだけです」
「それこそ、死神のアンタの采配でどうにかなるのだろう?! 頼む。連れて行かないでくれ」
「残念ですが、理を違えるわけには参りませんし、未熟な魂を迷わせてしまう事の方が、どんなに残酷なことか。……あなたには想像すらつかないことでしょうが」
「そこを頼む! 絶対に私がどうにかする、約束するから」
今の今まで恐れていた癖に、必死の形相でにじり寄り、溺れる人のように黒マントに縋りつく。
「どうか頼む、せめて待ってくれ。あと少しで完成するんだ! アンタだって気付いているはずだ。これは素晴らしい研究なんだ。人類のために、この世に出すべきだ! どうしてもと言うのなら……私の寿命を半分、この子に分けてやる。それならばいいだろう? そうしてくれ――頼む」
そんなユーレンを、死神は静かに見下ろしていたが、答えは簡潔で無慈悲だった。
だが、それでも足元の冷たいマントを力をこめて握りしめ、ユーレンは頭を下げたが、死神はニベもなく顔を逸らした。
「無駄だ」
「そこを頼む、どうにかしてくれ、望む物があるなら何でも出す! 金なら研究が成功した暁に欲しいだけ払う! だから、だからっ」
ユーレンは引き下がらない。
もう、他には何も残っていないのだ。
「そうだ、誕生させる事が出来たなら、私の寿命を全部やる、妻のもやるから! どうだ二人分だ! それならいいだろうっ?」
「そういう問題ではない」
死神は辟易したように唇を、ほんの少しだけ歪めた。
だが、他に方法を知らないユーレンは、断られても何度も床に額を擦り付けた。
何でも言うことを聞く。
自分で足りなければ、足りるだけの魂を差し出してでも、この研究は成功させなければならないと訴えた。
それしか知らない機械にでもなったように、ユーレンは頭を下げ続ける。
金策で走り回った人間相手にでさえ、一度もしなかった事だった。
生身の人間は一度も信じたことなどなかったが、この死神ならば信じられた。
何度も頭を下げ、その足元に跪いて一心に希う。
どうかこの子を助けてくれと懇願し、啜り泣いた。
だが、返事はない。
背後の人工子宮装置からは、アラームが鳴り続いている。
あれが切れたときが、終焉。
黙り込んだままの死神に、ユーレンは時間がないと叫び訴えた。
だが、それでも残酷な沈黙は続いて、ついにアラーム恩が途切れ、諦めかけた男が叫んだ、その時だった。
「やはり人間は……仕方の無い生き物です」
遠くから、低い声がした。
そして呆然と泣いていた男のまぶたの中に、何かが光った。
ポツポツと光は増えて、暗闇だった世界に灯りが点った。
驚いて目を開けば、いつの間にか、いくつもの焔が、周辺全てを取り囲んでいた。
「これ、は……」
光の鱗粉を放つ蝶に見えたが、違った。
死神の足元に跪いたユーレンの周りには、幾千幾万もの蝋燭が灯っていたのだ。
まるで、小さな炎の海原にいるようだった。
長いもの、短いもの、太いもの、細いもの、焔の大きなもの、今にも消えそうな小さな物――形状は様々。
幾千幾万もの蝋燭が、丸い炎を点してユーレンと死神の周りを取り囲み、温かなオレンジ色の光を放っている。
波のようにさざめき、何かを語りかけてくるような光の海。
強い光も弱い光も、瞬くように煌いて、波のように静かに揺れている。
涙が出るほど美しくて、物悲しくもある数多の光は、初めて目にするはずなのに懐かしく、ユーレンの胸には郷愁がこみげて、思わずシャツの上から胸を掻き毟った。
「これは人の命と同じもの。形は様々だが、その者の寿命を示している」
朗々とした声で、その中の一つを死神は指した。
それは、今にも尽きてしまいそうな短い蝋燭だった。
「まさ、か……」
――あの三号機の胎児のものだろうか?
だったら絶望的だと、ユーレンは息を飲んだ。
だが、彼はもっと驚く事になる。
「この蝋燭はユーレン・ヒビキ。あなたのものだ」
死神は、静かな声で指差した腕を下ろした。
瞬間、ユーレンは絶句して目を瞠り、戦慄した。
「まさか……」
「ご覧の通り、あなたの寿命は残すところ、あと少し。だから、あなたの命は誰にも分け与える事など出来ない。あなたの元にも、遠くなく迎えが来るだろう。それは私かもしれないし、私ではないかもしれない。だから馬鹿な事を考えないで、あなたに残された日々を大切に過ごすがいい」
それだけ言い残すと、死神は男の脇をするりと通り抜けようとした。
「ま、待ってくれ! じゃあ、アレの蝋燭はどれだ? 教えてくれ!」
「アレ?」
冷たく問いで返され、恐慌状態になって死神を引き止めたユーレンは、その場に這い蹲り、自分よりも短い蝋燭を必死に探し始めた。
アレと言うのは、今、すでに瀕死の胎児――ユーレン・ヒビキと妻ヴィアの受精卵を遺伝子操作した、すべての中核――彼のすべて。
「アレの、三号機の蝋燭はどれだ?! もはや消えてはいまいな?!」
動転した男の身体は震え、どこだどこだと繰り返す声は、焦燥に掠れていた。
乱暴に探すあまり、倒してしまった蝋燭のその中には、男の妻、ヴィアのものもあったが、男は気付く事はなかった。
その狂乱を全部、淡々と瞳に映しながら、止める事のなかった死神は冷酷に答えた。
「あの入れ物の命は、まだ生まれ出てもいない曖昧な存在。そんなものに命の蝋燭など存在しない」
「生まれ出ていないから……曖昧だと?」
男は顔を強張らせた。
死神は問いに答えない。
だから、さらに男は追い詰められる。
「そんなはずはない、生きていた! 生きているんだ、まだッ!」
男は知っている。
まだ、未熟な心臓は動いていた。
数分前は、かすかな身動ぎも確認していた。
だが、一般人から見れば、曖昧に見えるかもしれない。
それなら何故、この世のものでもない不確かな魂をユーレンから奪おうとするのだろうか。
人の手で遺伝子操作され、人工子宮で作られた命は、神の与えた命の範疇とは異なると言うのか。
だとしたら、男が作り出した命、それは誰のものでもない。
神のものですらないなら――創造主のユーレン自身にこそが、あの命の神に等しいはずだ。
男の作り出した命なのだから、男のものだ。
いつの間にか、死神が非現実的なものだとか、恐ろしいものだとか、そう言った事を、男はついぞ感じなくなっていた。
むしろ、この死神こそが待ち続けてきた味方に思えた。
死神と名乗る黒マントが、明らかに自分よりも若く、与しやすいと思い込んだのと、三号機の胎児誕生に対する男の欲が軒並みならぬほど強烈だったからかもしれない。
「アレの蝋燭がないというならば、アレが生まれる可能性は、お前の言う理から逸脱した存在なのだろう? 命の焔が初めからないのならば、消えなければならない理由も無い、そうじゃないか」
黙り込んだままの死神の前で、ユーレンは狂ったように笑い出した。
そして、笑いながら両の目から涙を零した。
「お願いだ、助けてくれ――助けてくれ……頼む……私の子なのだ。人類の夢なんだ」
そこにいたのは、一人の無力な父親の姿だった。
純粋に、一つの命が消える事を嘆く人間の姿に見えていた。
死神は、静かに男を見つめた。
そして。
「――それほどまでに言うのならば、お前の望みを叶えよう」
声と同時に、男と死神の周りを取り囲んでいた蝋燭が消えて行き、元の暗闇に戻っていく。
まるで世界が転換していくように、あの世とこの世との境目が動いた。
男は仰天していたが、正気は保っていた。
それを死神は、きちんと見ていた。
上か下かも分からぬ漆黒の闇の中、両手をついたままの男の目の前で、そのとき、ふわりとかすかな焔がひとつだけ灯った。
死神の手には大鎌ではなく、一本の蝋燭がともっていた。
何が何だか分からない男に、死神は問うた。
「あの入れ物にある命の名は?」
死神の言葉が意図する意味も分からず、男は首を横に振った。
「父親だと豪語して名も与えてやれぬのか。ならば仕方が無い。迷わぬように、わたしがつけよう」
死神が白い指先を蝋燭にあてて軽くなどると、そこに文字が浮き上がった。
キラ・ヒビキ。
呆然と見つめる男の前で、蝋燭の焔は小さいが強く美しいものへと変わり始めた。
花が咲いたように煌めく温かな光。
その光が手元にきたせいで、死神の顔が一瞬だけ暗闇に映し出されたのをユーレンは見た。
どこぞの王子のような、高貴な容貌だった。
正体をかいま見て驚く男に気付かず、死神は、その蝋燭を差し出してきた。
「あの入れ物の命の名は、わたしがキラと名付けた。これももはや何かの縁。わたしは、あの子の名付け親。あの命が尽きるまで責任を持って見守ることとしよう」
男は呆然と死神を見つめ、言われた言葉の意味を理解すると、はらはらと涙を零した。
言葉が見つからなかったのだ。
「あの子がもう少し育つには、まとまった資金が必要だろう。それは明朝にでも届けることにしよう」
淡々と言う死神の言葉を聴いたとき、男の胸は歓喜に満たされ、他に何も考えられなくなってしまった。
実験を続ける事が出来る。
それだけで、頭がいっぱいになる。
だから、礼すら口にする事もなく、それ以降の死神の言葉を聴き逃した。
「お前は自分の命が長くない事を忘れてはならない。わたしが名づけた命を守る事を一番に考えておくことだ」
それだけ言うと、死神の姿はプツリと音をたてて消えた。
その音がした瞬間、男はハッと目覚めた。
研究室の、自分のデスクだった。
うつぶせたまま、いつの間にか眠っていたらしい。
時計はまだ、夜半で、戻ってからそれほど時間は経っていないようだった。
――可笑しな夢を見たものだ。
身体は痛んだが、デスクの裏のボタンを押して、隣の隠し部屋の扉を開いた。
奥の研究室には、大切な研究が眠っている。
それに異常がないかどうか、調べなければならない。
こんな夢を見たなら、尚更だった。
男は内心怯えながら三号機の前に立ち、ひとつ深呼吸して数値に目を落とした。
そして、ひどく安心して大きな笑い声をたてた。
すべて正常値で、順調だった。
それが嬉しくて、男は仰向いて大笑いしながら元の部屋へと戻り、ソファーへ倒れこんで眠りについた。
翌朝、男の世界は一変していた。
研究所の口座に一面識も無い個人からの莫大な大金が振り込まれ、男をギョッとさせたのだ。
――あれは、夢ではなかったのだろうか?
一瞬だけ頭を掠めたが、思い悩む暇はなかった。
あれよあれよと言う間に、出て行った研究者達が戻って来て、そして運命の日を迎えた。
男の研究が実を結び、スーパーコーディネイター計画が成功したのだ。
だが、キラと言う名を死神によってつけられた子供は、その名で呼ばれる事は無く、人工子宮のナンバーのまま、三号機と呼ばれ続けた。
研究資金の潤った男は、新たなスーパーコーディネイター計画に着手した。
今度は、遺伝子提供者はすぐに見つかった。
ユーレン・ヒビキ博士の人生にとって、順風満帆な幸せの絶頂だった。
このまま量産が可能になれば、高度なコーディネイターだけの夢の世界が出来上がる。
だが、その終焉は実にあっけなかった。
三号機での二例目の実験を開始して、すぐのことだった。
散乱した研究室の血だまりに、男は倒れていた。
周りには、幾つもの研究員の遺体が転がっている。
恐れていた、ブルーコスモスの襲撃だった。
そしてそのときになって、男はやっと、あの死神との邂逅を思い出していた。
――確か、私の蝋燭は、ほぼ燃え尽きていた。
こういうことかと、男はやっと理解した。
『お前は自分の命が長くない事を忘れてはならない。わたしが名づけたこの命を守る事を一番に考えておくことだ』
最後の死神の言葉が脳裏に甦ってきたが、すべては遅い。
血だまりの中で痙攣しながらも、男は頭の中で一つの事だけを考えていた。
三号機の成功例、男の研究の唯一を、ここから連れ出さなければならない。
自分の遺伝子を分けたアレの名前は、何と言っただろうか?
この腕で抱いてやることもなかったスーパーコーディネイター、最高の息子。
あれだけは確保しなければと思ったが、もう指先ひとつ動かせもしない。
凍えた風が吹き、混濁する意識の中で、男は目を開いていた。
いつの間にか傍らに立っていたのは、ほっそりした黒い影。
片手には凶悪な大鎌、命を刈り取るデスサイズ。
そして、その黒いマントに包まるようにして眠る赤子は、紛れもなく男の研究――男の子供。
――名前はなんだっただろうか。
そう、確か――蝋燭に文字が浮かび上がっていた。
一度も名を呼ばなかった男には思い出せなかったが、それがあったことを記憶の断片から見つけた刹那、安堵したのか諦めたのか、薄く微笑んだ男の最後の意識は真っ白に飛び散った。
この日を境に、メンデルのGRAMR&D社は閉鎖され、後にバイオハザードが発生したため、コロニーごと無期限封鎖される事になる。
研究員の遺体はおろか、大量の実験途中の胎児すらも放置されたまま闇に葬られ、すでに誕生したというスーパーコーディネイターの噂も、そのままプツリと途切れて消えてしまった。

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