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ダブルシークレット7

沈黙のあと、アスランの深い溜息が響いた。
「結局……俺は知らなきゃいけなかったことを蔑ろにしていたんだ。そればかりか、今回のこのデータを見て初めて、自分が何も知らないことを思い知った。それなのに分かったような顔をして、キラには普通の子みたいに接する事が大事だとか、まだ子供なんだから難しいことよりも伸び伸びさせておけばいいとか……何だか勝手な勘違いばかりしていた」
「ア、いや、もう別に、あの、そんなアンタを責めているわけじゃないし……っていうか、さっきはちょっと責めてみたけど、あれはつい、カッとなったっていうか」
あーもう! と、前髪を掻き毟るシンの声。
「だって、ねえ! アイツを捨てたことのある俺にアンタを責める資格なんて全くないし、アンタが転々としていた俺らのところまで辿り付いただけでも凄いと思ってる……でも! それはアンタがキラをずっと保護してくれるって前提の話ってだけだ。アンタがキラを一番に考えてくれているのも分かっているさ。でもキラを他所にやるって言うのなら、全部意味のない事だ。俺はキラを一度捨てたけど、アンタなら守ってやれるじゃないか。俺に出来ないそれに腹が立つってだけで、俺がアンタみより力があったらいいわけだから……アンタが悪いわけじゃないってことで。あー、もう! 黙ってないでアレックスさんも何か言ってくださいよ。こっちまで頭がグルグルしてきた」
「いや、俺もグルグルしているし。ここへ来る前のキラに関しては、俺は内向き担当だから詳しく知らないし、ラクスから相談されて動いていたのもアスランで、現在進行形で彼女から相談されているくらいだから、細かい事は任せるしかないっていうか……」
「わー、もう! 俺ら全員グルグルしていて使い物にならないじゃないですか?! ちょっとそれ、貸してください」
奇声をあげるシンの息遣いが荒いに、アスランのぐったりした声が重なった。
「なんていうか、今頃気付くのも申し訳ないが、時々ラクスは口頭で捜査状況の報告はしてくれるのだけど、『こういう細かいキラのパーソナル情報』は全く話してくれたことがなかった。それに口出しするのも不躾だと思っていたから、興味があるそぶりをするのも何だかいけない事のようで……でも、今にして思えば俺は意地を張っていたのかもしれないけれど」
アスランの『パーソナル情報』という声をバックに、ページを捲るような紙の擦れる音が続いた。
そして、さらに幾ばくかの沈黙と、それぞれの深い溜息。
「えーと……アスランさん。これって、アンタが深刻になるほど大事な事なんて何も書いてないじゃないですか。身長、体重は、今よりもちっこいなあってくらいで。キラの資料とか言うくせに、肝心の本人の写真の添付もないし、好きな食べ物嫌いな食べ物とかいう項目、これ本当に必要なんですか? この必須事項にある昼寝に必要な時間だとか、寝間着の推奨生地とかいうのは何ですか? まるで稀少動物の飼育マニュアルみたいですが……っていうか、こっちの後ろの方にさりげなく遺伝子情報があるんですけど、本当はこれが一番重要なんでしょ? なんで一番大事なことが、こんなゾンザイな扱いなわけ? アイツ、本当に大事にされてたんですか?」
憤慨するシンに反して、アスランの声は重い。
「多分ラクスは、キラが自分の元へ戻らないのは、犯人がキラを隠しているのだと確信しているのだと思う。だから一見、無駄なような項目は、囲われているキラが、少しでも快適に暮らせるようにという配慮じゃないだろうか。一見、どうでもいいことのように見えるが、彼女でなければ知り得ることの出来ない、キラにとって大切なことばかりだと思う。俺はそのどれも配慮してやっていない」
「……いや、知らなかったんだから、それは仕方ないんじゃ」
モゴモゴとシンの小さな声が、アスランの声にかき消される。
「何度もチャンスはあったんだから、直接本人に聞けばよかったようなものだと思うかもしれないが、不用意に知れば知るだけキラを彼女の元へ戻さなければならなくなるような気がしたし、多分自分のルールでキラを立派に育てているんだという優越感みたいなものに浸っていたんじゃないだろうか。実際に俺はキラがどれだけ淋しがっていたのかも知らない。この中では一番先に出会っていて、ラクスに捜索を頼まれもいるのに、キラのそばにいてやった時間は、シンよりもアレックスよりも少ない。俺はキラを閉じ込めることしかしていない。それはキラにとって良いことではないって、その報告書を見て思い知ったんだ」
「キラを閉じ込めるだけなのは、俺たちだって同じだ」
「そ、そうですよ! 閉じ込めておかなきゃ猫耳がフラフラ外を歩いていたらどうなるか、アンタだって分からないわけじゃないでしょう? ていうか、それ以前に、あの警戒心のないバカを閉じ込めないでどうするんですか。何も分かっていないガキなんだから危ないんですよ。っていうか、ところでアイツ、本当はいくつなの? 報告書っていからには生年月日くらい載ってるはず……と」
声に続いてカサリと紙が擦れる音がしたかと思うと、シーンと部屋が静まり返った。
今まで陽気だったシンの声がなくなると、物音もなくなり、隣の部屋で固まっていたキラは、そっとドアを振り返った。
――もう終わったのかな? みんな、落ち着いたみたい。
はあと息を吐き出した。
ここに何をしにきたのか、すでに完全に忘れていた。
キラの頭はグラグラしていた。
もう本当に撤退しようと、入ってきた窓へと向かおうとしたとき、突然弾けるような笑い声がした。シンだった。
「なーんだ、コレ偽物ですよ! あは、俺たち、何マジになってんの? バカらしー」
やけに明るい声だった。
だが、空気はしらーとしたまま、それに応える返事も笑い声もない。
「まさか、コレを信じたんですか? やだなあ、二人揃って。ちょっと考えたら、こんのあるはずないじゃないですか。決定的な偽情報の証拠ですよ、だいたい生まれた年を間違っているところからして別人でしょう? よくいるんですよね。こういう早とちりする奴って」
「それは、ラクスが直々に関係機関に送っているし、様式も正式なものだ」
「えっと? アスランさん、何いってんの? だってこれ、どう見たってオカシイでしょ? ……って、まさかアンタら、これ本気で信じたんですか? もしこれが本当だったら――アンタらと同じってことですよ?」
「いや、俺達は十月だから、それより五カ月早いってことになるな」
ぼそりと聴こえた声は、キラには双子のどちらのものか分からなかった。だが、うろたえているのは明らかにシンだ。
「いや、だから、オカシイでしょ? アリエナイでしょ?なんで二人して、まるっと信じてんですか? アレックスさん、アンタ、いつもはもっと冷静でしょ?! アスランさん、何、暗くになっているんですか。これ絶対にオカシイですって! 何で、こんなガセ情報にショックを受けてるんですか、ねえ?」
シンの声だけが虚しく響くが、キラには内容が把握出来ない。
――お仕事の話なのかな?
「だから、この報告書が本物のわけないじゃないですか」
弾き飛ばすように自信満々で笑うシンの声がするのに、部屋に漂う緊張感は緩む事はない。
「シン……日付は間違いではないと、思う。朧げではあるが、なんとなく聞いた覚えもある、それから――キラにはまだ」
「あー、いいですって!」
重い口調のアスランに反して、遮るシンはそれを全く取り合う様子はない。
「そのことはこっちに戻ってからすぐに、オタクの執事さんから五月十八日のことは一通り聞いたんですけど、何か説明が面倒だったから、キラには教えなかったんですよ。ホント、ガセ情報を信じて安易に説明しなくてよかったですよ。それじゃなくても『ナゼナニ』煩いのに、下手に教えてたら撤回も面倒ですし。でもまあ、一応聞いたからには、とりあえず俺は、その辺の菓子で機嫌をとっておきましたよ。あと、髪も洗ってやったし、一緒にゲームもしてやったし――って言っても、いつもと同じだから何も気付いてないでしょうけどね。まあ、本人はおろか、こっちも何も知らなかったから、多少は思うところもあったんですが、なんて言うか……ホント、この報告書はないですって! 今月ピンチだから、本物だったら、もう少し良い物を買ってやらなくちゃとか、後ろめたかったからホッとしましたよ」
シンが溜息をついたそのあと、再び沈黙が続いていたが。
「――そんな顔で睨むなよ。言いたいことがあるなら、ハッキリ言えばいいだろ」
不機嫌を押し隠すような声色は、アレックスだった。
ということは、同じく黙りこんでいたアスランも同じなのだろう。
というか、あの部屋の中に不機嫌じゃない人はいない。
「おまえ、いつもそうやって黙ったまま人を動かそうとするよな。悪い癖だ」
突き放すようなアレックスの声が、キラの近くのドアに向かって響いた。
「別に……俺は何も言っていないだろ? 勝手な言いがかりをつけるな」
憮然としたアスランの返答にチッという舌打ち。
「まあいい。こっちを守ってた義務だから教えてやるよ。……俺は一週間ほど前、アデスからその報告書を貰ってすぐに、プレゼントってわけじゃないが、『その辺にあった』ヒヤシンスの水栽培セットを渡しておいたかな」
「へえ、さすがアレックスさんだな。それってキラの部屋の窓にあったあれでしょ? なんか、すごく大事にしているみたいで昨日の夜、見せてくれましたよ」
シンの言葉を聴き、まんざらでもなさそうにアレックスが喉で笑ったようだった。
「五月はデザートに毎日ケーキを食べさせていたから、十八日も確実に食べさせてるはずだ、きっと」
「やだなあ、アレックスさんでもあんなのを信じたんですね? でも、冷静に考えて変だって気付いていたんでしょ?」
「いや、シン……それとこれとはちょっと」
「いい加減にしろ」
口ごもるアレックスを遮るように、ドンと大きな音がした。机を叩いたのかもしれない。
「この報告書は本物だ。書いてある内容も正真正銘の事実で、ちゃんとラクスの署名もある。それが何よりの証拠だ」
「そんな怒らなくても、っていうか、正真正銘って言われても、とにかくそんなわけないですって! だって、あんなチビで菓子のオマケで狂喜乱舞するオコサマですよ? ナイナイ」
手を振る様子が分かるようなシンの声に、アスランの疲れ切った溜息がさらに増えた。
「シン、真面目に聞いてくれ。アレックスもシンによく説明してやってくれ」
「説明っていうか、俺にはなんとも言えないが、ラクス・クラインの署名が本物なのは確かで――シンの手にある報告書の真偽に関しては、それが全てとしか言いようがない」
「え?……えと? だから?」
「クライン家の懇意にしているドクターからきちんと裏も取っている。そのドクターは誕生する前からキラを知っていた。そしてメンデルの極秘資料の中にキラのデータはあったそうだ。――キラはメンデルで特別に作られた子供だ」
「メンデルって、あの――」
シンの声が急に細く小さくなって、キラは不安になった。
――メンデルって何? 何かよくない事だろうか?
わからない。
ただ、アスランの声がよどみないのが怖くなった。
「信じられないのは俺も同じだ。……結局は普通の子とは違う、そう言う事だ」
「ちょっと待てよ。俺だって、それは分かっていたさ。でも、だってアイツが特別でも、それは猫耳ってだけで、どう見たって普通のガキだし……」
「本当に普通なら狙われることなどない。本来なら、このデータも機密に値する。データの内容はキラの」
「そんなこと! そんなのは分かってるさ。でもやっぱりその日付からして変だろ、アリエナイ。絶対に信じられるかよ」
シンは強い口調で憤っていたが、戸惑うように何度も口ごもる。
ただアスランだけは淡々としていた。
シンの声は掠れていて、泣いているように聴こえた。
ドアの向こうは、みんなの声が小さくくぐもり、聴き取るのが難しい。
「シンの気持ちも分かるが、事実は事実として認めたうえで、今後のキラに対する一定の指針を決めておかけなければいけないだろう。それが不十分だとしたら、ここにキラを置いておくことがキラ自身の為にならないことになる。このデータを見せられた以上、子供だからと侮って囲っておけばいいと言うわけにはいかない」
「だから、俺は信じないって言ってるじゃないですか! だって今さらどう接すればいいんですか? アンタだって他人事じゃないんですよ? 数ヶ月とはいえアンタよりも上ってことなんですから」
潜めてはいるが、シンは憤っていた。
キラには良く分からないが、やはりすごく大事な事を話しているのだろう。
キラには教えて貰えない、大事なこと。
教えて貰っても、きっとどうにもならないことだ。
不安定な身の上は、その精神をも危うくしていく。
そして、まさに隣の部屋でアスランが危惧していることのひとつは、キラに不安を抱かせ、淋しい思いをさせているということで、それは何度も執事からの報告に挙がっていたことだった。
ドアの向こうにいる皆が小声になって聴き取りにくくなると、余計に不安になってしまい、キラは、もう一度ドアを手で触れようとした。
少しでも、みんなの近くにいたいのだ。
けれど同時に、猫耳を持つ以上、そう出来ない理由があることも思い知る。
ドアではなく、キラにしか見えない城壁が聳えているようだ。
不穏な空気が自分のせいだと分かるから、近寄るのが怖くなる。
――っていうか、本当に猫耳がすべての元凶なんだよね。
現実は、容赦なくキラの胸に突き刺さる。
平和な世界に紛れ込んだ異端者。
それは今さらだったが、どうにもならないのが可笑しくてキラは笑ってしまう。
けれど、笑ったら涙がこぼれてしまうのは何故なのだろうか。
仕方のないことなのだから、いい加減慣れなければいけないのに、キラの心は弱くて、勝手に悲しくなって困ってしまう。
平気な顔ができないなら、もう皆の前には出られない。
あのドアに近づいて知ってはいけない。
知ってしまうと笑えなくなる。
――とりあえず、見つからないように消えなきゃ。
向こうは、まだ言い争いが続いているのが分かる。
よく『喧嘩じゃなくて話し合い』だとアスランやアレックスは言うが、理解出来ないキラは不安になるだけだ。
大好きな人たちが争っているのは自分のせいのような、そんな気がする。
それを確かめる事も、どうにも出来ない事も受け止められない。
考えていると、眩暈がしてくるのだ。
ただ、ひどく悲しい。
前が見えない。
にじんだ世界に、ふらりと足を踏み出したそのとき、突然足がもつれて倒れてしまった。
絨毯に膝をついたとき、傍の家具とぶつかったようで何かが落ちる音がした。
そのとたん、騒がしかったドアの向こうの話し声がいっせいに止まり、一転してあたりが静まり返った。
そのまま、何も音がしない。
――どうしよう、バレちゃったかも。
キラは床に手をついたまま、固まった。
胸の奥から不穏な音が鳴り響いて、内側から壊れてしまいそう。
――どうしよう。
今にも飛び出しそうな胸のその場所を手で押さえ、身体を丸めて目を閉じる。
すると、瞼の中の暗闇が重く圧し掛かってきて、それはキラの力を完全に奪った。
ブラックアウト。
急速に意識が遠のいていったことも、キラが気付くことはなかった。

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