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なのなのとりかご @ 普通より遅くてもここがとりかご速報ですPAGE | 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 | ADMIN | WRITE 2011.06.01 Wed 03:34:23 ダブルコール 6着せて貰った裾の長いパジャマはクタクタした柔らかなガーゼ素材だったが、キラには大きくて袖から手が出ていない。
これでトレイをもつと肘まで袖が落ちてしまうだろう。 ――本当にこれでいいのだろうか? 大きめの上着はガバガバで、完全にキラは着られているのだが、バスルームから出た途端にメイドから手を引かれ、執事の元へと急いで走らされた。 「キラ様っ、大丈夫ですか? 本当に申し訳ありません、時間に遅れると面倒なことになるので」 「へ、へいきですっ。っていうか、遅れてしまってすみません」 自分で髪を洗うのが苦手なキラは、身支度が下手なのだ。 それもこれも、全部猫耳のせいだとキラは思う。 要領が悪く、何かと遅れるせいで、頻繁に執事から叱られているので、怯えるメイドの気持ちは痛いほど分かる。 オデコ全開で走って、何度も裾を踏んで脱げてしまいそうになったが、なんとか執事の元まで辿りついた。 「時間通りですね」 言いながら執事は手早くキラの襟を直してくれ、布の手触りを確かめるように肩から腕へと手を滑らせて、満足したかのように頷いた。 「髪が完全に乾いておりませんが、まあいいでしょう。寒くはありませんか? あまり御時間を差し上げられませんでしたが、大丈夫でしょうか?」 執事として、キラの体調確認を消化しなければならないのだろう。 淡々と問いながらアレックスの部屋の前まで付き添ってくれ、ドアの前のワゴンをキラに見せた。 「では、ここからがキラ様のお仕事です。たぶんまだ、アレックス様は書類に目を通されている最中で、お眠りになられる状態ではないと思いますので、お部屋に入られましたらハーブティーの準備をお願いします。カップは二つ用意してありますので、よろしかったらキラ様もご一緒されると良ろしいでしょう。それでもアレックス様がベッドに入られる様子がありませんでしたら、キラ様が眠らせて差し上げてください」 「ね、眠らせてって……」 ――どうやって? 当たり前のように言われても、意味が分からなくて戸惑ってしまう。 そんなキラに気付かず、執事は小さな溜息をついた。 「今のアレックス様は連日の過密スケジュールのまま暴走中の状態なのです。昨年まではここまで酷くはなかったのですが、毎朝チャージなさったキラ様の力が効き過ぎて終われなくなってしまわれたのでしょう。神経だけひどく昂ぶって冴えておられますが、もうお身体は限界のはずです。ですのでキラ様のお力で暴走状態を鎮めてさしあげてください」 「鎮めるって、そんなの……だって、そんなのやったことないです」 前にシンが飲んでいた睡眠剤を飲んで貰ったらいいのだろうか? この間帰って来たとき、シンが仕事で疲れているのに眠れないと言って飲んでいたのを知っている。 あの薬は、まだシンの部屋にあっただろうか? あれと同じものを、執事はもっていないだろうか? 説明したいのに、そんな余裕も与えてもらえそうにない。 「申し訳ありません。……今にして思えばキラ様とツリーの飾り付けをして頂いたほうがよかったかもしれませんが、完全に緊張感を途切れさせてしまわれても困るのです。アスラン様とアレックス様にはザラ家を守っていただく義務があるのです。それは御二人とも一番に分かっておられるとは思いますが」 本来ならば、猫耳の子供にかまう時間などないのだと執事は言っているのだ。 分かっていた事だが、キラは消えてしまいたくなる。 「大丈夫ですよ。とりあえず暴走状態のアレックス様に眠って頂ければ良いだけですから。キラ様が傍にいて下されば、きっとそれで収まりますから」 キラ様の効能が予想以上でしたと、執事は招待客リストを見せた事を後悔しているようだったが、キラはそれどころではない。 「あの、だから寝かしつけるって……そんなのどうやって」 起こした事はあるが、眠らせたことなど一度もない。 キラの経験の中で、そんな仕事は今まで貰った事がないのだ。 だが、有無を言わさず執事は笑ってキラの背中を押した。 「なに大丈夫です。キラ様なら簡単にお出来になられます。さあ急いで」 おざなりなノックでドアを開かれ、キラはワゴンのハンドルを握ったまま後ろから背中を押されて、部屋へと押し込まれた。 「あの……」 振り向いた目の前でドアが閉まり、後に引けないと知る。 久しぶりの執務室はよそよそしく、配置も何も変わっていなかったが、確実にキラを歓迎していないような気がした。 一つだけ開いたままのカーテンを見つけて、キラは窓辺へと歩いて行き、カーテンを握り閉めると、ツキンとした冷気が尖った耳に突き刺さる気がした。 薄暗い庭に、いつの間にか白い雪が降りてきていた。 確か、夕方から冷え込むと執事が言っていた。 雪を見るのは初めてではないが、この冬、初めての雪だった。 みるみるうちに外が真っ白に覆われていく。 飾り付けの途中だったクリスマスツリーにも、雪をつけたら可愛いかもしれない――などと考えていると、すっかり身体が冷えてしまった。 ――グズグズしていたら、お茶が冷めちゃうかも。 ワゴンを押して奥のアレックスの私室の前でノックをしたが、返事はない。 「本当にいるのかな? ……もしかしたら、もう寝ちゃっているのかも」 息をひそめ、ほとんど聞こえないくらいの強さのノックでドア開いて覗き込むと、部屋の中央のテーブルの向こうにガウンの背中が見えた。 机に向かっている様子では、まだ仕事中なのだろう。 奥のベッドに、シーツの乱れは全くない。 眠るつもりはないのだろうか? まるで声をかけるのも憚られるほど真剣で、周囲の音すら届いていないようだった。 気付いて貰えるまで待とうかと思ったが、それは難しそうだった。 ぶ厚い資料を捲る音だけが静寂の中で響いた。 幸い部屋は暖かくて、キラは少しだけ安心した。 ――とりあえず、お茶を入れよう。 ワゴンをテーブルまで押して行き、ティーカップをセットして、ハーブティーを注ぐ。 音を立てないように気をつけたが、どうしても上手くできない。 それでも、カチャカチャと音はしたはずなのに気付かれてはいないようだ。 胸を撫で下ろしつつも、気付いて貰う努力をしなければならないことに緊張する。 「あの……」 声をかけてはみたが、全く反応がない。 どうしたらいいのだろう? 抱えていたソーサーをテーブルに置くと、カモミールの甘い香りが、ふわりと辺りに漂った。 そのときだった。 「キラ?」 「……っ、ぇ?」 思い付いたように名前を呼ばれて、キラは飛び上がって壁に貼り付いた。 いつもより声が低く、怒っているように聴こえてしまったのはきっと聞き間違いではなく、後から思えばアレックスの疲れがピークを振り切っていたせいもあったのだろうが、いつもより蒼白い容貌に眼差しも険しく、細い眉は怪訝に顰められていたのだ。 ジャマをしてしまったのだと、瞬時にキラは蒼くなる。 「あ、あの。ノックはしたんだけど」 「そう。気付かなかった」 仕事そのままの、冴えたエメラルドの瞳を向けられると、きっと威張りんぼうのシンですら心臓を打ち抜かれて息が出来なくなっただろう。 先ほどまでは優しかったのに、今はもう仕事の邪魔だと言われているのが分かってしまう。 「あの、お茶を」 「ん……」 緊張して声を出したのにもかかわらず、おざなりな返事に力が抜けそうになる。 キラがカクカクしながらティーカップを机まで運び、そして置く。 その間も、怜悧なエメラルドの瞳は書類を追っていて、いつもみたいにソーサーも受け取ってくれない。 ひどく集中しているのだろう。 まるで石像のように、ほとんど動かない。 キラの目の前にいるのに、ここではないどこかを疾走しているのが分かる。 まるで暴走して止まることも着地することも出来なくて、燃料切れまで飛ばなければならない戦闘機のよう。 こんな状態のこの人を、どうやって着陸させて眠らせたらいいのだろう? 見当がつかなくて、少し怖い。 それでも、どうにかして眠らせてあげなければ、壊れてしまう。 「あの、もう少し、ここにいてもいいですか? ジャマはしないから」 机の横の、アレックスの肘に手が触れる距離でキラは勇気を振り絞ったつもりだったが、返事はなく気付いて貰えない。 「あの……」 返事が貰えないと、そのまま立ち尽くす事しか出来ない。 ――出て行けと言われないだけ、マシかもしれない。 キラは、黙って隣にいることに決めた。 部屋の温度や気圧のせいだろうか。 まだ宵の口にも満たないのに、立っていると少しだけ頭がフワフワしてきていた。 ひどくだるくなり、眠い。 カモミールの香りのせいか、瞼が重い。 ――眠らせてあげなければならないのに、自分が眠ってどうするんだろう? それも立ったままなのに。 ついには立っていられなくなってしゃがみこむと、何故か椅子に座ったままのアレックスは、キラの額の髪をかきあげるように梳いた。 サラサラで柔らかな手触りが気に入ったように、何度も髪に指を突っ込んで撫であげられて、猫の耳を押しつぶすように地肌に触れられる。 じっとしているキラのコメカミで長い指が止まり、それから頬をなどって頤、そして唇へ。 書類の上から離れなかった視線が、急に気付いたように机から下へと落ちた。 「え? キラ?」 ザラ家の賢い番犬と間違えられていたのかもしれない。 確か時々、執務室で昼寝をしていることがあった。 「どうしてキラがここにいるんだ……」 呆然と呟いて、アレックスは自分の手を見つめていた。 それは、先ほどまでキラを撫でていた手だ。 明らかに動転している様子に、キラも少し目が覚めた。 「あの……少しおやすみされるようにって、アデスさんから言われてきました。ひどくお疲れだからって」 「そうか。そうなのか……驚いた」 釈然としない表情も、薄い微笑みも、すぐに疲労の濃い表情の中に消えていく。 いつもよりも眼の力が弱い。 本当に、このまま眠って欲しいとキラは思ったが、アレックスはキラの言葉が分からないのだ、残念そうに首を折った。 「遊んであげられなくて、ごめんね。待ってくれているのに悪いね。なるべく早く終わらせるつもりだけど、まだ終わりそうになくて――。ツリーの飾りつけは、明日にでも」 本当に申し訳なさそうに言われて、キラは無理に笑って後ずさった。 「そんなのいいんです。それよりも――あの、ここにいても良いですか? ジャマはしないから、あの」 もしも机で眠ってしまったら、ベッドに運んであげたかったのだ。 それが体格的に出来るとは思わなかったが、そうしてあげたかった。 けれど、また書類から目を離そうとしないアレックスは世界すべてを拒んでいるようで、キラは思わず後ずさり、そのまま部屋中央の大きなソファーへ座った。 窓の近くなのだが、カーテンがしまっている。 雪が降っているせいか、やけに静かだ。 「そこ寒くない?」 不意に声がした。 初めは独り言なのかとキラは思った。 何故なら、アレックスはこちらを見ないから。 けれど、たとえ独り言でも、返事はしなければならない。 全くこちらを見ないアレックスに問えようと、キラは直立不動で立ち上がった。 「だいじょうぶです。気にしないでください」 「あ。そう……」 キョトンと反応の薄い表情で、アレックスは顔を上げた。 そして、手を振って座るように促すと、無感動にキラを見た。 「そこ、ブランケットがあるからあったかくして。それから眠くなったら我慢しないで言うんだよ。誰か迎えに来させるから」 親切で言われても、部屋にかえされては困る。 「へいきです! お仕事終わるまで、ここで起きています」 重いため息が部屋に帰って欲しそうに聴こえて、何か他に興味を引きそうな話題を思い浮かべたが、なかなかそれも難しい。 さりげなく子守歌や読み聞かせがいいのだろうか。 考え込むキラを、頬杖ついたアレックスはちらりと見た。 「とりあえず、座って。それから何かオネガイとかオネダリとかあるなら言ってみて」 「そんなの……何も」 まさか、執事から眠らせるように言われているから、早く眠って欲しいとは言いにくく、キラは無理やりに明るく微笑んだ。 「それよりも、熱いうちにお茶をどうぞ。お代わりもありますよ」 「ああ、ありがとう」 やっと礼を言って貰うと、キラはホッとしてワゴンに戻った。 そして自分の分のハーブティーもカップに注いで、ソファーの前のテーブルに置くと、先ほどよりも強い林檎に似た甘い香りがただよってきた。 カモミールは安眠とリラックス効果があると言うが、キラはよく知らない。 一口飲めば、幾分身体が温まってくる。 ――とりあえず出来る事はここまで。 アレックスの仕事はまだ終わる様子はない。 退屈で眠い時間が、ゆっくりと流れていく。 キラが5人は座れそうなソファーは、フカフカで柔らかい。 手足を縮めていると、再び瞼が重くなり、ほどなくキラはそのまま眠りこんでいたらしい。 どのくらい時間が経ったのだろうか? ふわりと柔らかな感触に包まれて、キラはうっすらと目を覚ました。 まだ、部屋の灯りは薄く灯ったままだ。 「……まぶし」 「あ、ゴメン、起こした?」 耳元で聞こえるアレックスの声は丸まっていて、とても近い。 瞼をあげると、ブランケットごしに端正な容貌が見えた。 本当にアレックスだった。 一瞬、ここがどこなのか、綺麗さっぱり忘れて分からなかった。 「キラってすごく……いい匂いがする。柔らかくて抱き心地も……」 ぎゅっと抱き締められて首に顔を埋められ、くすぐったくて、キラは首を竦めた。 「あの」 「いい匂い……ボディソープ新しいのにかえた?」 明らかに眠ぼけて囁く声は疲れているのに、クスクスと喉で笑って可笑しそう。 テンションがオカシイ。 状況は、キラは眠ってしまったらしく、何故かアレックスに抱きしめられて、ソファーに転がっていたのだ。 「悔しいな。あと資料は少しなのに、キラの寝息を聞いていたら、もう限界で無理……抗えない、眠い」 アデスは卑怯だと――キラの使い方をマスターしすぎだと、責めるようにギュッと抱きしめられて、キラは息が止まりそうになる。 眠ってしまうアレックスに反して完全にキラは目が覚めた。 「あ、あの、眠るならベッドに行ったほうが」 「まさか」 「あの、でも」 「……せっかく捕まえたのに、無理。時間ももったいないし、眠いし。キラは俺の名前も呼んでくれないし」 まるで酔っ払いのようだが、声がとろけそうに甘くて、抱きしめる腕はどんどん強くなる。 それに。 ――名前って……。 呼んであげていないことを、眠っていても覚えているのだ。 「それは、もう少し待ってください」 思わずキラは、目の前の胸を押した。 喉元まで出かかっていて、あともう一押しなのだ。 呼ぶべきなのは分かっているし、疲れているこんなときに呼んであげたらいいと思う。 別に大層なことではない――それでも、彼をアスランと呼んでいた時期があることも手伝い、罪悪感もある。 寝ぼけている今がチャンスで、勇気を出して仰向いたそのとき。 「でもアイツだったら、呼ぶくせに? で、もうすぐ戻ってきたら、また俺よりアイツを優先するんだろ? いつだってアイツは特別だし、アイツがキラを連れてきたんだし、アイツにキラは懐いているし」 プライドの高いアレックスがそんなことを言う。 正気なら言いそうにないくらい疲れているのだと思うと、目を閉じたままの言葉は、やけに弱気に聴こえた。 やつれた頬を指先で撫でても、全く目を覚まさない。 「あの……アレックス、さま」 返事はない。 やっと声に出せたのに気付いてもらえず、胸を押さえてホッとしたが、同時に落胆もしていた。 「アレックスさま」 もう一度小さな声で、そっと名前を呼ぶと、呻くような小さな返事が返ったと同時に頬を撫でられ、その手が首に下りていく。 掌は、とても温かかった。 着せて貰ったシャツは、キラには襟ぐりが大きいため、飛び出した肩を温かな掌で包まれて初めて、冷えていたのだと気付いた。 冷たい場所を探すように動いていた手は、キラの肩で止まり、そこを包みこんだ。 目の前にあるアレックスの手首に首をのせると、ひどく安定していて居心地が良い。 そのままキラは、じっと目の前の端正な寝顔を見つめた。 また目が覚めたらジャマだから遠ざけられて、会えなくなるかもしれない。 それも、こんな疲れた寝顔を見てしまうと、仕方ないような気がしてきた。 「アレックスさま。たくさん眠って、お身体を休めて下さい。――ツリーの飾り付けはテキトウにするからだいじょうぶです」 「……ん」 返事が返ってくるのが可笑しくて、少し切ない。 「あまり無理をなさらないで下さいね」 「……ん」 「お仕事のとき、ちょっとは思い出してくれていましたか?」 「……うん」 たとえ嘘でも、疲れて寝ぼけているからでも、嬉しくてキラは笑った。 ほとんど誰とも話せない日が続いていたキラには、返事が返ってくるのは楽しくて仕方ない。 色んな質問をして飽きず遊んだが、アレックスは「うん」と簡単に応えてくれる。 毎朝、オヤツを聞いてくれたというアレックスは、こんな感じで楽しんでいたのだろうか。 「そういえば明日の朝ゴハンで、食べたいものとかありますか?」 「……うん……キ、ラ」 珍しく発せられた、うん以外の言葉だった。 「えと、キラ……食べるの?」 「……うん、たべる」 質問の答え的に進歩しているのは確かだが、食べると言われても困る。 キラは寝言のオヤツを出して貰っていたが、上手くいかない物だ。 ――困ったなあ。 目の前で幸せそうに微笑む寝顔を、キラは大きな菫色の瞳で見つめた。 困りはしたが何故だかくすぐったくて、アレックスの胸に額をグリグリと埋めた。 ――もう寝よう。 机のライトを消せないのも、ベッドまで運んであげられないのも、自分の部屋にかえらないのも、もうどうでもいいと思った。 居心地の良い腕の中。 アレックスの見ている夢を、キラも見たいと思った。 それかキラの夢を見せれば、アレックスも食べたい物を教えてくれるのではないだろうか。 食べたい物は目が覚めてから訊こうと、キラは目を閉じた。 クリスマスは、そこまできていた。 PR 2011.05.18 Wed 21:38:29 きらたん2011.05.16 Mon 02:40:57 ダブルコール 5出来る事なら首を横に振って、大声で泣いて駄々をこねてしまいたい。
だがそれをしたら、ここへ置いて貰えない気がして出来ない。 そのとき、キラの肩に舞い降りたトリィが鳴いた。 それは、駄々をこねていいと言っているようにも、我慢しろとも聴こえたが、きっとトリィにもお手上げなのだろう。 ここでトリィと一緒に待っている――それが正解のはず。 だが、本当の正解を出したのは、げんなりした様子のアデスだった。 「僭越ですが――さっさと片付けて来る、で済むわけがありませんので。一旦、アレックス様にはお休みいただきます」 「いや、いいよ。すぐ出来る」 穏やかな答えにも、やり手の敏腕執事のアデスは動かない。 「いいえ。アレックス様は明け方の一時間だけしか仮眠をとられておられません、それも今日で十日目。お身体は、そろそろ限界を越えておられるはずです」 「もう少しくらい、大丈夫だよ」 苦笑するアレックスがアデスの抱える資料へ手を伸ばそうとしたが、執事は無表情のまま、その厚いファイルを譲らない。 「大丈夫かどうかなどと――キラ様の部屋へ赴いて、毎朝、貴方を起こして差し上げていたわたくしに仰られるのですか?」 アレックスの身体が、慌てたようにガクンと傾いだ。 ――部屋に赴いて? 察しの悪いキラにもかすかに引っかかった。 コキンと首を傾げて後ろのアデスを振り返ろうとしたキラの頭をグイと両手で押さえながら、アレックスの声がひっくり返った。 「ちょっとそれは」 「ええ、ええ。それはも何も、その仮眠の貴重な時間を使ってキラ様のお召し上がりたいオヤツを聞き出しておられるのですから、実質、アレックス様の睡眠時間は一時間には満たないはずです」 執事の言葉に、ピクンとキラは顔をあげた。 一時間も眠ってないというのに驚きはしたが、それ以上に反応せずにはいられなかった。 「……キラの部屋でオヤツって」 そんな話は聞いていないし、全く気付かなかった事だ。 ――部屋にいたの? どうして? なんで? まさか毎朝見ていたのは夢ではなかったのだろうかと問いたくて無理やり見上げたが、言葉に出来なくて黙りこむ。 それでも大きな菫色の瞳で見つめられたアレックスは、明らかに動揺していた。 間近で、そんな動揺が見て取れると、不安になる。 「いや、だから……」 口ごもり、バツが悪そうに目を逸らされて、キラは唇を噛んでいた。 自分だけが知らないことや、出来ない事が多すぎて、それがキラを傷つける。 だが、現実的に本当に困っていたのは、アレックスだろう。 しゅんと落ちこむキラの前で、らしくもなく慌てるアレックスをチラリと見た執事が、嫌そうにこぼした。 「アレックス様、これ以上キラ様を困らせたり、苛めたりなさらないようにお願いします」 「いや、そんなつもりなんか全くないけど。あの、ごめんね、キラ」 アレックスが、どこか痛むように片眉を顰めた。 だが、キラは何故謝られるのか分からない。 垂れた猫耳を撫でられても、自分だけ仲間はずれなのだといじけてしまう。 「そんな顔しないで。俺はキラを苛めたりなんかしないよ? もう二度と酷い事もしない」 言いながら、アレックスは今度は腰を折った。 そして、身じろぐキラの頭に額をつけてアレックスは誓うように囁いた。 「キラのことが大好きだよ――ずっとこうして傍にいたい」 とろけそうに甘い言葉の応酬は、第三者が赤面してしまうほど真摯だったが、ままごとのようでもあった。 ただそこは、アレックスにとっての幸せな世界が展開していた。 さすがに疲弊して眼光に力はないが、その効果すら利用して可愛いがっている子供を泣かせる、そのそつのなさ。 ナデナデと亜麻色の細い髪に指をからめる表情は、夢をみているようで、執務中の彼のサイボーグのような無表情と容赦のなさを知る側近が見たら、今まで耐えてきた彼らでさえ書類を涙で濡らしたかもしれない。 大きな取り引きをするためには、非情になることも大切で、そうでなければ組織は成り立たない。 それを完璧にやり遂げるアレックスの手腕には感服し、賞賛を送るものではあるのだが、自分を遠ざけた主人を心配しながら、小さな背中を丸めてツリーの飾りをつけていた猫耳を毎日見て来た執事は、本人の意図せぬうちに意趣返しを断行していた。 それは、アレックスの意図も知らずに泣きぬれる小さな背中に、とてつもない庇護欲と、その待遇に対する腹立たしさを覚えたからだ。 わざとらしく溜息をついた執事は容赦なかった。 「確か――近くで眠りこけられると、つられて一緒に眠っておしまいになられるから――でしたか? お二人共仰っておられたのですが、今回は切実でしたようですね。激務でございましたから仕方もありませんが」 揶揄するよりも、むしろ困ったようにハンカチで額を拭い、そして執事はわざとらしい溜息をついたのだ。 やけに所作が重々しい。 「なんというか、今回アレックス様には珍しく、自信のないことを仰られて無理やりキラさまを遠ざけられたくせに、実は、ご自分だけキラ様の寝込みに忍びこんでチャージなさっておられて。そうやって何も知らないキラ様だけを淋しがらせる所業は、なかなかの策士であると唸ってしまいますな。初めに言いつけられたときは、凡人の私どもにはアレックス様の真意の分からず、ご命令のままにキラ様のベッドに突っ伏しておられるアレックス様を、お迎えさせておりましたが、それが今日の日の、この瞬間のためだったと、ようやく今、合点がいきました」 にこやかでありながら、とてもあからさまで辛辣な執事の言い様に、アレックスは頭痛が痛むように額を押さえて呻いたが、キラはまだ事態を把握していなかった。 「あの……?」 ――チャージってなに? 訊きたくてそっと見上げても、アレックスは視線を泳がせて取りあってくれない。 キラの身体はアレックスの腕で固定されていて動けないのだ。 だから諦めて背後の執事を無理やりに振り返った。 すると、あまりににこやかにしている執事と目が合い、恐ろしくて、さっと顔を戻した。 執事の視線はキラと交わらない。 結局キラには、何が何だか分からない。 キラの頭の上の苦笑いを含んだアレックスの声は、珍しくしどろもどろだ。 「そういえば、何も知らずに淋しがっておられるキラ様のご様子の報告を申し上げるだけでも楽しそうでしたのに、こうして、やっとお会いになられていかがでしたか? さぞ連日の疲れが吹っ飛んだことでしょう」 「いや、そんなつもりじゃ……ないんだけどね」 「そうですか。無意識になさるとは、さらに素晴らしい」 ジリジリと圧されて、アレックスは困ったよう黙りこんだが、笑わない執事は、ますます楽しそうに愛想がいい。 後ずさりながら、思わずキラは背中に汗をかいていた。 こんなにこやかな執事は見た事がない。 「――お仕事柄でしょうか? まだ御若いのにアレックス様は狡猾な駆け引きをご存知ですね。ただ――差し出がましいようですがキラ様相手に、そんな高等技術は残酷なような気がしてなりませんが」 困った顔を繕ってはいるが、歌い出しそうなほど上機嫌な執事が怖くて、とうとうキラはアレックスの後ろに隠れた。 ――執事さん、目が笑ってないっ! 怯えてアレックスの背中のシャツを掴むキラをチラリと見て、執事は少しだけ唇の端をあげた。 「ああ。本当にアレックス様は極上の餌を美味しく召し上がる方法を、よーくご存知ですね。アスラン様では、わたしがご協力したとしても、こうはいきますまい」 「まさか」 アレックスの顔には、もう止めてと書いてあった。 だが、執事には見えないのかもしれない。 「ここにいらっしゃらないから申し上げますが、アスラン様は少々不器用なところがございますし……まあ、ほんの少々で分からないくらいですが」 「あの、本当に悪かったから……その辺にしてくれ。キラが怖がっている」 「ご冗談を。キラ様を楽しそうに苛めていらっしゃったのはアレックス様ではないですか。わたくしとキラ様は大変仲良くさせて頂いておりましたよ」 そうでしたよね? と、いきなり問われて、キラは息を止めたまま、コメカミを押さえるアレックス後ろでコクコクと頷いた。 それを見て、アデスは満足そうに頷いた。 「ではアレックス様。今回のプロジェクトは、あまりに詰め込みすぎでございました。ですが、パーティの方は同じような調子で進められては困ります。アスラン様が戻られたらアスラン様との調整もあるのですよ。独占なさいたいのは分かりますが、あまり一人で突っ走られないでくださいませ――それから」 「分かった――とりあえず、おとなしく仮眠をとるから、これ以上はやめてくれ。本気で頭痛がしてきた」 クドクドと続きそうな執事の説教を遮って、アレックスは、げんなりと溜息をついた。 もう迷子のように見上げるキラを見ない。 ――行ってしまう。 仕方ないと分かっているから、キラには止められない。 役立たずは、よくよく分かっていた。 しょんぼりと呟くとポツンと涙が落ちて、キラは慌てて後ろを向いた。 そんなキラの頭を名残惜しそうに撫でて、アレックスはドアの向こうへと消えてしまった。 もう行ってしまったのだ。 振り向いたキラの見たものは、厚いドア。 完全にドアの閉じる小さな音がして、ほどなく執事は感嘆したように呟いた。 「本当に……キラ様の人参効果は、さすがとしか申しようがありませんね」 「……人参?」 それは確か、馬の餌だっただろうか? 呆然とするキラなど置いてけぼりで、先ほどまでしかめっ面だった執事は、やけに楽しそう。 「本当に素晴らしい! きっとあの調子では、さっと目を通して八割がた覚えてから眠られると思いますよ」 こうしてはいられないと、執事はポケットから時計を取り出し、そして控えていたメイドに軽い食事と入浴の用意を命じた。 今から就寝するアレックスの対応に追われるのだろう。 どうせ自分に出来る事はないのだから、ツリーの飾りをつけなければと思うのだが、キラの身体は上手く動かない。 涙を拭く事も忘れて、忙しそうに指示を出し始めた執事を見上げていると、唐突に必殺仕事人と化した執事の視線がキラに落ちた。 何をしているのだとでも言いたげに厳しい。 ――サボってるって叱られるのかも。 最近は忘れていたが、元々キラは執事から叱られてばかりだったのだ。 クスンと鼻をすすり、慌てて先ほどアレックスがテーブルに置いたツリーのオーナメントを拾いあげようとしたが、涙を拭ったときに濡れた手が震えてしまう。 「キラ様、これを」 そんなキラの前に、綺麗にプレスされたハンカチが差し出された。 涙を拭えと言われているのだと分かったので、お礼を言いたかったのだが、声が出せないままキラは黙って受け取った。 テーブルのお茶はもう冷めていて、苺タルトも少し食べただけだった。 「大変お疲れのところ申し訳ありませんが、折り入ってキラ様にお願いがございます」 後ろから急に話しかけられてキラは飛び上がるほど吃驚した。 叱られるかと思ったのだ。 だが声は神妙で、キラは固まったままハンカチの間から執事を振り向いた。 「これはキラ様にしかお願いできない事なのですが」 重々しい執事の前置きに、いちいち緊張しながら、キラはコクリと息を飲んだ。 「後ほどアレックス様に、お茶のお運びをお願いしたいのです。お願いして良ろしいでしょうか?」 執事は唇の端を少しあげていた。 ――怒ってない。 視線を合わせて貰えたのは、初めてだったかもしれない。 「は、はい」 よく分からないまま返事をすると、執事は腰を折ってキラの肩に触れた。 「お身体が冷えていますね。それにこんなに力任せに擦られては、目が腫れてしまいますよ。ついでですしシャワーを浴びて頂いたほうがよろしいでしょうね」 ゴシゴシとハンカチで顔を拭っている手を、やんわりと押さえるように握られて、それはそのままメイドへと渡された。 「キラ様をバスルームへ。お着替えは――そうですね。先日お揃えしたものを」 淡々とした言葉とは裏腹な慌しい展開に、キラは後ずさろうとしたが、もう腕をとられていて首を振る事しか出来ない。 バスルームは、あまり得意ではないし、メイドに連れて行かれるのも初めてだった。 「十五分以内に準備が終え、お茶の用意といっしょに大至急私のところまで」 入り口のドアを開かれて、有無を言わせず執事に見送られる。 「キラ様、頑張りましょう。あまり時間がありません」 メイドに促されて観念する。 だが、キラより先に飛び出したのは、翼を広げたロボット鳥のトリィだった。 あと1回分かな 2011.05.14 Sat 18:09:56 生きてます2011.04.10 Sun 02:38:04 ダブルコール 4「うわあ……これ、すごいことになってるね」
大きなツリーを上から下まで目を通したあとに、クスクス笑われてキラは肩を竦めて俯いた。 「すごく頑張ったんだね」 腕を組んで嘆息する姿は、呆れられているようしか聴こえない。 キラは驚くことも忘れて、フラフラと椅子から立ち上がった。 けれど、言葉が見付からない。 いきなりだったせいか、まるで知らない人に出会ったような気がして、キラは後ずさりそうになる。 「アレックス様」 キラの頭の上で、嗜めるように小さく名前を呼ぶ執事の声がした。 「とってもじょうずだよ。キラひとりで飾りつけたんだってね」 偉いねと褒められるが、キラは顔をあげられなくて俯くと、目の前のシャツからふわりと石鹸のいい匂いがし、靴音はキラの前で止まった。 「そういえば、これ」 穏やかな声とともに、オーナメントの数々がテーブルに置かれる――そんなかすかな音のせいで、何故だかキラの身体がふるえた。 星にペガサスにサンタの人形。 トリィが咥えて飛んで行ってしまっていた、それら。 俯いたままそれを見て、キラは、もう唇が開かなくなったかと思った。 トリィは、ご主人アレックスに何度も会いに行っていたのだ。 ――キラは駄目だと言われて行っちゃ駄目だったのに、トリィはいいんだ。 何故なら、猫耳じゃないから。 「トリィが運んでくるから、早く終わらせて手伝おうって思っていたんだけど、遅くなってごめんね」 何でもない事のように優しく謝られて、思い切りキラは首を横に振った。 声を出したら、泣いてしまいそうになる。 「頑張ったね。クリスマスが楽しみだと思ったのは、生まれて初めてだよ」 そう言って額を撫でるのは、泣かせるためのような気がして、キラは思いきり首を横に振って大きな手を遠ざけた。 「ゴメン、怒ってる?」 問われてキラは、唇を噛んで俯いた。 怒っていないけれど、怒っているのだろうか。 ひどく苦しくて、悲しい。 「これ、毎日トリィが運んできたんだけど、一緒につるそう?――それで許してくれる?」 すぐ目の前で宥める声は、とても優しい。 でも、少し痩せてしまっているのは泣いているキラでも分かった。 羽織った白いシャツがだぶ付いてしまっているのを見ると、余計に辛い。 疲れているはずなのに、そんなことを微塵も感じさせない気安さは、何故だかキラの胸を塞いだ。 ほんの少し前、ご主人たちのために、ここにいるだけでいいと執事は言ってくれたが、本当にそうだろうか? 何故なら、ご主人たちはキラなどいなくても平気なのだ。 ――いてもいなくてもいいんだ。キラひとりだけ役立たず。 必要とされていないのが淋しいのだと、ブレることも許さないほどハッキリと分かってしまった。 こんなに淋しかったのに、昨日も会ったような優しさで微笑みかけられても同じように返せない。 胸の奥底がキュウキュウして、無力さが悔しくて鼻の奥がツンとする。 「アレックス様」 再度名前を呼んだ執事の声には、ハッキリと咎める色が滲んでいた。 「分かっているよ」 だが返事をしたアレックスは歯牙にもかけてはいない様子で、クスクスと笑う声はひどく嬉しそうで、キラは泣きたくなる。 羽で触れるように頬を指でなでられて、キラはギュッと目と唇を閉じた。 「どうして黙っているの?」 上から穏やかな声が降ってきたが、返事など出来るはずがない。 プルプル震えながら首を振るキラの前で王子のように片膝をつくと、アレックスは下から覗き込みながら、俯くキラの頤を持ち上げた。 クスリと笑う気配に、キラは俯くしかない。 「俺のこと、ちゃんと覚えている? まさか忘れちゃった?」 何故そんなことを聞くのだろう? そんなに簡単に忘れるはずがないではないか。 少し長めの紺色の髪にエメラルドの瞳。 大好きな絵本の王子に似ているのに、忘れるはずがない。 でも、こんな風に見なければ、キラは自分の事など忘れられているのだと知る。 そう思ったからこそ、意地でも目を開こうとしたが、とても開ける状態ではない。 そのことを察して欲しい。 色々聞きたい事や話したいことがあったはずなのに、何も思い出せない。 ただ胸が詰まって、何も言えないし涙が止まらない。 笑おうとしたのに頬に力が入らないのがどうしてだか分からなくて、こんな無理強いは意地悪されているとしか思えない。 嗚咽を噛んでいると、返事をしたわけでもないのに、キラの目の前のアレックスは嬉しそうに微笑んだ。 「よかった。キラに忘れられていたらどうしようかと思った」 言葉と同時に大きな胸にギュッと閉じ込められて、キラは棒立ちになる。 思いをこめた優しい声音で囁かれると、耳がぞわぞわして鳥肌がたった。 ようやく頤から手をはずされたが、下から見上げてくる視線から顔を逸らすのが精一杯だ。 なのに、そんなキラを見てアレックスは、ひどく幸福そうに微笑むのだ。 儚げなほど疲れて見えるのに、エメラルドの瞳が子供のように――本当に嬉しそうに輝いていて、こんな顔を見たのは初めてかもしれない。 それは目の前で泣く子が可愛くて仕方ないという顔なのだが、キラにはそれが分からない。 アレックスが幸福を示すなら示すだけ、ひとりで淋しがっていた自分が可哀相で、キラは身体を縮めて涙をこぼすしかない。 よしよしと髪に指をさし込まれると、とうとう涙は止まらなくなってしまい、わっと泣き出してしまった。 せめて、しゃがみこんで顔を隠して泣きたいのに、抱きしめられた腕を放してもらえず、声が漏れてしまう。 しゃくりあげる声を抑えられないほど、もう限界だった。 なだめるようにポンポン背中を叩かれても、泣いた子供をあやすように笑っている顔が透けて見えるよう。 「キラ? どうして泣くの?」 耳元で囁く声は楽しそうで、返事など出来ない。 そんなキラの背中で、取ってつけたような咳ばらいがコホンと響いた。 「お楽しみのところを大変申し訳ないのですが、アレックス様」 どこか辟易したような、執事の声だった。 「キラ様を、お愛でになられたいお気持ちは、よーく分かりますが。そのくらいにして、続きは明日になさりませ。確かに、このために頑張りになられたのですから、大目に見て差し上げたいのは山々ですが、すでにお身体は限界のはずですよ」 そのとき、まるで魔法の国が作り物と気付いたような溜息が、キラの耳元で響いた。 ――ご主人? そっと見上げると、少し痩せた容貌に自嘲的な微笑みが浮かんで消えた。 先ほどまでの、浮かれた様子が一気に引いて、今は明らかに疲労が濃い。 驚いてしまって、キラの涙は引っ込んだ。 そして、そのままそっと振り返ると、執事はドアの前から動かないまま、肩で溜息をついた。 「それに、これで終わりではないのです。まだクリスマスパーティーの打ち合わせが終わっておりません。招待客リストだけでも頭に叩き込んでおいてくださらなくては」 淡々としてはいるが容赦のない執事の言葉に、まるで観念したかのようにアレックスは目を伏せ、立ち上がった。 視線が遠くなると、そばにいるのに急に一人になったよう。 シュンと俯くキラの頭をアレックスはクシャリと撫でたが、その容貌はひどく儚げに見えて、キラは目の前のシャツを両手で掴んだ。 また行ってしまうのだと分かったからだ。 「さっさと片付けてくるから、もう少しだけ待ってて」 キラは奥歯を噛んだ。 いけないと分かっていたが、頷く事が出来ない。 あとちょっとだよ 2011.03.29 Tue 01:33:15 ダブルコール 3そして。
「そうでございますね。つい先走ってしまいまして申し訳ありません。実は先日、極秘ルートを使って、アスラン様にも暗号電文を送ってしまいました――キラ様が御一人で淋しがっておられます、と――本当に申し訳ありません」 「えっ? それって」 まるで留守番も出来ずに駄々をこねていると伝えられたようで、焦ってしまう。 『キラのことは、アデスに任せてある』と、アスランから言われていたが、身の回りの世話以外の何かをしてもらっているという意識はなかったし、お家第一の執事がする行動とも思えなかった。 「だって、そんなのしたら、吃驚させてしまって……呆れられちゃう」 慌てるキラに反して、アデスは全くよどみない。 「それはそれでよろしいじゃないですか。アレックス様とアスラン様と、どちらが先にお手空きになられるか分からない状況ですし、このままでは埒があきません。ですので、僭越ながらキラさまが御一人で泣いていらっしゃると再三御耳に入れましたところ、案の定、お二人共、よりいっそう御働きのようで、予定よりもずっと早く目処が立つ模様ですよ。きっとキラ様の涙を拭きたくて、たまらなくなったのでしょうさ」 けろりと敏腕執事はそう言うと、ただ唖然と見あげるキラの前でコホンとひとつ咳払いをした。 憮然として見えるが、この執事は見かけ以上に、とてつもない策士なのかもしれない。 ザラ家の事業を拡大して今の数倍の業績を上げるのだと、アレックスとアスランが話し合っていたのを、キラは同じテーブルで聞いたことがある。 急に事業に力を入れ始めたのは、『キラの値段』が、プラントのコロニー一基分以上だからだというヘンテコな理由だった。 自分の値段だと言われてどう反応していいか分からないが、アスランとアレックスは二人でその額を叩き出そうとしているのだと言う。 同じ顔をした二人が、同じ表情で、そんな話をしていた。 あまりに変わらず接して貰っていたので気が付けなかったが、キラがここにいるばかりに、ふたりともが過度の無理をしているのだろう。 それなのに、役立たずの自分が本当に申し訳なくて、ワガママなど言っている場合ではないのだと身につまされるのだ。 キラは自分が猫耳の厄介者だということは知ってはいる。 だが、そのせいで二人が忙しくなってしまったのだと思うと、罪悪感で小さい胸がきゅうきゅうと音を立てて苦しくなる。 何でもない事のように、執事は微笑んだ。 「お淋しいでしょうが、もう少しお待ちになられてください。お二人共、キラ様のために必死でいらっしゃいますよ」 「でも……だって、どうして」 分かりたいのに、分からない。 どうしてという問いすら駄々のようで、本当は聞いてはいけないのではないのかと口ごもる。 だから一人で考えようとするが、考えても考えても、ひどく疲れて消耗してしまうだけで答えなど出ない。 分かるのは、この猫耳さえなければ、こんなに迷惑をかけることもなかったはずだということ。 これを外せればいいのだが、その方法が分からない。 ぎゅうと猫耳を押さえていると、温かい大きな手で髪を梳かれて、ビクリとふるえたキラはノロノロと自分の手をはずした。 この屋敷に保護されて来た当初、キラの猫耳を見るたびに眉を顰めた執事の視線を、キラは忘れてはいない。 あからさまな悪意は全くなかったのだが、厄介者を屋敷に入れたアスランに注意を促していたのを知っていた。 けれど、今、頭に触れられた指先は、とても大切なものを扱うよう。 ギュッと掴んだキラの猫耳も小さな手も一緒にそっと撫でてくれた。 そんな執事の手はキラの苦手な大人の手だが、不思議と怖い感じはしなかった。 けれど、まだ安易に何でも許してくれる手だと信じることが出来なくて、キラは止めてといえずに俯くしかない。 「申し訳ありません、お嫌でしたか?」 「いいえいいえ」 問われて慌ててキラが首を振ると、執事は珍しく惑ったように自分の額を押さえて小さな溜息をついた。 もしかしたら、撫でたことを後悔しているのかもしれない。 「そんな風に泣きそうな顔をされると、私が叱られますので、ご勘弁ください」 困ったように、執事が苦笑する声が部屋に響いた。 「ごめんなさい。ニッコリ出来ないのは……アデスさんのせいじゃありません。頭のここについているコレが悪いんです――これ、なくなればいいのに。なくなったら皆に迷惑をかけずにすむのに」 小さな手で猫耳を潰すように押さえ、唇を噛んで涙を堪える子供を、執事は困ったように見つめると、目を伏せて『本当に困りましたね』と重い息を吐いた。 「キラ様は、大切な宝物だとアスラン様もアレックス様も仰っておられます。宝物を守るには、権力と財産があれば、より堅牢に守る事が出来るのです」 「けんろう?」 キラの知らない言葉だらけだ。 権力も財力もキラには分からなかったがコクンと頷くと、執事は満足そうにもう一度キラの頭を撫でていたが、その手を丸い頬に滑らせて輪郭をなどると、美しい絵画をエントランスに掛けたときのように、満足そうに頷いた。 「アスラン様とアレックス様は、大切な宝物を確実に守るために、それぞれプランを実行に移されているだけです。ザフトでの功績が上がれば上がるほど、他の追従を許さないほどの強い力を誇示出来るでしょう。そして、あり余る財力があればあるほど、その力は世の理すら捻子曲げる事が可能です。御二人は優秀でしたが、今まで持てる力を発揮なさった事はありませんでした。ですが、今は大切な目的が出来たというわけです」 「……目的?」 「ええ。キラ様が今まで御二人に足らなかった目的と言うわけです。――早い話が馬の前に吊るした人参のようなものです」 「にんじん……?」 「ええ、最高の餌です」 紅茶の芳しい香りを堪能したときのように、したり顔で執事は唇の端をあげたが、キラには何が何だか分からない。 ポカンと口をあけて、大きな瞳で見上げる迷子のような猫耳の子供を見て、執事は何故だか吹き出したが、慌てて口を噤んだ。 「……失礼」 だが、がっちりした肩が震えている。 笑い声を聞いたのは初めてだったかもしれない。 何が可笑しかったのだろう? キラの嫌いな人参。 そして、誰が馬? 何が馬? 何の話をしていたのかすら分からなくなって頭を抱えるキラの背中を、アデスはそっと撫でた。 「キラ様は、ここにいて下さるだけでいいのです。御一人でお淋しいでしょうが、御二人が頑張られたら褒めて差し上げてください。そうすればザラ家は永遠に発展し続けるでしょう」 「でも……そんなに無理なさったら」 「大丈夫ですよ。餌が上等ですからね」 そう執事が微笑んだとき、ドアが開くとまっ先にロボット鳥が飛び込んできた。 慌てて立ち上がって振り向いたキラの目の前には、いくつもオーナメントを抱えて微笑むキラのご主人――アレックスがいた。 「終わったよ、キラ」 吃驚するキラにそう言い、部屋の入り口のツリーを振り返ったとたん、口を手で押さえて吹き出した。 まだ続くのよ 2011.03.28 Mon 04:07:00 ダブルコール 2大粒の宝石が二つぶら下がった時計は、オヤツの時間を見るためのものではなかったはずなのに、今では他の使い道がない。
退屈だと思っていても、時間が経つものだと、キラはノロノロと顔をあげてドアが開くのを待った。 「キラ様、御休憩の時間です」 「……はい」 喉から声が出しにくいのは、ずっと喋っていないせいだろうか。 入ってきた執事は、掠れた返事をするキラをじっと見つめていたが、振り返って紅茶とお菓子を並べるようにメイドに伝えた。 「いつものように、窓際のテーブルに」 短い指示で、中庭を望むテーブルにメイドはお茶を綺麗にセットした。 お皿には、夢と同じ、ピカピカ輝く苺タルト。 夢は予知夢だったのだという感動も、これだけ続くともうない。 切なくなるのは、頬に触れた指の感触を思い出すからだと気付いてしまったからだ。 ――夢なのに。 キラの夢なのに、夢はキラのものではないのだ。 丸い苺タルトを、メイドはその場で切り分けてプレートに盛っていた。 キレイな盛り付けは、まるで魔法のようで、不恰好なツリーもあんな風に出来ないものかとキラは思う。 ――ケーキみたいなツリーだったら、みんな喜ぶだろうか? 少し前まで、お茶は、ご主人のどちらかと一緒の大好きな時間だった。 けれど、もうずっと昔のことのよう。 「あとで膝掛けを、お持ちするように」 日が暮れると雪が降るのだと言う執事の声を、キラは他人事のように聞きながら、中庭の向こう側の、例の動かないカーテンを、そっと振り返った。 執事、アデスが、いつも窓際を指定してくれるのは、キラが向かい側のアレックスの部屋を気にしているのを知っているからだろう。 けれど、あの部屋のカーテンが動いたためしはない。 まだ忙しいのだろう。 あの部屋の主も、今頃ひとりでオヤツを食べているのだろうか。 苺タルトが、ここにワンホールそのままあると言う事は、食べていないのかもしれない。 コーヒーくらいは飲むのかもしれない。 忙しくなると、何杯も飲んで胃を壊しているのを知っている。 ――ひとりでだいじょうぶなのかな……。でもキラが来るまでは、きっと一人だったのだろうし。 「だって」 ――イラナイって言われちゃったし。 思い出すと、ぼわっと目の前が霞んでしまって困ってしまう。 だったら、誰からも求められないキラがここにいる理由は何だろうか? 考えるまでもなく、キラ自身が分かっている。 キラがここに居たがったから――ただそれだけ。 だから置いて貰っているのだ。 ここにいて欲しいと言って貰えていたし、シンもここに居るようにいってくれた。 ――どうしたら、一緒にいられるのだろう? 猫耳を押さえながら中庭の向こう側の窓を、ぼーっと見つめていると、また景色が霞んでいって泣きそうになってしまう。 「どうかなさいましたか?」 突然、背後から声をかけられて、慌ててキラは首を横に振った。 「いえ、なんでもないです」 笑おうとしたが、上手く出来なくなっている。 無理に唇をあげようと自分の頬を押さえるキラを、執事は黙って見つめていたが、その姿は彼らしくもなく所在なさげではなかっただろうか? 「お茶が冷めないうちに、こちらへどうぞ」 流れる動作で椅子を勧められ、のろのろとキラはテーブルについた。 白いカップにお茶を注がれ、いい香りに包まれる。 ここでお茶をするようになってから、オヤツはキラの好きなものばかりを出してもらっている気がする。 食事も苦手な人参やピーマンや豆が、さりげなく抜いてあるのだが、きっとそれも偶然ではないのだろう。 感情の起伏が少なく、初めは、まるで銅像みたいで怖かったが、執事は良い人でキラのために心を砕いてくれている。 きっとそれは仕事だからだろうと分かっていても、有り難いことだ。 ――でも執事さんは、一緒にお茶してくれないし。 キラはギュッと強く目を瞑って、目の中に溜まった水を弾き飛ばした。 すると視界はクリアになり、苺タルトの赤がやけに眩しい。 紅茶はとても良い香りがした。 期待をこめてチラリと見上げても、壮年の辣腕執事の表情は変わらない。 寡黙で仕事熱心な彼は、あまり笑う事もないのだろう。 いつも渋い顔の執事が笑っているところを、キラは見たことがない。 ザラ家を守る忠誠な執事の目からは、猫耳のキラが居ること自体、悩みの種だと思われていることも知っていたから、キラ自身も邪魔にならないように気をつけてきたが、今はもうそんな力もなく、ツリーの飾り付けも進んでいない。 それなのに、一方的に餌だけもらっているようで心苦しい。 この執事も、以前はシンのいるザフトという軍で仕事をしていて、とても優秀だったと聞いた事があるが、実は軍が何だか誰もキラに誰も教えてくれたことはないのだ。 頭の上で交わされる会話はいつも、キラを除外している。 だがそれでも、ザフト軍はアスランやシンのように、運動神経の良い自信家が集まるところだと言う事は察しがついた。 ――かけっこでもするのかな。 シンとアスランと、どっちが早いだろう? 考えるまでもなく、シンだとキラは思う。 猫耳の頃、シンが路地を風のように駆け抜けていたのを見た事があるのだ。 あんなふうに、自分もなれるだろうか?と、キラは考える。 少しだけ、なれそうな気がするのは、根拠のないことだが、この執事よりは逃げ足が速いような気がするからだ。 この物静かな執事からなら、隙を突けば逃げ出せるのではないかと何度も思った。 ご主人たちも、あまり走ったところを見た事がないので、今のキラならかけっこだけなら勝てそうな気がした。 けれど逃げるなら、せめてシンと話し合ってからにしたい。 せっかく再会できたのだ。 生きていくためには、住む場所があった方が、何倍も危険が少ない。 そんな場所を確保するのは鉄則だと、猫耳の頃のシンは口癖のように言っていた。 ずっとシンに背負われ、手を引かれて逃げ回り、追い詰められて逃げることすら諦めたことのあるキラは、安易に先の見えた自殺行為に踏み切ることが出来ない。 それは、無鉄砲と言うものだ。 そんなことをすれば、苦労して助けてくれたご主人達に申し訳ない。 出来るだけ誰の事もガッカリさせたくはない。 けれど、執事がツリーの飾り付けの仕事をくれなかったら、もっとここから出ることを思い詰めただろうし、実際に出ていたかも知れない。 やっと再会したシンが、ここに帰って来る以上、まだ解雇されるわけにはいかない。 ――頑張らなければ。 早くツリーを仕上げて、役に立つところを見せなければ。 ――ツリーを全部仕上げてから、シンが帰ってくるのを待ってから相談しよう。 その考えは、最善のように思えるのに、何故だか奮い立たない。 思いつきが良い考えのような気がしないのは、ここに再びシンが帰って来てくれるのかすら定かではない気がしてたまらなくなるから。 ここに戻る必要がないのは、シンだからだ。 シンのように猫耳を落とせば、狙われる事もなくなる筈だと思いもするが、大切に撫でてくれるアスランやアレックスの手を猫の耳が憶えている。 シンも懐かしそうに撫でてくれる。 思い出して、キラはプルプルと首を横に振った。 ――考えるのは、ツリーのあと。食べたあと! 決意してデザートスプーンを握ると、お皿から苺とクリームの甘い香りがして、やはり泣きそうになってしまった。 パンに挟まった苺ジャム以外の苺など、きっとここへ来るまで食べた事などなかった。 それでも、ここに来るまでは、苺ジャムやクリームのパンは、キラにとって世界で一番美味しい食べ物だった。 ここでは、毎日、キレイで美味しいゴハンやお菓子を貰える。 林檎は、この屋敷に連れて来られた日にベッドで食べさせてもらって大好きになった。 赤い木の実は、みんな好き。 クリームも大好き。 悲しい事はなにもない。 けれどスプーンを咥えると、時折ポロリと頬を伝う水は、なんだろうか。 胸がヒヤリと冷たくて苦しいのは、どうしてだろう。 初めに拾ってくれたシンは、なんでも半分に分けてくれた。 日が暮れると必ず帰って来てくれた。 パンもクラッカーも毛布も半分こ。 シンが時々、ポケットから出してくれるマーブルチョコレートは色分けして絵を作って食べた。 ここのデザートには及びもしないが、それでたまらなく幸せだったのだ。 けれど、ここには何でもある。 安全も美味しいものも清潔なシーツも。 とくに双子のご主人は、何でもキラにくれる。 けれど、誰も一緒にいてくれない。 ――誰か呼んでくれないかな? スプーンを置いて、何度も隣の屋敷のカーテンの閉じた窓を振り返ってしまう。 この一週間、居残り組みのご主人、アレックスの姿を全く見ていない。 10日前は、まだ中庭のむこうの窓越しに、時折姿が見えていた。 敏腕執事のアデスなら知っているのではないかと、こっそり顔をあげてみたが、視線を合わされ「何か?」と問われて慌てた。 「あの……ご主人、じゃなくて」 「アレックス様でしたら、今日が山場とのことです」 間髪入れずに返る返事に身体が竦んだ。 「あ……はい」 言われていることは、今が大事なときなのだからオマエは邪魔するなと言う事なのだと理解出来るが、執事の重々しい口調にキラは萎縮する。 分かっている事は居残り組みのアレックス様が、昼夜を問わず、とても忙しいということ。 これ以上ない答えを貰ったのに、初めから分かっているその答えは、さらにキラを落ち込ませる。 理由は理解出来るのに、それはすべてから拒絶されているのと同じ。 多分それは、キラを取り巻く現状のすべてに思えるのだ。 毎日同じ質問を繰り返しているせいか、アデスにどう思われているのかも心配になる。 また聞いてはいけない事を聞いてしまった気がして、キラは首を折り、目を伏せた。 アデスが激務続きのアレックスの身体を実は心配していることを、キラは知っている。 アデスの方がずっと長くザラ家に仕えていて、ザラ家のために心血を注いできたのだ。 猫耳のキラが拾われて来たときも、ハッキリと口にはしなかったが、ザラ家に害なす厄介物だと思われていたのは知っていた。 けれど結局、キラの世話を焼いてくれている。 キラの知る限り影ではアスラン贔屓だった彼だが、今は二人を分け隔てることなく尽くしている。 どういう取り決めがあったのか、去年のクリスマスの事件のあと、ザラ家の執事、アデスはアレックスのことをアスラン様と呼ばなくなった。 それまでザラ家には、アスラン・ザラが二人いたのだ。 アレックスとアスランはザラ家の優秀な双子――ふたりで一人のアスラン・ザラ。 それは二人の父、パトリック・ザラが、決めた事だと言う。 世間はアレックスを知らないし、アスランと話した数分後にアレックスに会っても、別人だとは思わなかっただろう。 瓜二つで、シンを含め一般人には全く区別が付かないのだ。 長い間アレックスは屋敷から出ない生活を続け、ザラ家を内側から支えてきたのだと言う。 アレックスは屋敷内でのみアスランを名のり、この屋敷内に限り、軍人として戻ってきたアスランはアスランではなくなるという複雑な状態は、兄弟の形も絆も壊してしまっていた。 だから屋敷でのアスランは生彩が無く、極力目立たないようにしていたのを、キラも見ている。 だから、アスランが戻ると、なるべくアスランのそばに居た。 だが、アスランが屋敷に戻ると、以前はアレックスが苛立っていた――そんな風にキラは回想する。 きっと、ザラ家と言う自分の居場所(テリトリー)が侵されるのを牽制していたのだろう。 キラと逃げていた頃のシンは、縄張りが侵食されていくとき、いつも気が立っていた。 それに似ていた。 キラを拾って屋敷につれて来てくれたのがアスラン。 間違って隣の棟に行ったキラを、当たり前のように置いてくれたアレックス。 ザラ家を、それぞれ内と外とで守る、それが『二人のアスラン・ザラ』だったのだが、今は、その二人が交代で入れ替わるようになってしまったため、当初執事アデスは訳が分からずに無言になる事が多かった。 一般人に二人を見分けるのは到底無理だとシンは言う。 当然、敏腕執事も、当初は入れ替わった二人に全く気付くこともなかったのだ。 だが分からないなりに、この執事がアレックスをアスラン様と呼ばなくなったこともキラは知っている。 彼なりに区別しているのだ。 アスランとアレックスの執務室は別なので、どちらの棟にいるかで判断している可能性が高いが、現在、執事アデスが二人を間違う事は全くない。 二人の区別が付くキラの判定では、完璧と言っていい。 二人の見分けをつけるという難題を、彼なりにクリアしたということだ。 それに反して、キラには高いハードルが課されている。 先日、アスランが軍に出かける前に『今後、俺達の名前は呼び捨てにするように』『ご主人という呼び方で誤魔化すことのないように』と言い含められてしまったのだ。 命の恩人で、自分よりも大人なご主人たちの名前を呼び捨てにする――それは、なまじ区別がつくだけに、キラにとっては、とてつもなく難しいことだった。 分からないなら、ご主人で誤魔化す事も出来ただろう。 でも、区別が付くキラにそれは問題ではないのだ。 シンもキラの命の恩人ではあるが、これほど呼び捨てる事に躊躇したことはなかった。 それは、同じ猫耳同士だったからかもしれない。 『呼び捨てに』と言うだけ言って仕事に行ってしまったアスランのことは後回しでいいが、留守番のアレックスには許してもらえず、キラは何度も『ご主人』と呼んで窘められ、拗ねられ、とうとう機嫌を損ねてしまったのだ。 両方の区別がつくくせに『ご主人呼び』を止めないことに、とうとうアレックスは不機嫌になってしまったのだ。 どうしていいか悩んでいるうちに、仕事が忙しくなったアレックスから排除されて、キラは接点がなくなってしまった。 取り成して貰おうにも、他に相談できる人も誰もいない。 『寒いし、しばらくゆっくりしていい。もう朝もここへ来なくていいからね』 ニッコリと微笑まれて、優しく拒まれた。 お茶のお運びも、執事アデスを通してさし止められた。 『アレックス様のご命令です』と言われれば、キラは何も言えない。 それでも、初めは無理やり執務室に忍び込んだが無駄だった。 『キラにも冬休みが必要だろう? 部屋でゲームでもして遊ぶといい。しばらく一人にするけど、ごめんね』 そんな優しい言葉で頭を撫でられ、キラの仕事は何もなくなってしまったのだった。 アスランから貰った、毎朝、起こしに行く仕事はアレックスによって打ち切られてしまい、キラは失業してしまった。 一人ぼっちで、ご主人たちもシンもいないのに、一体、他に誰を起こせばいいと言うのだろう? そして、屋敷のドアが厚く重厚だったことを、そのとき初めて知ったのだ。 締め出しを食らって途方に暮れていたキラに、見かねたアデスがツリーの飾り付けという仕事をくれた。 だが、それは結局、アレックスの執務室とは反対の棟に押し込むための理由だったのかもしれない。 執務室のある棟は本当に人の出入りが多く、あわただしく殺伐としていた。 早い話が、猫耳がザラ家にいることを、外部の者に知られてはならないということなのだろうと、キラは目を擦った。 臭いものには蓋を――。 世情に疎いキラでさえ、そういう結論しか出せない。 そこに悪意など微塵もなく厄介な子供の扱いは、そういうものだ。 おとなしくしていないと、疎まれる。 一番いい方法を考えて貰っているのだと頭では分かってはいる。 けれど、その方法はキラの気持ちで理解するには難しかった。 些細な事で、身体が勝手にショックを受けて冷たくなって行く。 キラのいる方の棟には、現在宙域に出て不在のアスランの部屋があるが、本人がいなくては意味がないのだ。 しょんぼり窓の外をみれば、うっすらと薄日はさしてはいるものの、広い中庭はいっそう寒々しい。 キラの世界は狭くて、この広い屋敷の中も全部は知らない。 人の出入りの多い場所には、出ないように言われている。 自分に許されたテリトリーは何処だろうか? キラは、それを見つけられない。 ずっと誰とも話さずにいると、世界中から孤立して、ひとりぼっちになってしまった気がしてくる。 誰も帰らないし、みんな忙しいまま。 トリィですら、毎日どこかへ飛んで行って、遅くまで帰って来なくなってしまった。 シュンと肩を落としていると、静かに紅茶のおかわりが注がれた。 「ありがとうございます」 笑ったつもりだが、頬が固いのが自分で分かる。 そんなキラを見かねたのだろう。 アデスは静かに言った。 「実は、キラさまがお淋しくなさっておられる旨、アレックス様にお伝えはしております。どうか、もう少しだけ我慢なさってくださいませ」 厳格な彼が、こんな事を話してくれるのは、とても珍しい事で、キラはリアクションが取れずにキョトンと大きな目を見開いた。 「え?」 「差し出がましい事だとは思いましたが、必要だと思いましたので手配させました」 いつもの抑揚のない声のあとに、ワザとらしい咳払いが続いた。 執事なりに、気を使ってくれているのだと、キラは胸をおさえた。 「ありがとうございます。でも大丈夫、淋しくなんかないです。平気です」 恥ずかしくて強がったが、上手く笑えない。 そんなキラから目を逸らした執事は、目を逸らすようにポットをワゴンに戻した。 つづくのであった 2011.03.27 Sun 04:37:31 ダブルコール 1今朝は、苺タルトの夢だった。
食べたいけど食べれない――そんな夢。 ザラ家のパティシエが腕をふるったお菓子は、芸術的すぎて食べるのに勇気がいるのだ。 それなのに、美味しい香りと可愛い姿で誘惑し、いたいけな子猫を悩ませる。 最近キラの夢はずっと、食べ物ばかりが登場していた。 ここへ来てから覚えた菓子の名前が、格段に増えたせいかもしれない。 その中でも苺タルトは衝撃的だった。 クリームとカスタードの上に並んだ大粒の苺は、真っ赤な宝石。 食べ物じゃないみたいに煌めく、甘い香りのする芸術品。 初めて出されたときは、吃驚しすぎて固まっている姿を、しっかり観察されて笑われてしまった。 今朝の夢でも、じーっと見つめていたら、『どうぞ。好きなだけ食べていいよ』と額を撫でられた。 『早く食べないと、プリン星人が来るよ?』 昨日みたいに――と、付け足しながらクスクスと悪戯っぽく笑う声は、すでにとても可笑しそう。 器用そうな長い指で触れられると、くすぐったくて恥ずかしい。 けれど、プリン星人は関係ないのだ。 プルルンとしたプリンの形のプリン星人は、初めから敵ではなかったし、そもそもあれは一昨日の夢の中の話だ。 『もしかして嫌いだった?』 心配そうに見つめる視線を感じて、キラは思いきり首を横に振った。 『そうじゃなくて。だって、食べたらなくなっちゃうんだもん。それはイヤなの。食べてもなくならなかったらいいのに』 困ってしまって少しだけ見上げると、声を殺して吹き出す横顔が見えた。 ふるえる肩と襟にかかった髪が、さらりと動く。 透き通るほど白い肌も、長い手足も、とてもよく知っていた。 いつもの、懐かしい景色だ。 思い出せば、なんだかとても恥ずかしい。 居心地が悪くて俯いていると、あやすように髪に触れていた手が滑って、頬を突っつかれる。 『じゃあ、今日のオヤツは大きな苺タルトにしようか』 食いしん坊だと思われただろうかと思ったが、変わりなく優しい声が響いて額を撫でられる。 腕が動くと、ふわりといい匂いがした。 怖くない威圧感のない、サラサラで温かい体温と石鹸の匂い。 「ここにいていいよ」と許してくれる、そんな魔法のような特別な手を、キラは知っている。 厳密に言えば3つほど、キラの世界にはある。 夢の中に出てくるのは、その中の誰かのだと思うが、いまいち自信がない。 目が覚めれば、触れられた感触も曖昧な気のせいでしかない。 どうせ夢なのだから、考えても仕方ないのだが、撫でられたときに嬉しかった気持ちだけがいつまでも甦って、結局、その日のオヤツより気になっている。 昨日はプリンで、一昨日はマカロンで、その前はシュークリームだった。 夢はお菓子ばかりで、目が覚めれば、いつも同じお菓子がお茶に出てきた。 予知夢という言葉があるが、まるで食い意地の証明のようで自己嫌悪に陥り、溜息が出る。 どんなにお茶やお菓子が美味しそうでも、結局キラは『ひとりぼっち』なのだと思い知るだけだ。 感触を思い出して自分の髪を撫でてみて、肩を落とす。 もう、しばらく誰からも撫でられてもいなかった。 留守番なのだから、仕方ないのだと胸を押さえるが、押さえたそこは、いつの間にか冷たいものが重いほど詰まっている気がした。 夢など、あまり覚えていないことが多いのだが、食べ物の夢だけは、やたらと鮮明だった。 いつも最後に、そっと頬に触れるのが、唇の感触のように思えて、起きてからもぼーっとしていることが増えてしまった。 おかげでキラは早起きが出来なくなり、どんどん眠る時間が増えている。 寒い冬のせいかもしれない。 この間見た厚い本の、冬眠する動物がいるという項目が、キラの頭をクルクル回る。 たとえ冬眠してしまっても、きっと誰からも叱られはしないだろう。 どうせ起きても誰からも必要とされてない。 今もキラは一人ぼっちだ。 何気ないそぶりで振り返っても、与えられた部屋は眠ったように静まり返っていて、ここにいる自分も夢の中のように現実感が薄い。 昼間なのに、夜のような日々が続いている。 屋敷の向かい側の棟は、色んなヒトが忙しそうに動いているのが、こちら側から見えた。 あれは執務室からの指示を待つ人々らしい。 中庭を挟んだ向こう側にあるその窓は、もうずっと厚いカーテンが閉じたままになっていた。 いつか誰かが開けるはずだと気になってはいるが、何度振り返って見ても豪華な刺繍の入った布が開く気配は無い。 あの重いカーテンは、毎朝キラが引っ張って開けていたのだ。 「ちゃんと起きてるのかなぁ」 部屋の主の寝起きが悪さは折り紙つきなのに、キラの出番はなく、大きな猫の耳を垂れて肩で溜息をつくしかない。 俯くと、柔らかな髪がはらりと頬にかかり、ひどく人形めいた姿になる。 長い睫に、ミルク色の肌。 大きく印象的な菫色の瞳は怖いほど澄んでいて、見る者は一様に驚いた顔をする。 細いがバランスのいい体型を見て、ミニチュア美少女フィギュアと評したのは、キラの雇い主の同僚だっただろうか。 いつも概ね元気な子供だったのだが、ここ最近は憂い顔が増え、痛々しい溜息が増えた。 それでも頑張るキラの小さな手には、キラキラした球体の飾り。 クリスマスツリーのオーナメントの飾りだった。 もう、ずっとそれと格闘している。 「これ、いつ終わりが来るんだろう?」 眉根を寄せて覗きこむそこには、目の大きな子供の顔が歪んで映っていた。 もうずっと、しょんぼりした顔で固まっていることを、キラ自身も自覚していた。 ――ヘンな顔。 歪んでいるのも手伝って、マヌケに見えてしまう。 それが自分自身の顔だと気付くまで、実は当初、しばらくかかった。 思考力が鈍っていたというより、初めは単に新鮮だったのだ。 頭についている大きな猫耳は、大きく映ったり小さく映ったり球体を覗き込むたびマジックミラーのように表面に映る。 特に頂点に映る猫耳は小さくなって見えなくなる。 本当になくなったとしたら、こんな感じだろうか? そう思いながら顔を近づけると、映っているのが見えてしまう。 だが、完全に映らないようにすることなど無理なのだ。 キラには猫の耳がついている。 それは、変えられないことだ。 初めから猫耳で生まれてきたのだ。 この屋敷に来た時に貰った、それを隠すための大きな帽子は、もう必要ないと取りあげられてしまった。 『ちゃんと守るからだいじょうぶ』 キラの頭を撫でてくれる3人は、口々にみんなそう言った。 シンと――ご主人たち二人。 嬉しい言葉ではあったが、どうしてもキラの不安を拭うには至らない。 猫耳は、本来は隠さなければいけないもののはずだからだ。 ぴょっこりした耳は、どうにかすれば取ることも出来るはずで――猫耳のあったシンは、そうやって自由になった。 けれどキラのは、取れる気配すらない。 ピンとした耳の付け根を押さえたり引いたりしてみるが、びくともしない。 コキンと首を折って考える。 シンより耳が大きいせいかもしれない。 それとも、取れて欲しいと望む力が足らないから取れないのだろうか? そんなことを真剣に考え始めている。 確かに、キラはシンほど猫耳で苦労をした記憶がない。 何故なら、ずっと誰かしらに守ってもらっていたからだろう。 猫耳のコーディネイターは、『生きた宝石』と呼ばれるデザイナーズチャイルドで、遺伝子を極限までに弄ったスーパーコーディネイター計画により生まれた子供と言われている。 珍しいとされているのは、単に人権上の問題から厳重規制されているというだけではなく、成功例の確認が難しいとされているほど希少なものだから。 遺伝子操作の究極を目指したもののため、一般的なコーディネイターとの差別化のために目印がつけられており、多くの場合、それは猫耳とされていた。 中でもキラは、遺伝子操作のイレギュラーによって偶然生まれた、唯一の完成体であり、それゆえ本来のマスターの元から誘拐されてしまったのだと言う。 ブリーダや闇の仲介屋が喉から手が出るほど欲しいのが、完全体で、彼らがどこまで把握して厳重に守られていたはずのキラを誘拐出来たのかは分からない。 元のオーナーの記憶のない、ほぼブランクの状態でキラは連れ去られた。 そして、ブローカー同士の取引の最中に偶然通りかかったシンが成り行きで助け出し、さらにザラ家の子息、アスランによって保護されて、ここにいる。 それなりに大変な目にも遭っているはずなのだが、本人に自覚はなく、それゆえ危機感も薄く、安全な場所に保護してもらっている今でもなおシンからは『危なっかしい』と叱られ、『危機感がない』と頬を抓られてしまう。 けれど、きっとそうでいられたのは、一人ではなかったからだ。 それなりに色々あったが、結局今も、この広大な屋敷の中で、何不自由なく保護して貰っているおかげで、自分が狙われているという自覚がキラにはない。 それゆえ、ときどき猫耳でありながら自分は異端者だと言う事実を忘れそうになってしまうのだ。 指をさす者は、徹底的に排除された優しい空間にいたのだ。 それはとてもありがたい事なのだが、こんな風にポツンとひとりになると不安で泣きそうになる。 ――もっとしっかりしなくちゃ、いつまでたってもシンのようにはなれない。 ひとりぼっちで淋しいなど、オルスバンの出来ない幼稚園児のよう。 猫耳だった頃のシンは、キラを連れて逃げながら、たった一人で薬や食料を調達していたのだ。 時には、傷を作って帰ってきたことも知っているし、自分は食べなくてもキラにくれようとしていた。 それに比べれば、ひとりでじっとしていることくらい、簡単だったはず。 ジャマをしないことやワガママを言わないことくらい、ずっと出来ていたはずだ。 キラはオーナメントの球体を目の前にかざして、それをじっと見つめた。 ツルツルしてピカピカのその表面は、大きな窓もソファーもテーブルも椅子も、部屋のすべてを映す歪んだ鏡。 そこは、伸びたり縮んだりする不思議な世界。 けれど球体に、キラの会いたい人は映らない。 こんなものの中しか、もう探すところがないのだ。 空元気を吹かして無邪気に楽しい振りをしていたが、一人では、どうしても楽しくなれない。 溜息をつく目の前には、大きな深緑のモミの木。 となりに置かれた箱には、キラキラした飾りや色とりどりのリボン。 それらの飾り付けを頼まれているのだが、モミの木はキラの何倍も高さがあるので、手の届く下の方だけ集中して飾ることになってしまい、下枝は床に届くほど垂れ下がってしまった。 まるで、枝を苛めているようだが、仕方ない。 高い所は、ロボット鳥のトリィに任せようとしたのに、トリィは手伝ってくれないばかりか、キラなど素通りして毎日どこかへ姿を消してしまうのだ。 あっさりしたものだ。 お願いした尖った星も星空を駆けるペガサスも、ヒョイと嘴で咥えると、ドアが開いた隙を狙って、パタタと一直線に飛び出して行ってしまう。 トリィにだけの秘密任務があるようで、ぽつり残されて見送るキラはセツナイ。 そんなこんなで、執事から仕事を貰ってから、もう1ヶ月も経っているのに、ツリーの高い場所は全く飾れていない状態だった。 このままでは、終わる気がしない。 キラ自身にやる気が出ないのと、仮に出来なくても誰も咎めそうに無いのとで、余計に進んでいないのだ。 けれど残念な事に、期待されていないことを、キラ自身が肌身で感じていた。 誰からも期待されていない――ずっとひとりぼっちは、雨に濡れながら路地に転がっているよう。 12月に入ってずっと屋敷の中がざわめいていて、窓から見えるみんなは忙しそうに動いている。 けれどキラは、自分に出来る事が思いつかない。 申し訳のように与えられたこのツリー飾りつけは、厄介払いなのだと、さすがに気付いてしまった。 居るとジャマになるから、追い払われて隔離されたのだと、ニブイキラにも分かってしまったのだ。 でなければ、こんな不恰好な飾り付けをして、誰からも叱られないはずが無いだろうし、いつも気にかけてくれるキラの雇い主が全く声をかけてくれないはずはない。 「キラも、お手伝いしたい。一緒にいたいよ」 けれど、それが迷惑だと言われているのが現実なのだ。 はあ…と肩を落として、役立たずはモミの木を突つくしかない。 だいたい、キラはクリスマスツリーを知らなかった。 初めはクリスマスツリーの飾りを見ても、何をするものか、しばらく悩んだほどだ。 そのツリーを知らないキラから見ても、目の前の中途半端な飾り付けのモミの木は、あまりにアンバランスで見栄えが悪い。 飾れば飾るほど不恰好になり、不恰好なのが、余計に、やる気を失せさせる。 褒めてくれるか、叱ってくれるヒトがいないと、つまらない。 走っているのか止まっているのかすら、分からなくなる。 執事は経過を監視しているだけで、指示を出す事も手伝う事もしてくれないのだ。 テーブルマナーには煩いのに、いつまで経っても終わらない飾りつけを注意することもない。 けれど、背伸びをするあまり、後ろに倒れそうになったとき、つぶさに抱きとめてくれたのは、他でもない気難しい壮年の執事だった。 倒れそうになったキラを支えた執事は、眉一つ動かすことなかったが、かすかに頬が引き攣って、眉はしかめられていた。 何か粗相あっては、彼の忠義心が許さないという空気が、びんびんと伝わって、余計にキラを萎縮させた。 その日から更に、飾り付けのペースが落ちたのは言うまでもない。 ションボリした発育不良の猫耳が、さすがに可哀相に映ったのだろう。 厳しかった執事が、少しだけ優しくなった――ような気がする。 どうでもいい仕事をくれたのは、厳格な執事をしても困った猫耳の子供を扱いあぐねた結果なのだと気付いて、キラの耳は垂れっぱなしだ。 執事はキラを、キラ様と呼ぶ。 その円熟した業務をこなす執事を、敬称なしで『アデス』と呼ぶようにと言われているが、当然キラには難易度が高い。 呼ぶようにと言われてみて初めて、それまでも彼を名前で呼んだ事などなかったのだと気付いたが、自分よりも明らかに目上の人を呼び捨てにする勇気などない。 物言いたげにモジモジしていると、先に言いたい事を当てて貰っているのが常で、これまで困った事もなかった。 それでなくとも何もかも御世話になっている立場だった。 負い目まみれのキラに、誰かを呼び捨てにすることなど考えた事もなかったのだ。 確か、厨房のお兄さんは『坊主』と呼んでくれるが、ご主人二人とシン以外の誰からも『キラ』という名前で呼ばれた事はないし、キラもこの屋敷の誰の事も名前で呼んだ事はなかった。 まして、保護して貰っているご主人たち――アスランやアレックスを呼び捨てにしろと言われても、出来るはずが無かった。 請われて何度も努力したが、喉に言葉が貼り付いて声が出ない。 それが二人を――特にアレックスの顔を曇らせるのだと気付いたときは遅かった。 どうにかしようと悩むうちに、会えなくなってしまったのだ。 本当に仕事が忙しいのもあるだろうが、会わせて貰えない期間があまりに長いので、その理由を考えたキラは、この原因に思い当たった。 当たり前すぎる答えだった。 ――どうにかして、呼んでおけばよかった。 不甲斐ない自分を責め続けて、胃がチクチク痛んだ。 そっとポケットから取り出した懐中時計には、二つの大粒の宝石がぶら下がっている。 『ここにいてくれ』と言う言葉とともに、ご主人たちから預かった二人の母親の形見だという。 出て行こうとしたときに一度返したのだが、ここにいてくれと言う言葉とともに、キラの元へと返ってきた。 この屋敷にいてくれと言われて泣いたことを、キラは忘れない。 あのとき、アレックスに穿たれた耳の傷は、もう完全に塞がっている。 怪我をしたせいで、アレックスが負い目を感じているのか、余計に大事にして貰っていることもキラは知っていた。 「でももう、会ってくれないのかもしれない……」 考えると、ひどく不安になり泣きたくなる。 ――早く、シンが帰ってこないかな……。 せめてシンさえいれば、淋しくなくなるだろう。 同じ猫耳だったせいか、きっとシンがいれば笑い飛ばせる。 いつの間にか耳を落としていたシンは、いつの間にか軍に所属していて、アスランとともに任務で長期不在にすることが多かった。 この屋敷に隠れなくても、もう猫耳を落としたシンはヒトに紛れてもかまわないのだ。 自由になれたシンは、生き生きしている。 この屋敷にいてくれるのは、義務だとか責任だとかそう言ったものなのだと、いじけたキラは考え出す。 猫耳があっても無くてもシンは全く変わっていないはずだが、猫耳がなくなってからのシンは、キラと言う、護らなければならないお荷物から解放されて安心したのだろう。 キラという足かせがなくなり、自由になったシンは、以前よりも幸せそうで充実しているように見えた。 キラに触れるときも、楽しそうに輝いて見えた。 もう、隠れる必要も襲われることもない。 どこへでも飛んで行ける余裕が眩しすぎる。 責任感の強いシンは、ちゃんと荷物を降ろしたのだ。 有り難いことだと分かるし、感謝しているのに、棟に穴が開いてしまって、そこから中身がこぼれてしまう。 ――いいなあ。 どんな事があっても、泣かないように笑って手を振るのがキラの仕事だ。 何故なら、ここから動けないから。 みんな、遠くへ行ってしまって、いつも一人になってしまう。 もう慣れた思っているし、今はトリィがいてくれる。 もう淋しくないと思っていたのに、トリィすら勝手に飛んで行ったまま、帰って来てくれない。 追いかけたかったが、猫耳のキラは、むやみに屋敷内をうろついてはならないと厳命されていた。 決められたドアの向こうへは行けないから、見送るしかない。 『申し訳ありませんが、警護上、キラさまには大事をとって頂かなければなりません』と、やんわり、だが反論は許さない威圧感で言い含められた。 訪問者の中には、時折、子供がいた。 大きな声で泣いて笑って、屋敷も中庭も走り回っていた。 檻の中の大型犬をからかって調子に乗っているところを、蒼白になった大人に捕まえられたが、それでも人工の太陽の下で元気一杯だった。 キラはそう出来ない。 猫耳を匿っているということは、ザラ家にとってリスクの生じることで、それでも置いて貰っているのだ。 以前はアスランやアレックスのどちらかが遊んでくれたので、出歩けない事が不便だと思ったことはなかったし、自分の存在が、ここまで迷惑なのだと気付く事もなかった。 甘やかされすぎて、普通が何だか分からなかったのだ。 ひとりで遊ぶ事も多かったし、中庭で昼寝しても叱られなかったし、執務室に御茶を運ぶのもキラの仕事だった。 だが、十二月になり、部外者の出入りが今までないほどに増えている。 アレックスが急に本腰を入れ始めた事業が正念場なのだと、執事のアデスは簡潔に説明してくれた。 事業を拡張することは、キラも知っている事だった。 向こう側の屋敷の廊下を小走りに駆けて行く人影は、今まで見ていた、ご機嫌伺いの人達とは明らかに違った。 あの人たちに見つかってはいけないのだと、本能的に知っている。 何故ならキラは猫耳で、狩られる対象で、それを匿っていることでザラ家に不利益が生じる。 テリトリーが侵されるのだ。 猫耳もコーディネイターではあるが、普通のコーディネイターとは少し違う。 猫耳は特別な商品で、主に人身売買の対象物とされ、ペットのように売り買いされる、そんな身の上なのだと猫耳の頃のシンは教えてくれた。 キラが『マスター』の元から攫われたのは、そんな理由なのだ。 誘拐されたキラを以前から知っていたというザフトのアスランが保護してくれたというのは、とてつもなく幸運なことだったのだと、耳を落としたシンからは何度も何度も釘を刺された。 けれど、キラは今ひとりぼっちで、貰った仕事をこなす力もない。 頑張らなければならないのに、どこかが壊れてしまったみたいに、元気が出ないのだ。 病気かもしれない。 胸を押さえれば、細い肋骨の奥の方がキュウキュウと軋むのが分かる。 それは以前は知らなかった痛みで、キラの中で少しずつ大きくなり、下手をしたら壊れてしまいそうなほど軋んでいる。 『情緒不安定』というのかもしれない。 一人ぼっちで考えていると、温かい部屋にいるのに、身体の表面に何かがパリパリと貼りついたように上手く動けなくなる。 怖い物に捕まってしまうのだ。 振り払うように頭を振って、何度溜息をついただろう。 ――早く、ツリーを仕上げなくちゃ。仕上げて、調べ物をしよう。 今度は一人になっても大丈夫なように、ゴハンの作り方を覚えて、エレカの運転も出来るようになりたい。 迷子にならないように、もっともっと地図も調べなくては。 言葉も、たくさん覚えて、一人でも平気になりたい。 ずっと考えていた事だが、今、ひとりぼっちでこんな気持ちのときに思いつくと、改めて我に返るのだ。 ――それは全部ここを出るためのこと。 不意に小さな胸が掴まれたように痛んだ。 いつかは出るつもりではいたのに、それを考えることは、ひどく淋しいことなのだと改めて知る。 ――いつまでひとりぼっちが続くのかな? それともずっとひとりなのかも。 しょんぼりと天使の飾りを抱えていると、遠くからふわりといい香りが漂ってきた。 甘い匂い。 そっとポケットから懐中時計を取り出して蓋をあけると、思った通り針は午後3時15秒前を指していた。 つづく 2011.02.15 Tue 03:51:43 バレンタイン |