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ダブルシークレット 5

「とにかく。腹立たしいのは分かるが――本当に彼女はキラを大切にしていたんだよ。それは事実で変わらない。手を尽くした上で、さらに俺にまで捜索を頼んだし、今回のことも藁をも縋る思いでパーソナルデータを開示したのだと思う」
「だから、なんで今なんだよ?! 本当に大事なら、そんなの、もっと早くするべきだろ? 時間が経てば経つほど捜索が困難になるのは、鉄則だって分からないくらい暢気なのか?」
掴みかからんばかりのシンの声は荒れていたが、それは事情を理解した上での苛立ちでもあった。
キラのような特殊な『生き物』の情報を公に開示することは、悪戯に危険を増やす危険性もあるのだ。
国宝級の宝石が紛失したという詳細情報が広まれば、それを自分のものにしてしまおうと動く者も増える。
事は、只の誘拐事件では済まないのだ。
もしも猫耳唯一の純血種が繁殖に使われたとしたなら、巨大な闇マーケットが形成されるのは確実となっただろう。
繁殖などと、生易しい使われ方がされるとは思えない。
いくらコーディネイターといえど、優れたものを所有することほど楽しいものはない。
さらに、もしもナチュラルの手に渡った場合、どんな使われ方をするのか、それを容易に想像出来るほどの施設を、ザフト所属の彼らは視て来ている。
それを容易く想像してしまえるから、シンは腹立たしくてならないのだ。
「軽率だと感じるのは――確かにシンの言う通りだ。それでも俺の知る限り、ラクスは全部を覚悟して動いていたと思う。要人の動きも闇マーケットの動向も常時マークしていたはずだ。だから今回のこれは、キラが連れ去られてから経過した時間を鑑みたうえで、たぶん彼女が『限界』だと判断した結果なのだと思う。併せてこれだけ引き伸ばしておいた大きな餌で釣れば、なにかが尻尾が出す――そんな一縷の願いに縋ったんじゃないだろうか」
自嘲的に声を潜めたアスランの、『限界』と言う言葉の意味は、実はとても重いもので、アレックスとシンは息を詰めて黙りこんだ。
彼女が心血を注いで捜索するキラを知りながら匿い、隠蔽しているのだ。
本当にそれは、ひどく罪深い。
ドアの向こうの沈黙を、キラでは正確に推し量る事は出来なかったが、アスランの淡々とした声が『よくない事』を言い、他の二人が同意しているのが分かってしまった。
以前からアスランは、本当のマスターだというラクスのことを教えてくれていた。
キラが自分から会いたいと言う日を待ってくれているのも知っていた。
けれど会いたいと口に出さないことで、アスランがホッとしているのも知っていたし、撫でてくれる掌が優しかったから、キラも忘れた振りをして誤魔化していたのだ。
――どうしよう。
いくら考えても、どうする力も猫耳のキラは持ち得ない。
勝負しようにも手札が少なすぎるのだ。
ドアの向こう側のアスランたちの手の中にカードがあるとすれは、きっとキラのものよりも確実に効果を発揮しえるはずで、それがどんなものか知ったとしても、キラが同じ物を手にする事は、ほぼ無理で、きっと優しい彼らは誰もそれをキラに望まないだろう。
けれど、それでは何も始められない。
ここに留まって、少しでも方法を探らなければならない。
キラの手の中には何もないのだ。
そう思い詰めるよりも以前に、とっくに膝から力は抜けていたけれど。
そんな悲愴な決意でドアの前で身体を縮める子猫に、彼らは気付けない。
「つまり……ラクスはキラが連れ去られた当初からずっと最悪を想定して動いているし、一度も諦めてはいない。あちこち飛び回る俺が、何か情報を掴んで帰るのではないかと捜索状況の話もしてくれる。……彼女に会うたび、ここにキラを隠していることが申し訳なくなる」
溜息交じりのアスランの声に、シンが即気色ばんだ。
「ちょっと、アンタ、今さら何言ってんだよ!」
「このままキラをここに置いて、それが本当にキラの為になるという保障はない。今、キラの身体に目に見えたトラブルが起こってないからいいようなものの、何かあったときはラクスでなければ分からないこともあるはず――」
「何だよ! 話が違うだろ! ちょっと、アンタも同じ顔なんだから、黙ってないで何とか言えよ。アンタだって、キラはここに置いたほうがいいって言っていただろ?」
「そうだが……でも実際に、ラクスと対峙すると、アスランがそう思うのも仕方ないかもしれない。誘拐されたとはいえ、セキュリティーの穴を突かれたにしろ、彼女に落ち度があると言って酷なのは事実だし、今までの捜索も、今回の情報開示の処理も的確だ。だからこそ、キラを隠しているという負い目があるだけこっちが不利ではある。たとえば彼女の財産を侵害している点においても、訴訟を起こされると全面的にこちらが負ける」
アスランに同意するアレックスに絶望したように長い息を吐いたシンは、『信じた俺が馬鹿だった』とキレた。
「二人して今になって……何を言ってんだよ! じゃあ、アンタらはどうしたいんだよ? 心配した振りして、結局、キラをマスターっていうのに渡すのがアンタらの最終目的だったのかよ?」
以前はシンも、マスターの元へ返して幸せになるなら、そうしたほうがいいと言っていた――ザフトの任務に慣れる前の多忙な頃のことだ。
そして、変わらず多忙とはいえ少し慣れた現在も、結局はシンもキラを一番にしてはいない。
そこまでの拘束権を、シンは持っていない。
そして、もしかしたら誰も持ってはいないのかもしれない。
その状態で、何年もキラを捜索し続けているラクス・クラインと比べて、キラを大切にしているとは胸を張って言い切れないのだ。
それに気付いているからこそ、シンは焦燥するのだ。
何よりも、一度シンは手に負えなくなってキラを捨てている。
だからこそ、二度目はない――それしか答えはないのに、実際は傍にいてやれる時間などわずかだった。
「……俺はキラがここにいるならいいって思ったんだ! キラが安全で何も困らなくて、幸せならそれでいいって思ったんだ。アンタはそれをキラにくれると言ったじゃないか。だから、俺はアンタにキラを渡したんだ。でも、アンタがキラを放棄して顔も覚えていないマスターだか何だかのところへやるって言うのなら、俺はキラと出て行く」
「出て行ってどうするんだ、ザフトは?」
「そんなものっ! 初めから続ける理由も意味もない! 軍人なんて楽しい仕事でも何でもないだろ!」

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ダブルシークレット 4

「俺は雑種だし、ブリーダーに捕まるつもりも売り飛ばされるつもりもなかったからな。鑑札タグがあろうがなかろうが俺のことはいいんだよ。そんなことより――ここに来たとき、アイツの耳に小さな傷痕でもあったか?」
明らかに糾弾を目的としたシンの声音は、誰にも問いかけてはいなかった。
静かな怒りの焔だけを灯すシンの淡々とした声音は、何も受け入れる余地があるはずがないのを物語っていた。
「あるはずがない。キラに鑑札なんか有るはずがないんだ……俺の知る限り、キラにそんなもの。むしろ無傷だったアイツの耳に傷を付けたはアンタだったよな?」
瞬間、さらに重い雰囲気が広がったのが、隣の部屋で耳を澄ます鈍いキラでも手に取るように伝わった。
掌に汗ばかりではなく、額からも嫌な汗が流れて、身体の震えが止まらない。
去年のクリスマスに、アレックスから負わされた傷がキラの猫耳にはある。
今はもう完治しているが、しばらく塞がらなかった、その傷のせいで夜になると発熱し続けたためか、思えばそのころの記憶も曖昧だった。
ただ、皆から甘やかされていた思い出だけが残っている。
傷のことを、ずっとアレックスが気にしていることをキラは知っていた。
あのときのアレックスが怖くなかったとは言わないが、それよりも、あのときのキラは猫耳を捨てたシンにショックを受けた状態だったので、たった一人の仲間に本当に捨てられたような気がして、目の前が真っ暗になっていた。
猫耳の傷の事はキラも納得していることだし、その何倍もアレックスからは可愛がって貰っている。
いつもお菓子をくれるし、この間は絵本と水栽培のセットもプレゼントして貰った。
確執のあったアスランとアレックスの双子同士も仲良くなり、シンと自分を入れた四人で上手く行っているのだと思っていた。
あのクリスマスの事件のことを掘り起こさないのは暗黙の了解だったはずなのに、それを敢えて口にするシンは相当、感情の歯止めが効かなくなっているらしい。
自分が何をしに、アスランの寝室に侵入したのかすら、キラは分からなくなっていた。
抱えた膝に額を埋めても、ドアの向こうから追求の声は、まだ続く。
「そもそもアンタの言う、キラが、そのクライン家で大切にされていたって言うのも怪しすぎる」
「それは本当だ、シン」
「……本当なら何でアイツは、あんなクズらに攫われてんだよ? マスター様なら、猫耳がアイツらに捕まったらどうなるか分からないはずがないだろう?」
以前、捕まれば骨までしょぶられると、シンが吐き捨てたことがある。
ブローカーにブリーダー。
猫耳を狙う組織は一部が摘発されても、途方もない金が動くだけに、その根は深い。
プラントは政府を挙げて、それらの検挙に力を注いでいるが、その政府内にすら怪しい動きが見え隠れしているのは、逮捕者が冤罪目的で駆け引きに持ち出す、きな臭い証言で明白だった。
だから、シンもアスランも疑念を消す事が出来ない。
深い闇を知るだけにアスランは言葉に詰まり、シンの糾弾に黙りこむしかない。
それはきっと、シンの怒りを煽るしかないのだ。
「俺はアンタに聞くまで知らなかったけど、アイツは俺とは違って唯一だとかいう純血種なんだろ? それをみすみす誘拐されて、今頃になって関係者だけに分かるとかいうパーソナルデータを公表して、『大事にしていた』なんて、どこに信じる馬鹿がいるんだよ。――それとも、『いま手元にありませんが、大金支払った猫耳だからツバがついています』とか言う意味デスカ? ……どいつもアイツを物扱いするのもたいがいにしろ」
怒声と同時にドン! と、何かを蹴飛ばしたような音が響いた。
聞いていられなくなって、キラはドアに背を向けたまま、身体を縮めて震えていた。
シンを助けるどころではなく、結局キラ自身のことで揉めていただけだ。
――シンくんが怒ってるのも、アスランとアレックスが困っているのも、また、キラのせいだなんて。
情けなくて消えてしまいたくなる。
猫耳が厄介者だということはキラ自身も身にしみて分かっていた――というか、いくら隠されても気付く。
『キラごときが俺の心配だなんて百万年早い』
落ち込むこんなとき、いつも意地悪なシンの声が甦ってきて、余計にキラを落ち込ませる。
「いきがって助けに行くなんて、本当に馬鹿みたい……」
滑稽すぎて笑おうとしたが、頬が強張って難しい。
――もう、猫耳なんかやめたい。
そうは思っても、キラではどうにもならない。
ハサミで切りとるわけにもいかないのだ。
ヒトと区別される猫耳は微妙な存在で、取り扱いにも厳重注意があるという。
それでも、およそ考えられないほどの金額と引き換えに、生きた宝石と言われる猫耳を欲しがる者は多い。
唯一の純血種と言われるキラで言えば、その価値はコロニー数基分とも言われている。
大きすぎて想像もつかないそれは、マスターが所有する猫耳キラに対する一生の全責任を負うと言う管理責任の金額とも言える。
生死や生殖管理、遺伝子管理も含めて、全てマスターに権限があるのだ。
ヒトの世界で異端の存在を飼育するのに必要な額が、ポンと出せるかどうかがマスターの資格や資質のひとつとされているのだ。
そのマスターの所有権の主張は、絶対のこと。
猫耳という異端の生き物の生態管理を怠ったとなれば、マスターにも大きな罰則が発生することも必至なのだ。
それを知れば、キラはマスターの元へ戻ったかもしれない。
だが今は、自分のせいで大切な人達が困っている事実にショックを受けて打ちのめされていた。
――シンくんはただキラのことで怒ってくれていたんだ。
詳しいことは分からないが、また問題は自分なのかとキラは額を膝に押しあてたまま震えを止めようとするが、うまくいかない。
今まで、キラがザラ家に居る事は秘密になっているが、その意味までは深く考えないようにしてきた。
行き場のない猫耳だから――ただそれだけだと思おうとしていたのだ。
でもそうではない。
キラのマスターはラクス・クラインという歌姫で、『アスラン・ザラ』ではない。
それは、ひどく悲しい事だと思った。

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ダブルシークレット 3

「キラは……ラクスと過ごした記憶がないから彼女を恋しがらないんだと思う。俺は彼女からキラに引き合わされはしたが、キラの寝顔くらいしか見た事がない。ラクスが意図的に眠らせていたことに意味があるとしたら、ここで自由にさせていいものか、俺には分からなくなる」
「そんなものが……忖度しなきゃならない内容ですかね」
チッと、シンのものらしき舌打ちが忌々しげに遮ったのを聞いたとき、キラは喉の奥になにかが詰まったように息が出来なくなった。
「だってそうでしょう? 病気でもないのに眠らせておくなんて、明らかにおかしすぎるだろっ。俺といたときもキラはオトナシイものだったよ。ほとんど抜け殻で、食事を摂る時間すら起きていられない。元々枯れ枝みたいな腕がどんどん細くなって透き通っていくんだ。そうやって衰弱して行くのがどんなものだったか、アンタらに見せてやりたい――。お陰でこっちは、どれだけ闇医者に金を注ぎ込むことになったか」
まくし立てるように、やりきれなさそうにシンは怒鳴った。
キラは打たれたように、身体を震わせた。
迷惑をかけていたのは知っていたが、シンの口から直接内容を知ったのは初めてだったのだ。
「……多分、眠らせておくことがキラにとって最良のコントロールだったのかもしれない。このデータが正しいとしたら、キラがあんなに幼いはずがない。それに、こんな風に幼いままに出来るなら、それを行ったことに根拠がないはずはないだろう。本当に俺の知る限り、彼女はずっとキラを大切にしていたんだよ」
噛んで含めるようにも、苦い物を飲み込むようにも聴こえるアスランの声には、それでも少しの動揺が窺えた。
そしてそれが、さらにシンの逆鱗に触れることに、きっとアスランは気付けなかったのだろう。
「……正しいって何だよ。成長や発達具合は個々人それぞれだろ? それとも赤ん坊みたいにしておくのが大事だとでも言うのか? まさか、猫だから寝るのが仕事だとか考えてるんなら、アンタらは何も分かってない。そう思ってんのなら、大層な口を叩くアンタらにだって猫耳はペット扱いってことだ。何しろ優秀なコーディネイターさまの好奇心で遺伝子を弄って作り出した愛玩動物だもんな」
自嘲と怒りに震えるシンの声は、無差別に世界を責めていた。
猫耳は遺伝子操作で外見を操作するだけではなく、純血種ならばマスターの育て方で、後付けコントロール出来ると言われている。
遺伝子を最高レベルまでコーディネイトした猫耳の純血種は、奇跡と賞賛されるほど稀有な存在であり、その遺伝子までも芸術と言われている。
唯一の成功例とされるキラという猫耳の価値は計り知れない。
本来ならば、研究室の奥深くに仕舞われているはずのものだったのかもしれない。
けれど、何も知らない猫耳の子供は、ザラ家の陽だまりの中で無邪気に居眠りをするだけだ。
あまりに危機感のない平和な寝顔は、幸せそのもので、見ているだけで皆が癒される。
特別でも何でもない、当たり前のような可憐さと稚さは、きっと研究室で育てられたならば、あの繊細な容貌にはけして浮かぶことはなかっただろう。
キラ本人に自覚がないよう育てられたのが、マスターの愛情の粋たるものだということは、本当は三人とも気付いていた。
腹立たしいながらも、引き換えにラクスの引き受けたリスクも想像することも出来た。
だが、ドアの向こうで、怒りに任せたシンの声を聴いて涙目のキラだけは知らない。
――アイガンブドウブツって何?
聞きなれない言葉に胸を痛める猫耳の子供は、頭の中がパンパンで、世界がだんだん暗く閉じていくのを感じていた。
窓の外は晴れていて、窓から緑が覗いていても、写真の中のように現実感が薄いのだ。
とりあえず、シンはシン自身のことで困っているわけではなくて良かったのだが、騒動の原因が自分となると複雑になる。
文字通りキラという『お荷物』を抱えたばかりにストリートを追われたシン。
キラはお荷物で、厄介者。
けれど、そんなものがキラのマスターは欲しかったのだろうか。
アスランからキラには本当のマスターがいて、ずっと彼女はキラを探してくれているのだと教えられていたが、それを知ってなお、キラはザラ邸に置いて貰っている。
皆と別れるのが嫌だったからだ。
ここにいていいと言って貰えたから、ここにいられた。
それなのに、ドアの向こうの声達は、寄ってたかって引き取ったことを後悔していると言っていたようで、キラはドアの前でペタンと座りこんでしまった。
アスランが、時期を見てラクス・クラインと会わせたがっているのも、何度も感じていたことだった。
――ここにいていいって言ってもらってるけど、迷惑はかけたくないし……アスランが困っているのだから、いつか会わなくちゃいけない。
そう思ってはいたのだ。
でも、どうすればいいのか分からない。
こんなとき、一人でどこかへ行ければいいのにとキラは思う。
いつか、遠くへ行けるようになりたい。
出来るだけ早く、遠くへ。
無力さを噛み締める背中で、ドア一枚向こうから漏れる声は重苦しく暗い。
「とりあえず落ち着け、シン。……キラがラクス・クラインから大切にされていたことは嘘ではないだろう。だが実際にキラは全く覚えていない。アスランはキラと面識があっただろうが、本人を保護したときは何ひとつ覚えてなかったんだろう? ここに来て、俺はキラからラクス・クラインの話を聴いたことは一度もない。強いて言えば、彼女からきた招待状の香りに少し反応した姿を見たことがあるだけだ。俺といても口を開けばいつもシンの話ばかりだった。キラにとって、シンが全てだったのは、間違いじゃない。だから君とキラとは特別だって思うのは自然だろう?」
落ち着いた声音だが、自嘲的な口調はアレックスらしい。
それに、シンのヤケクソぎみの声が重なった。
「それこそ勘ぐりすぎですよ。……とりあえず言われる前に言っておきますけど、俺はアイツに何も疚しいこと何もありませんよ? 拾ったのも捨てたのも俺だけど、それはアンタらみたいな豪華な食事も安全もアイツにやれなかったからだ。捕まったら可哀相だから、そのときは殺してやることが幸せだと思っていた。だから……誕生日なんてオメデタイ余裕は頭を掠めもしなかったよ。アイツは俺とは違う。それにアイツの耳には、初めから鑑札タグだって打ち込まれていなかった。それで俺にキラの情報なんか分かるはずがない」
普通の猫耳には、生まれてすぐに鑑札証が打ちこまれると言う。
テディベアのタグのようなそれには、登録された情報チップがあり、その猫耳自身のデータが記録され更新されることになっていた。
「シンは自分でタグを千切っていたと言うのは本当か」
「ああ、家畜じゃあるまいし、あんな物を付けられて嬉しい奴がいるかよ。アンタらだったら自分の耳にあんな物をつけられていたとしたらどうだよ?」
犯罪者ならば身体にチップを埋め込まれるが、要はそれと同じだと、シンは毒づいた。
この話題は、シンにとって楽しい話ではないはずだった。
それも、ここでザラ家の二人に怒りをぶつけても仕方ないはずからだ。
それなのに、敢えて傷口に指を突っ込んで掻き回さなければならないシンの気持ちを思うと、キラは泣きそうになる。
シンが自分のために、敢えてそうしているのではないから。
――きっと、キラのせいだ。
きっとアスランやアレックスには、あの夜の匂いや、ヒヤリと心臓を押し潰されそうな恐怖を、けして想像できないだろう。
キラとて、誰かに分かって欲しいとも思わない。
自分の心の中で小さく畳んで、その上に楽しい事をかぶせて隠していく。見えない見ない。
シンがそうしていたから、キラもそうした。
それを、三人がかりで掘り起こさなければならないほどのことがあったのだろうか?

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今朝は寒いです。
横になるときついので徹夜してしまいました。

とりあえず続きあげときます

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ダブルシークレット 2

昨日の夜、予定よりも早く戻ってきたシンは、久しぶりのせいかとても優しくて、キラの目の前に、お土産をたくさん並べてくれた。
内緒でゲームもくれたし、街で買ってきたというジャンクフードも気前良く分けてくれた。
もう冷めてしまったハンバーガーにポテト。
それから、色んな色のキャンディ。
中でも派手な色のチョコバーは、路地裏で食べた懐かしい味で、もう一度食べたいと思っていたものだった。
きっと、お抱えパティシエのいるザラ家で見せれば眉を顰められるだろうが、添加物でいっぱいのチョコバーは、あの頃のキラたちにとって、何よりも大切な栄養源だった気がする。
シンは屋敷から外に出る機会が多いので、今でも口にしているようだったが、なかなかキラにはくれなかった。
アスランから止められているらしく、絶対に駄目だと取り付くしまもなかったのに、昨日は特別だった。
「二人だけの秘密だからな」
ひどく喜ぶと、シンは照れ隠しに怒った顔を作っていたが、嬉しいか? 美味しいか? と、何度も聞いてくるのが子供みたいで可笑しかった。
長期勤務から戻ったばかりで疲れているはずなのに、小言付きではあったが髪を洗ってくれて乾かしてくれた。
あんまり優しいから夢みたいで、キラは思わず目の前にあったシンの鼻を摘まんでしまい、バスタブに埋められそうになったほどだ。
夜だから静かにするようにと執事から窘められるほど楽しくて嬉しかったのに――本当に何があったのだろう?
アスランの部屋からシンの怒鳴り声がしたということは、アスランと何かあったのだろうか。
優しいけれど、アスランは気難しくて時々怖い。
今朝、アスランを起こしに行ったときには、特別何も感じなかったが、機嫌が悪いのかもしれない。
寝起きが良くないのはいつものことだから、怒ってはいなかったと思うのだが、とりあえずシンがピンチなのだからキラが頑張るしかない。
「よいしょっとっ」
いくつも踏み台を重ねてアスランの寝室の窓によじ登ると、キラは音ひとつ立てずに床に飛び降りた。
小さいながらも身のこなしはなかなかなものだが、腰の引けた所作は、ぎこちなくて、初めて狩りをする仔猫のよう。
飛び降りたときに背後にレースのカーテンが広がった。
室内は穏やかな静寂に包まれたままで、こんな形で潜入したキラの気分はスパイ映画そのもの。
潜めた息を吐いても、心臓がバクバクと音を立てた。
今朝、この窓を開けて、この場所から庭を眺めたときは、こんなことになるとは思わなかったが、緊急事態はいつも突然だ。
ドアの向こうの次の部屋が、シンの声がした執務室だった。
飛び込みたいが、まだ様子が分からない。
アスランの部屋のチョコレートのようなドアは、重厚で防音防炎の優れ物だった。
外側から引くと音がするのに、ひどくゆっくりと内側から押せば、音もなく開く。
以前、間違えてドアを引いていたキラに、アスランが教えてくれたのだ。
無理やり髪を洗ってくれようとしたメイドから逃げていた時に、そうやって匿ってくれた。
そのときの事を思い出しながら数ミリ動かしたドアは、室内の声や物音を聞きとるには十分ではあったが、予想以上に人の気配が近くて、キラは息を殺して目を伏せた。
――ドアを動かしたら、きっとバレる。
部屋に繋がるドアに耳をつけると、くぐもっていはいたが、ハッキリした声がドアから伝わってきた。
「――で、オマエはどうなんだよ。……クライン家でキラと面識があったのは、この中でオマエだけだ。本当に何も知らなかったのか?」
よく知っている、大人っぽいのに、ほんの少しだけ拗ねたような声。
直感的にアレックスの顔がキラの脳裏をかすめた。
アレックスがアスランの部屋にいるのは、とても珍しいことだった。
やはり、なにか大事な話なのだろう。
「知らなかったと言うか……残念ながら、キラについては俺もそんなに詳しくはないんだ」
溜息のようなアスランの声が応えた。
それは薄く開いたドアの真ん前から聞こえて、キラの場所から気配が一番濃い。
――シンは?
ドアの向こうからは、今のところシンの気配は聞き取れず、もしかしたら、もう出て行ってしまったのではないかと心配になったが、不意に聴こえた小さな舌打ちは紛れもなくシンのもの。
やはり3人いるのだ。
先ほどの剣幕は、もう過ぎ去ったようだが、シンの舌打ちは、やはり不穏だった。
キラは息を凝らして、さらに耳を澄ますと、急にドアのすぐ付近から声がして、その不意打ちには飛び跳ねた心臓を押さえなければならなかった。
「あの頃、ラクスから引き合わされても、まるで反応を試されているような気がして、出来るだけ関わりになりたくないと思っていたし、実際に、あの頃の俺には、そんな余裕もなかったから、キラについてはラクスに何も聞いてはいない」
キラについて――と、思いがけず自分の名前が出されて、キラはコクンと息をのんだ。
何故、自分の名前が出るのだろうか。
――どういう、こと……?
さらに、固い声で関わりあいになりたくなかったと言われ、少なからず傷ついていた。
優しいけれど、いつも本音を話してくれないと思っていたアスランの、本当の本音を聞いたようで、キラの胸は、なおさら軋む音をたてた。
確実なのは、この部屋にはアスランとアレックスがいること。
先ほどオマエと呼んだのも、今、呼ばれて応えたのも、全く同じ声質だが別人だ。
ふたりとも同じ顔をしたザラ家の双子は声質まで同じ。
彼らは、入れ代わっても見分けがつかないほど同じで、初めはキラも完全に二人を取り違えた。
微細な違和感があっても、それに気付くほど二人と親しくなかったせいもあっただろう。
任務で家を空けていたアスランが屋敷に戻って来るまで、彼らが双子だということすらキラは知らなかったのだ。
だが、先ほどのアスランの話のように、キラはアスランとだけは、以前に面識があったらしい。
だからこそ、アスランが奔走して保護してくれたのだと合点がいくが、キラの記憶は曖昧すぎて真っ白だったし、ザラ家で保護された当初は、狩られたのだと思いこんで、逃げる事しか考えていなかった。
実際、キラは自分とシン以外の誰の名前も知らなかったし、シンに拾われてからも眠ってばかりで、覚える余裕もない有様だったのだ。
その頃のキラは、すでにおかしかったのだろう。
すぐに水すら飲む力がなくなり、極度の衰弱で動けなくなって、シンを困らせたのちにアスランに保護されたのだ。
さらに、今のように動き回れるようになったのは、ザラ家に来て、手厚い看護を施されてしばらく経ってからだった。

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思うように時間がつかえてなくて
なんか色々ありました。

拍手を下さる方ありがとうございます。
ヾ(๑╹◡╹)ノ"嬉しいです。

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ダブルシークレット 1

ダブルシークレット

「アンタらもいい加減しつこい! 何も知らないって何回言わせんですかッ!」
今にも暴れ出しそうな怒鳴り声が廊下の端まで響き渡り、キラは抱えていた水栽培の硝子ポットを取り落としそうになった。
光の差し込む、のどかな昼下がり。
庭の小鳥の囀りが屋敷にも響きわたり、窓から見える木々や花は目映いばかり。
それなのに、何事だろうか。
手や膝の裏が震えて、力が入らない。
何故だか急に息をするのが難しくなってしまった。
恐る恐る振り向いてみたが、そこはアスランの執務室のある見慣れた廊下だった。
だがシンの荒れた声は、まるで薄暗く治安の危ういストリートを思い出させて、キラの心臓は酷く跳ねた。
背中に冷たい汗が流れ、くらりと眩暈がして、辺りの景色が白黒になる。
身体に力が入らなくて、ぎくしゃくと床に硝子ポットを置いて、しゃがみこむ。手が震えていた。
めったにあることではないのだが、時折、常に身の危険の迫っていた頃のことは甦ってくる。
大半は眠っていたので知らないはずなのに、覚えている。
きっと、身体が忘れてはくれない記憶なのだろう。
ヒヤリと心臓を突き刺すような記憶を振り切りたくて、無理に仰向くと、あの頃とは全く違う爽やかな風が頬を撫でて、中庭からは小鳥の囀りが聴こえた。
おそるおそる目を開けると、キラの目の前には黄金色の球根からのぞく緑色の芽があった。
硝子に映えるそれらは涼しげで、風はさらりと吹いて前髪を揺らす。
そうして、ゆっくりとキラは我に返った。
球根を「玉葱みたい」と呟いて笑われたのは、つい先日のこと。
ここは優しい人ばかりで、みんな良くしてくれる。
だから、こんな所を誰かに見られたら心配させてしまう。
さらに、あんなに荒れたシンの声を、この屋敷の人達に聞かれたら、どう説明したらいいのだろうか。
それとも、あのドアの向こうで何か事件でも起こったのだろうか。
――どうしよう。
おろおろと辺りを見渡したが、一大事があった形跡はない。
落ち着こうとするのに、キラの頭の大きな猫耳はピンと立ったまま、金縛りにあったように身体の緊張は解けないそのまま。
瞠った大きな菫色の瞳は、ちょっと涙目だ。
何事もなかったように静かになったが、先ほど響き渡った声は空耳のはずがなく、確かにシンのものだったのだ。
焦れた声は剣呑で切迫していて、キラの耳がビリビリと痛むほど。
――もう、終わった?
腰が抜けそうなほど驚いてしまったキラは、やや落ち着きを取り戻すと、頭の猫耳を掴んだまま詰めていた息を吐き出した。
もしも本物の猫なら、尻尾が膨らんでいたかもしれない。
幸か不幸か、悪戯に付けられた猫耳の他にキラに尻尾はない。
ついでに猫の髭もないので、天気予報も出来ない。
今日の気象プログラムで雨の予定はなかったが、どうやらザラ家の雲行きは怪しいらしい。
とりわけ、目の前のアスランの部屋が台風の目と言ったところだろうか。
近づこうとすると、また何かシンが怒鳴る声がした。
特に執務室は防音が効いているはずなのに、現在進行形で廊下までシンの声が聴こえるということは、入って次の防音のドアを閉め忘れているに違いない。
アスランとシンがザフトの任務で留守の間、屋敷内は淋しいくらいに静かだったのだ。
別段不思議なわけもなく、それが名門ザラ家の日常のはずだろう。
普通なら、アスランの部屋で揉めるはずがない。
ここに諍いは、もうないはずだった。
――でも……何があったのかも。
そろそろとドアの隙間を覗き込むも、キラの腰は引けたまま。
そんなキラの心配をよそに、再び焦れた声は続けざまに飛んだ。
「だいたい知るも知らないも、俺よりもアンタらの方が情報を持っていたんじゃないのかよ。偉そうに保護するとか抜かして俺から取り上げたくせにッ!」
まるで、手近にあるものを放り投げるような容赦ない喧嘩腰。
あの深紅の瞳で睨めつけ、ワザと吐き捨てるような物言いで相手を挑発しているのが目に浮かぶよう。
昔からシンが先制攻撃を仕掛ける事が多いのは、体格的な理由があるのがひとつ――それから、他に逃げる場所のない猫耳だったからだ。
たとえ引いても、もともと狩られる身の上の猫耳には、他に逃げる場所などないから。
だから、シンが無理やりに牽制してしまうことを、キラはずっと前から知っていた。
本当に、シンは強いのだ。
以前はストリートの縄張りも広かったらしく、何度も昔の仲間に説き伏せられていたし、厄介者を捨てろと言われていたのも知っていた。
厄介者、それはキラ自身のこと。
役立たずなキラを抱えてからは、危ない事は避けて逃げることが多くなっていたらしい。
キラさえ拾わなければ、今もシンは、自由気ままに暮らしていたかもしれない。
――だから、恩返ししなくては。
今度こそ力にならなければ、また再会して貰った意味がない。
ドアの向こうから響く声は、表面上、怒っているように聞こえるが、珍しく切迫しているのが分かった。
以前のキラはシンからも動くなと叱られて、いつも隠れ家で眠って待っていた。
でも、今なら何か出来るはず。
「要するに……何か隠してんじゃないかって、アンタらは俺を疑ってるわけですか」
だが、ドアの向こうから響く、いっそう怒気を孕んだ声に、足が竦んだ。
助けに行かなきゃと思うのに、あの烈火のような剣幕を聞いてしまうと胃がせりあがってくる。
怒鳴っていたシンの声が急に小さくくぐもって聴こえたが、同じ部屋にいるはずのアスランの声は全く聴こえない。
しかも、アンタらとシンが言っているということは、アスラン一人ではないのだろう。
――本当にもう、何が起こっているのだろう?
シンは、察しが良すぎるせいで先回りして牽制してしまうから誤解されやすいのだ。
以前それをアスランに話すと、それはシンがそれだけ敵に囲まれて生きてこなければならなかったという証拠なのだと、そっとキラの額を撫でてくれた。
「たった一人でキラを守ってきたアイツを、俺は尊敬しているよ。本当にスゴイ奴だ」
そう言ってアスランは、少しだけキレイな唇をあげた。
冷たく見えるほどキレイなエメラルドの瞳は淋しげに見えた。
アスランはいつも、怖がられるのを怖がっているかのように、そっとキラに触れる。
優しい指と穏やかな声。
アスランも命の恩人ではあるのだが、あのときキラは、シンが褒められたのが誇らしくて、嬉しくて仕方なかった。
だから、同じくらい自分もアスランにそう思われたい。
そうしたら、シンも嬉しくなるだろうか。
――待っててシンくん! 今助けに行くからねっ!
ギュッと小さな拳を握りしめて、キラは目の前のドアから踵を返すとパタパタと走り出した。
行き先は中庭。
そこからアスランの寝室の窓を乗り越えて潜入するのだ。
遠回りだと分かっていてそうするのは、さすがに呼ばれてもいないのに飛び込む勇気はなかったからだ。
キラのいなくなったドアの前には、小さな芽の出たヒヤシンスの硝子ポットが穏やかな日差しの中に残っていた。




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手元にあってもどんどん風化しそうだから
あぷしてみる。

キラの御誕生日

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ダブルコール 5

出来る事なら首を横に振って、大声で泣いて駄々をこねてしまいたい。
だがそれをしたら、ここへ置いて貰えない気がして出来ない。
そのとき、キラの肩に舞い降りたトリィが鳴いた。
それは、駄々をこねていいと言っているようにも、我慢しろとも聴こえたが、きっとトリィにもお手上げなのだろう。
ここでトリィと一緒に待っている――それが正解のはず。
だが、本当の正解を出したのは、げんなりした様子のアデスだった。
「僭越ですが――さっさと片付けて来る、で済むわけがありませんので。一旦、アレックス様にはお休みいただきます」
「いや、いいよ。すぐ出来る」
穏やかな答えにも、やり手の敏腕執事のアデスは動かない。
「いいえ。アレックス様は明け方の一時間だけしか仮眠をとられておられません、それも今日で十日目。お身体は、そろそろ限界を越えておられるはずです」
「もう少しくらい、大丈夫だよ」
苦笑するアレックスがアデスの抱える資料へ手を伸ばそうとしたが、執事は無表情のまま、その厚いファイルを譲らない。
「大丈夫かどうかなどと――キラ様の部屋へ赴いて、毎朝、貴方を起こして差し上げていたわたくしに仰られるのですか?」
アレックスの身体が、慌てたようにガクンと傾いだ。
――部屋に赴いて?
察しの悪いキラにもかすかに引っかかった。
コキンと首を傾げて後ろのアデスを振り返ろうとしたキラの頭をグイと両手で押さえながら、アレックスの声がひっくり返った。
「ちょっとそれは」
「ええ、ええ。それはも何も、その仮眠の貴重な時間を使ってキラ様のお召し上がりたいオヤツを聞き出しておられるのですから、実質、アレックス様の睡眠時間は一時間には満たないはずです」
執事の言葉に、ピクンとキラは顔をあげた。
一時間も眠ってないというのに驚きはしたが、それ以上に反応せずにはいられなかった。
「……キラの部屋でオヤツって」
そんな話は聞いていないし、全く気付かなかった事だ。
――部屋にいたの? どうして? なんで?
まさか毎朝見ていたのは夢ではなかったのだろうかと問いたくて無理やり見上げたが、言葉に出来なくて黙りこむ。
それでも大きな菫色の瞳で見つめられたアレックスは、明らかに動揺していた。
間近で、そんな動揺が見て取れると、不安になる。
「いや、だから……」
口ごもり、バツが悪そうに目を逸らされて、キラは唇を噛んでいた。
自分だけが知らないことや、出来ない事が多すぎて、それがキラを傷つける。
だが、現実的に本当に困っていたのは、アレックスだろう。
しゅんと落ちこむキラの前で、らしくもなく慌てるアレックスをチラリと見た執事が、嫌そうにこぼした。
「アレックス様、これ以上キラ様を困らせたり、苛めたりなさらないようにお願いします」
「いや、そんなつもりなんか全くないけど。あの、ごめんね、キラ」
アレックスが、どこか痛むように片眉を顰めた。
だが、キラは何故謝られるのか分からない。
垂れた猫耳を撫でられても、自分だけ仲間はずれなのだといじけてしまう。
「そんな顔しないで。俺はキラを苛めたりなんかしないよ? もう二度と酷い事もしない」
言いながら、アレックスは今度は腰を折った。
そして、身じろぐキラの頭に額をつけてアレックスは誓うように囁いた。
「キラのことが大好きだよ――ずっとこうして傍にいたい」
とろけそうに甘い言葉の応酬は、第三者が赤面してしまうほど真摯だったが、ままごとのようでもあった。
ただそこは、アレックスにとっての幸せな世界が展開していた。
さすがに疲弊して眼光に力はないが、その効果すら利用して可愛いがっている子供を泣かせる、そのそつのなさ。
ナデナデと亜麻色の細い髪に指をからめる表情は、夢をみているようで、執務中の彼のサイボーグのような無表情と容赦のなさを知る側近が見たら、今まで耐えてきた彼らでさえ書類を涙で濡らしたかもしれない。
大きな取り引きをするためには、非情になることも大切で、そうでなければ組織は成り立たない。
それを完璧にやり遂げるアレックスの手腕には感服し、賞賛を送るものではあるのだが、自分を遠ざけた主人を心配しながら、小さな背中を丸めてツリーの飾りをつけていた猫耳を毎日見て来た執事は、本人の意図せぬうちに意趣返しを断行していた。
それは、アレックスの意図も知らずに泣きぬれる小さな背中に、とてつもない庇護欲と、その待遇に対する腹立たしさを覚えたからだ。
わざとらしく溜息をついた執事は容赦なかった。
「確か――近くで眠りこけられると、つられて一緒に眠っておしまいになられるから――でしたか? お二人共仰っておられたのですが、今回は切実でしたようですね。激務でございましたから仕方もありませんが」
揶揄するよりも、むしろ困ったようにハンカチで額を拭い、そして執事はわざとらしい溜息をついたのだ。
やけに所作が重々しい。
「なんというか、今回アレックス様には珍しく、自信のないことを仰られて無理やりキラさまを遠ざけられたくせに、実は、ご自分だけキラ様の寝込みに忍びこんでチャージなさっておられて。そうやって何も知らないキラ様だけを淋しがらせる所業は、なかなかの策士であると唸ってしまいますな。初めに言いつけられたときは、凡人の私どもにはアレックス様の真意の分からず、ご命令のままにキラ様のベッドに突っ伏しておられるアレックス様を、お迎えさせておりましたが、それが今日の日の、この瞬間のためだったと、ようやく今、合点がいきました」
にこやかでありながら、とてもあからさまで辛辣な執事の言い様に、アレックスは頭痛が痛むように額を押さえて呻いたが、キラはまだ事態を把握していなかった。
「あの……?」
――チャージってなに?
訊きたくてそっと見上げても、アレックスは視線を泳がせて取りあってくれない。
キラの身体はアレックスの腕で固定されていて動けないのだ。
だから諦めて背後の執事を無理やりに振り返った。
すると、あまりににこやかにしている執事と目が合い、恐ろしくて、さっと顔を戻した。
執事の視線はキラと交わらない。
結局キラには、何が何だか分からない。
キラの頭の上の苦笑いを含んだアレックスの声は、珍しくしどろもどろだ。
「そういえば、何も知らずに淋しがっておられるキラ様のご様子の報告を申し上げるだけでも楽しそうでしたのに、こうして、やっとお会いになられていかがでしたか? さぞ連日の疲れが吹っ飛んだことでしょう」
「いや、そんなつもりじゃ……ないんだけどね」
「そうですか。無意識になさるとは、さらに素晴らしい」
ジリジリと圧されて、アレックスは困ったよう黙りこんだが、笑わない執事は、ますます楽しそうに愛想がいい。
後ずさりながら、思わずキラは背中に汗をかいていた。
こんなにこやかな執事は見た事がない。
「――お仕事柄でしょうか? まだ御若いのにアレックス様は狡猾な駆け引きをご存知ですね。ただ――差し出がましいようですがキラ様相手に、そんな高等技術は残酷なような気がしてなりませんが」
困った顔を繕ってはいるが、歌い出しそうなほど上機嫌な執事が怖くて、とうとうキラはアレックスの後ろに隠れた。
――執事さん、目が笑ってないっ!
怯えてアレックスの背中のシャツを掴むキラをチラリと見て、執事は少しだけ唇の端をあげた。
「ああ。本当にアレックス様は極上の餌を美味しく召し上がる方法を、よーくご存知ですね。アスラン様では、わたしがご協力したとしても、こうはいきますまい」
「まさか」
アレックスの顔には、もう止めてと書いてあった。
だが、執事には見えないのかもしれない。
「ここにいらっしゃらないから申し上げますが、アスラン様は少々不器用なところがございますし……まあ、ほんの少々で分からないくらいですが」
「あの、本当に悪かったから……その辺にしてくれ。キラが怖がっている」
「ご冗談を。キラ様を楽しそうに苛めていらっしゃったのはアレックス様ではないですか。わたくしとキラ様は大変仲良くさせて頂いておりましたよ」
そうでしたよね? と、いきなり問われて、キラは息を止めたまま、コメカミを押さえるアレックス後ろでコクコクと頷いた。
それを見て、アデスは満足そうに頷いた。
「ではアレックス様。今回のプロジェクトは、あまりに詰め込みすぎでございました。ですが、パーティの方は同じような調子で進められては困ります。アスラン様が戻られたらアスラン様との調整もあるのですよ。独占なさいたいのは分かりますが、あまり一人で突っ走られないでくださいませ――それから」
「分かった――とりあえず、おとなしく仮眠をとるから、これ以上はやめてくれ。本気で頭痛がしてきた」
クドクドと続きそうな執事の説教を遮って、アレックスは、げんなりと溜息をついた。
もう迷子のように見上げるキラを見ない。
――行ってしまう。
仕方ないと分かっているから、キラには止められない。
役立たずは、よくよく分かっていた。
しょんぼりと呟くとポツンと涙が落ちて、キラは慌てて後ろを向いた。
そんなキラの頭を名残惜しそうに撫でて、アレックスはドアの向こうへと消えてしまった。
もう行ってしまったのだ。
振り向いたキラの見たものは、厚いドア。
完全にドアの閉じる小さな音がして、ほどなく執事は感嘆したように呟いた。
「本当に……キラ様の人参効果は、さすがとしか申しようがありませんね」
「……人参?」
それは確か、馬の餌だっただろうか?
呆然とするキラなど置いてけぼりで、先ほどまでしかめっ面だった執事は、やけに楽しそう。
「本当に素晴らしい! きっとあの調子では、さっと目を通して八割がた覚えてから眠られると思いますよ」
こうしてはいられないと、執事はポケットから時計を取り出し、そして控えていたメイドに軽い食事と入浴の用意を命じた。
今から就寝するアレックスの対応に追われるのだろう。
どうせ自分に出来る事はないのだから、ツリーの飾りをつけなければと思うのだが、キラの身体は上手く動かない。
涙を拭く事も忘れて、忙しそうに指示を出し始めた執事を見上げていると、唐突に必殺仕事人と化した執事の視線がキラに落ちた。
何をしているのだとでも言いたげに厳しい。
――サボってるって叱られるのかも。
最近は忘れていたが、元々キラは執事から叱られてばかりだったのだ。
クスンと鼻をすすり、慌てて先ほどアレックスがテーブルに置いたツリーのオーナメントを拾いあげようとしたが、涙を拭ったときに濡れた手が震えてしまう。
「キラ様、これを」
そんなキラの前に、綺麗にプレスされたハンカチが差し出された。
涙を拭えと言われているのだと分かったので、お礼を言いたかったのだが、声が出せないままキラは黙って受け取った。
テーブルのお茶はもう冷めていて、苺タルトも少し食べただけだった。
「大変お疲れのところ申し訳ありませんが、折り入ってキラ様にお願いがございます」
後ろから急に話しかけられてキラは飛び上がるほど吃驚した。
叱られるかと思ったのだ。
だが声は神妙で、キラは固まったままハンカチの間から執事を振り向いた。
「これはキラ様にしかお願いできない事なのですが」
重々しい執事の前置きに、いちいち緊張しながら、キラはコクリと息を飲んだ。
「後ほどアレックス様に、お茶のお運びをお願いしたいのです。お願いして良ろしいでしょうか?」
執事は唇の端を少しあげていた。
――怒ってない。
視線を合わせて貰えたのは、初めてだったかもしれない。
「は、はい」
よく分からないまま返事をすると、執事は腰を折ってキラの肩に触れた。
「お身体が冷えていますね。それにこんなに力任せに擦られては、目が腫れてしまいますよ。ついでですしシャワーを浴びて頂いたほうがよろしいでしょうね」
ゴシゴシとハンカチで顔を拭っている手を、やんわりと押さえるように握られて、それはそのままメイドへと渡された。
「キラ様をバスルームへ。お着替えは――そうですね。先日お揃えしたものを」
淡々とした言葉とは裏腹な慌しい展開に、キラは後ずさろうとしたが、もう腕をとられていて首を振る事しか出来ない。
バスルームは、あまり得意ではないし、メイドに連れて行かれるのも初めてだった。
「十五分以内に準備が終え、お茶の用意といっしょに大至急私のところまで」
入り口のドアを開かれて、有無を言わせず執事に見送られる。
「キラ様、頑張りましょう。あまり時間がありません」
メイドに促されて観念する。
だが、キラより先に飛び出したのは、翼を広げたロボット鳥のトリィだった。


あと1回分かな

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ダブルコール 3

そして。
「そうでございますね。つい先走ってしまいまして申し訳ありません。実は先日、極秘ルートを使って、アスラン様にも暗号電文を送ってしまいました――キラ様が御一人で淋しがっておられます、と――本当に申し訳ありません」
「えっ? それって」
まるで留守番も出来ずに駄々をこねていると伝えられたようで、焦ってしまう。
『キラのことは、アデスに任せてある』と、アスランから言われていたが、身の回りの世話以外の何かをしてもらっているという意識はなかったし、お家第一の執事がする行動とも思えなかった。
「だって、そんなのしたら、吃驚させてしまって……呆れられちゃう」
慌てるキラに反して、アデスは全くよどみない。
「それはそれでよろしいじゃないですか。アレックス様とアスラン様と、どちらが先にお手空きになられるか分からない状況ですし、このままでは埒があきません。ですので、僭越ながらキラさまが御一人で泣いていらっしゃると再三御耳に入れましたところ、案の定、お二人共、よりいっそう御働きのようで、予定よりもずっと早く目処が立つ模様ですよ。きっとキラ様の涙を拭きたくて、たまらなくなったのでしょうさ」
けろりと敏腕執事はそう言うと、ただ唖然と見あげるキラの前でコホンとひとつ咳払いをした。
憮然として見えるが、この執事は見かけ以上に、とてつもない策士なのかもしれない。
ザラ家の事業を拡大して今の数倍の業績を上げるのだと、アレックスとアスランが話し合っていたのを、キラは同じテーブルで聞いたことがある。
急に事業に力を入れ始めたのは、『キラの値段』が、プラントのコロニー一基分以上だからだというヘンテコな理由だった。
自分の値段だと言われてどう反応していいか分からないが、アスランとアレックスは二人でその額を叩き出そうとしているのだと言う。
同じ顔をした二人が、同じ表情で、そんな話をしていた。
あまりに変わらず接して貰っていたので気が付けなかったが、キラがここにいるばかりに、ふたりともが過度の無理をしているのだろう。
それなのに、役立たずの自分が本当に申し訳なくて、ワガママなど言っている場合ではないのだと身につまされるのだ。
キラは自分が猫耳の厄介者だということは知ってはいる。
だが、そのせいで二人が忙しくなってしまったのだと思うと、罪悪感で小さい胸がきゅうきゅうと音を立てて苦しくなる。
何でもない事のように、執事は微笑んだ。
「お淋しいでしょうが、もう少しお待ちになられてください。お二人共、キラ様のために必死でいらっしゃいますよ」
「でも……だって、どうして」
分かりたいのに、分からない。
どうしてという問いすら駄々のようで、本当は聞いてはいけないのではないのかと口ごもる。
だから一人で考えようとするが、考えても考えても、ひどく疲れて消耗してしまうだけで答えなど出ない。
分かるのは、この猫耳さえなければ、こんなに迷惑をかけることもなかったはずだということ。
これを外せればいいのだが、その方法が分からない。
ぎゅうと猫耳を押さえていると、温かい大きな手で髪を梳かれて、ビクリとふるえたキラはノロノロと自分の手をはずした。
この屋敷に保護されて来た当初、キラの猫耳を見るたびに眉を顰めた執事の視線を、キラは忘れてはいない。
あからさまな悪意は全くなかったのだが、厄介者を屋敷に入れたアスランに注意を促していたのを知っていた。
けれど、今、頭に触れられた指先は、とても大切なものを扱うよう。
ギュッと掴んだキラの猫耳も小さな手も一緒にそっと撫でてくれた。
そんな執事の手はキラの苦手な大人の手だが、不思議と怖い感じはしなかった。
けれど、まだ安易に何でも許してくれる手だと信じることが出来なくて、キラは止めてといえずに俯くしかない。
「申し訳ありません、お嫌でしたか?」
「いいえいいえ」
問われて慌ててキラが首を振ると、執事は珍しく惑ったように自分の額を押さえて小さな溜息をついた。
もしかしたら、撫でたことを後悔しているのかもしれない。
「そんな風に泣きそうな顔をされると、私が叱られますので、ご勘弁ください」
困ったように、執事が苦笑する声が部屋に響いた。
「ごめんなさい。ニッコリ出来ないのは……アデスさんのせいじゃありません。頭のここについているコレが悪いんです――これ、なくなればいいのに。なくなったら皆に迷惑をかけずにすむのに」
小さな手で猫耳を潰すように押さえ、唇を噛んで涙を堪える子供を、執事は困ったように見つめると、目を伏せて『本当に困りましたね』と重い息を吐いた。
「キラ様は、大切な宝物だとアスラン様もアレックス様も仰っておられます。宝物を守るには、権力と財産があれば、より堅牢に守る事が出来るのです」
「けんろう?」
キラの知らない言葉だらけだ。
権力も財力もキラには分からなかったがコクンと頷くと、執事は満足そうにもう一度キラの頭を撫でていたが、その手を丸い頬に滑らせて輪郭をなどると、美しい絵画をエントランスに掛けたときのように、満足そうに頷いた。
「アスラン様とアレックス様は、大切な宝物を確実に守るために、それぞれプランを実行に移されているだけです。ザフトでの功績が上がれば上がるほど、他の追従を許さないほどの強い力を誇示出来るでしょう。そして、あり余る財力があればあるほど、その力は世の理すら捻子曲げる事が可能です。御二人は優秀でしたが、今まで持てる力を発揮なさった事はありませんでした。ですが、今は大切な目的が出来たというわけです」
「……目的?」
「ええ。キラ様が今まで御二人に足らなかった目的と言うわけです。――早い話が馬の前に吊るした人参のようなものです」
「にんじん……?」
「ええ、最高の餌です」
紅茶の芳しい香りを堪能したときのように、したり顔で執事は唇の端をあげたが、キラには何が何だか分からない。
ポカンと口をあけて、大きな瞳で見上げる迷子のような猫耳の子供を見て、執事は何故だか吹き出したが、慌てて口を噤んだ。
「……失礼」
だが、がっちりした肩が震えている。
笑い声を聞いたのは初めてだったかもしれない。
何が可笑しかったのだろう?
キラの嫌いな人参。
そして、誰が馬?
何が馬?
何の話をしていたのかすら分からなくなって頭を抱えるキラの背中を、アデスはそっと撫でた。
「キラ様は、ここにいて下さるだけでいいのです。御一人でお淋しいでしょうが、御二人が頑張られたら褒めて差し上げてください。そうすればザラ家は永遠に発展し続けるでしょう」
「でも……そんなに無理なさったら」
「大丈夫ですよ。餌が上等ですからね」
そう執事が微笑んだとき、ドアが開くとまっ先にロボット鳥が飛び込んできた。
慌てて立ち上がって振り向いたキラの目の前には、いくつもオーナメントを抱えて微笑むキラのご主人――アレックスがいた。
「終わったよ、キラ」
吃驚するキラにそう言い、部屋の入り口のツリーを振り返ったとたん、口を手で押さえて吹き出した。




まだ続くのよ

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ダブルコール 2

大粒の宝石が二つぶら下がった時計は、オヤツの時間を見るためのものではなかったはずなのに、今では他の使い道がない。
退屈だと思っていても、時間が経つものだと、キラはノロノロと顔をあげてドアが開くのを待った。
「キラ様、御休憩の時間です」
「……はい」
喉から声が出しにくいのは、ずっと喋っていないせいだろうか。
入ってきた執事は、掠れた返事をするキラをじっと見つめていたが、振り返って紅茶とお菓子を並べるようにメイドに伝えた。
「いつものように、窓際のテーブルに」
短い指示で、中庭を望むテーブルにメイドはお茶を綺麗にセットした。
お皿には、夢と同じ、ピカピカ輝く苺タルト。
夢は予知夢だったのだという感動も、これだけ続くともうない。
切なくなるのは、頬に触れた指の感触を思い出すからだと気付いてしまったからだ。
――夢なのに。
キラの夢なのに、夢はキラのものではないのだ。
丸い苺タルトを、メイドはその場で切り分けてプレートに盛っていた。
キレイな盛り付けは、まるで魔法のようで、不恰好なツリーもあんな風に出来ないものかとキラは思う。
――ケーキみたいなツリーだったら、みんな喜ぶだろうか?
少し前まで、お茶は、ご主人のどちらかと一緒の大好きな時間だった。
けれど、もうずっと昔のことのよう。
「あとで膝掛けを、お持ちするように」
日が暮れると雪が降るのだと言う執事の声を、キラは他人事のように聞きながら、中庭の向こう側の、例の動かないカーテンを、そっと振り返った。
執事、アデスが、いつも窓際を指定してくれるのは、キラが向かい側のアレックスの部屋を気にしているのを知っているからだろう。
けれど、あの部屋のカーテンが動いたためしはない。
まだ忙しいのだろう。
あの部屋の主も、今頃ひとりでオヤツを食べているのだろうか。
苺タルトが、ここにワンホールそのままあると言う事は、食べていないのかもしれない。
コーヒーくらいは飲むのかもしれない。
忙しくなると、何杯も飲んで胃を壊しているのを知っている。
――ひとりでだいじょうぶなのかな……。でもキラが来るまでは、きっと一人だったのだろうし。
「だって」
――イラナイって言われちゃったし。
思い出すと、ぼわっと目の前が霞んでしまって困ってしまう。
だったら、誰からも求められないキラがここにいる理由は何だろうか?
考えるまでもなく、キラ自身が分かっている。
キラがここに居たがったから――ただそれだけ。
だから置いて貰っているのだ。
ここにいて欲しいと言って貰えていたし、シンもここに居るようにいってくれた。
――どうしたら、一緒にいられるのだろう?
猫耳を押さえながら中庭の向こう側の窓を、ぼーっと見つめていると、また景色が霞んでいって泣きそうになってしまう。
「どうかなさいましたか?」
突然、背後から声をかけられて、慌ててキラは首を横に振った。
「いえ、なんでもないです」
笑おうとしたが、上手く出来なくなっている。
無理に唇をあげようと自分の頬を押さえるキラを、執事は黙って見つめていたが、その姿は彼らしくもなく所在なさげではなかっただろうか?
「お茶が冷めないうちに、こちらへどうぞ」
流れる動作で椅子を勧められ、のろのろとキラはテーブルについた。
白いカップにお茶を注がれ、いい香りに包まれる。
ここでお茶をするようになってから、オヤツはキラの好きなものばかりを出してもらっている気がする。
食事も苦手な人参やピーマンや豆が、さりげなく抜いてあるのだが、きっとそれも偶然ではないのだろう。
感情の起伏が少なく、初めは、まるで銅像みたいで怖かったが、執事は良い人でキラのために心を砕いてくれている。
きっとそれは仕事だからだろうと分かっていても、有り難いことだ。
――でも執事さんは、一緒にお茶してくれないし。
キラはギュッと強く目を瞑って、目の中に溜まった水を弾き飛ばした。
すると視界はクリアになり、苺タルトの赤がやけに眩しい。
紅茶はとても良い香りがした。
期待をこめてチラリと見上げても、壮年の辣腕執事の表情は変わらない。
寡黙で仕事熱心な彼は、あまり笑う事もないのだろう。
いつも渋い顔の執事が笑っているところを、キラは見たことがない。
ザラ家を守る忠誠な執事の目からは、猫耳のキラが居ること自体、悩みの種だと思われていることも知っていたから、キラ自身も邪魔にならないように気をつけてきたが、今はもうそんな力もなく、ツリーの飾り付けも進んでいない。
それなのに、一方的に餌だけもらっているようで心苦しい。
この執事も、以前はシンのいるザフトという軍で仕事をしていて、とても優秀だったと聞いた事があるが、実は軍が何だか誰もキラに誰も教えてくれたことはないのだ。
頭の上で交わされる会話はいつも、キラを除外している。
だがそれでも、ザフト軍はアスランやシンのように、運動神経の良い自信家が集まるところだと言う事は察しがついた。
――かけっこでもするのかな。
シンとアスランと、どっちが早いだろう?
考えるまでもなく、シンだとキラは思う。
猫耳の頃、シンが路地を風のように駆け抜けていたのを見た事があるのだ。
あんなふうに、自分もなれるだろうか?と、キラは考える。
少しだけ、なれそうな気がするのは、根拠のないことだが、この執事よりは逃げ足が速いような気がするからだ。
この物静かな執事からなら、隙を突けば逃げ出せるのではないかと何度も思った。
ご主人たちも、あまり走ったところを見た事がないので、今のキラならかけっこだけなら勝てそうな気がした。
けれど逃げるなら、せめてシンと話し合ってからにしたい。
せっかく再会できたのだ。
生きていくためには、住む場所があった方が、何倍も危険が少ない。
そんな場所を確保するのは鉄則だと、猫耳の頃のシンは口癖のように言っていた。
ずっとシンに背負われ、手を引かれて逃げ回り、追い詰められて逃げることすら諦めたことのあるキラは、安易に先の見えた自殺行為に踏み切ることが出来ない。
それは、無鉄砲と言うものだ。
そんなことをすれば、苦労して助けてくれたご主人達に申し訳ない。
出来るだけ誰の事もガッカリさせたくはない。
けれど、執事がツリーの飾り付けの仕事をくれなかったら、もっとここから出ることを思い詰めただろうし、実際に出ていたかも知れない。
やっと再会したシンが、ここに帰って来る以上、まだ解雇されるわけにはいかない。
――頑張らなければ。
早くツリーを仕上げて、役に立つところを見せなければ。
――ツリーを全部仕上げてから、シンが帰ってくるのを待ってから相談しよう。
その考えは、最善のように思えるのに、何故だか奮い立たない。
思いつきが良い考えのような気がしないのは、ここに再びシンが帰って来てくれるのかすら定かではない気がしてたまらなくなるから。
ここに戻る必要がないのは、シンだからだ。
シンのように猫耳を落とせば、狙われる事もなくなる筈だと思いもするが、大切に撫でてくれるアスランやアレックスの手を猫の耳が憶えている。
シンも懐かしそうに撫でてくれる。
思い出して、キラはプルプルと首を横に振った。
――考えるのは、ツリーのあと。食べたあと!
決意してデザートスプーンを握ると、お皿から苺とクリームの甘い香りがして、やはり泣きそうになってしまった。
パンに挟まった苺ジャム以外の苺など、きっとここへ来るまで食べた事などなかった。
それでも、ここに来るまでは、苺ジャムやクリームのパンは、キラにとって世界で一番美味しい食べ物だった。
ここでは、毎日、キレイで美味しいゴハンやお菓子を貰える。
林檎は、この屋敷に連れて来られた日にベッドで食べさせてもらって大好きになった。
赤い木の実は、みんな好き。
クリームも大好き。
悲しい事はなにもない。
けれどスプーンを咥えると、時折ポロリと頬を伝う水は、なんだろうか。
胸がヒヤリと冷たくて苦しいのは、どうしてだろう。
初めに拾ってくれたシンは、なんでも半分に分けてくれた。
日が暮れると必ず帰って来てくれた。
パンもクラッカーも毛布も半分こ。
シンが時々、ポケットから出してくれるマーブルチョコレートは色分けして絵を作って食べた。
ここのデザートには及びもしないが、それでたまらなく幸せだったのだ。
けれど、ここには何でもある。
安全も美味しいものも清潔なシーツも。
とくに双子のご主人は、何でもキラにくれる。
けれど、誰も一緒にいてくれない。
――誰か呼んでくれないかな?
スプーンを置いて、何度も隣の屋敷のカーテンの閉じた窓を振り返ってしまう。
この一週間、居残り組みのご主人、アレックスの姿を全く見ていない。
10日前は、まだ中庭のむこうの窓越しに、時折姿が見えていた。
敏腕執事のアデスなら知っているのではないかと、こっそり顔をあげてみたが、視線を合わされ「何か?」と問われて慌てた。
「あの……ご主人、じゃなくて」
「アレックス様でしたら、今日が山場とのことです」
間髪入れずに返る返事に身体が竦んだ。
「あ……はい」
言われていることは、今が大事なときなのだからオマエは邪魔するなと言う事なのだと理解出来るが、執事の重々しい口調にキラは萎縮する。
分かっている事は居残り組みのアレックス様が、昼夜を問わず、とても忙しいということ。
これ以上ない答えを貰ったのに、初めから分かっているその答えは、さらにキラを落ち込ませる。
理由は理解出来るのに、それはすべてから拒絶されているのと同じ。
多分それは、キラを取り巻く現状のすべてに思えるのだ。
毎日同じ質問を繰り返しているせいか、アデスにどう思われているのかも心配になる。
また聞いてはいけない事を聞いてしまった気がして、キラは首を折り、目を伏せた。
アデスが激務続きのアレックスの身体を実は心配していることを、キラは知っている。
アデスの方がずっと長くザラ家に仕えていて、ザラ家のために心血を注いできたのだ。
猫耳のキラが拾われて来たときも、ハッキリと口にはしなかったが、ザラ家に害なす厄介物だと思われていたのは知っていた。
けれど結局、キラの世話を焼いてくれている。
キラの知る限り影ではアスラン贔屓だった彼だが、今は二人を分け隔てることなく尽くしている。
どういう取り決めがあったのか、去年のクリスマスの事件のあと、ザラ家の執事、アデスはアレックスのことをアスラン様と呼ばなくなった。
それまでザラ家には、アスラン・ザラが二人いたのだ。
アレックスとアスランはザラ家の優秀な双子――ふたりで一人のアスラン・ザラ。
それは二人の父、パトリック・ザラが、決めた事だと言う。
世間はアレックスを知らないし、アスランと話した数分後にアレックスに会っても、別人だとは思わなかっただろう。
瓜二つで、シンを含め一般人には全く区別が付かないのだ。
長い間アレックスは屋敷から出ない生活を続け、ザラ家を内側から支えてきたのだと言う。
アレックスは屋敷内でのみアスランを名のり、この屋敷内に限り、軍人として戻ってきたアスランはアスランではなくなるという複雑な状態は、兄弟の形も絆も壊してしまっていた。
だから屋敷でのアスランは生彩が無く、極力目立たないようにしていたのを、キラも見ている。
だから、アスランが戻ると、なるべくアスランのそばに居た。
だが、アスランが屋敷に戻ると、以前はアレックスが苛立っていた――そんな風にキラは回想する。
きっと、ザラ家と言う自分の居場所(テリトリー)が侵されるのを牽制していたのだろう。
キラと逃げていた頃のシンは、縄張りが侵食されていくとき、いつも気が立っていた。
それに似ていた。
キラを拾って屋敷につれて来てくれたのがアスラン。
間違って隣の棟に行ったキラを、当たり前のように置いてくれたアレックス。
ザラ家を、それぞれ内と外とで守る、それが『二人のアスラン・ザラ』だったのだが、今は、その二人が交代で入れ替わるようになってしまったため、当初執事アデスは訳が分からずに無言になる事が多かった。
一般人に二人を見分けるのは到底無理だとシンは言う。
当然、敏腕執事も、当初は入れ替わった二人に全く気付くこともなかったのだ。
だが分からないなりに、この執事がアレックスをアスラン様と呼ばなくなったこともキラは知っている。
彼なりに区別しているのだ。
アスランとアレックスの執務室は別なので、どちらの棟にいるかで判断している可能性が高いが、現在、執事アデスが二人を間違う事は全くない。
二人の区別が付くキラの判定では、完璧と言っていい。
二人の見分けをつけるという難題を、彼なりにクリアしたということだ。
それに反して、キラには高いハードルが課されている。
先日、アスランが軍に出かける前に『今後、俺達の名前は呼び捨てにするように』『ご主人という呼び方で誤魔化すことのないように』と言い含められてしまったのだ。
命の恩人で、自分よりも大人なご主人たちの名前を呼び捨てにする――それは、なまじ区別がつくだけに、キラにとっては、とてつもなく難しいことだった。
分からないなら、ご主人で誤魔化す事も出来ただろう。
でも、区別が付くキラにそれは問題ではないのだ。
シンもキラの命の恩人ではあるが、これほど呼び捨てる事に躊躇したことはなかった。
それは、同じ猫耳同士だったからかもしれない。
『呼び捨てに』と言うだけ言って仕事に行ってしまったアスランのことは後回しでいいが、留守番のアレックスには許してもらえず、キラは何度も『ご主人』と呼んで窘められ、拗ねられ、とうとう機嫌を損ねてしまったのだ。
両方の区別がつくくせに『ご主人呼び』を止めないことに、とうとうアレックスは不機嫌になってしまったのだ。
どうしていいか悩んでいるうちに、仕事が忙しくなったアレックスから排除されて、キラは接点がなくなってしまった。
取り成して貰おうにも、他に相談できる人も誰もいない。
『寒いし、しばらくゆっくりしていい。もう朝もここへ来なくていいからね』
ニッコリと微笑まれて、優しく拒まれた。
お茶のお運びも、執事アデスを通してさし止められた。
『アレックス様のご命令です』と言われれば、キラは何も言えない。
それでも、初めは無理やり執務室に忍び込んだが無駄だった。
『キラにも冬休みが必要だろう? 部屋でゲームでもして遊ぶといい。しばらく一人にするけど、ごめんね』
そんな優しい言葉で頭を撫でられ、キラの仕事は何もなくなってしまったのだった。
アスランから貰った、毎朝、起こしに行く仕事はアレックスによって打ち切られてしまい、キラは失業してしまった。
一人ぼっちで、ご主人たちもシンもいないのに、一体、他に誰を起こせばいいと言うのだろう?
そして、屋敷のドアが厚く重厚だったことを、そのとき初めて知ったのだ。
締め出しを食らって途方に暮れていたキラに、見かねたアデスがツリーの飾り付けという仕事をくれた。
だが、それは結局、アレックスの執務室とは反対の棟に押し込むための理由だったのかもしれない。
執務室のある棟は本当に人の出入りが多く、あわただしく殺伐としていた。
早い話が、猫耳がザラ家にいることを、外部の者に知られてはならないということなのだろうと、キラは目を擦った。
臭いものには蓋を――。
世情に疎いキラでさえ、そういう結論しか出せない。
そこに悪意など微塵もなく厄介な子供の扱いは、そういうものだ。
おとなしくしていないと、疎まれる。
一番いい方法を考えて貰っているのだと頭では分かってはいる。
けれど、その方法はキラの気持ちで理解するには難しかった。
些細な事で、身体が勝手にショックを受けて冷たくなって行く。
キラのいる方の棟には、現在宙域に出て不在のアスランの部屋があるが、本人がいなくては意味がないのだ。
しょんぼり窓の外をみれば、うっすらと薄日はさしてはいるものの、広い中庭はいっそう寒々しい。
キラの世界は狭くて、この広い屋敷の中も全部は知らない。
人の出入りの多い場所には、出ないように言われている。
自分に許されたテリトリーは何処だろうか?
キラは、それを見つけられない。
ずっと誰とも話さずにいると、世界中から孤立して、ひとりぼっちになってしまった気がしてくる。
誰も帰らないし、みんな忙しいまま。
トリィですら、毎日どこかへ飛んで行って、遅くまで帰って来なくなってしまった。
シュンと肩を落としていると、静かに紅茶のおかわりが注がれた。
「ありがとうございます」
笑ったつもりだが、頬が固いのが自分で分かる。
そんなキラを見かねたのだろう。
アデスは静かに言った。
「実は、キラさまがお淋しくなさっておられる旨、アレックス様にお伝えはしております。どうか、もう少しだけ我慢なさってくださいませ」
厳格な彼が、こんな事を話してくれるのは、とても珍しい事で、キラはリアクションが取れずにキョトンと大きな目を見開いた。
「え?」
「差し出がましい事だとは思いましたが、必要だと思いましたので手配させました」
いつもの抑揚のない声のあとに、ワザとらしい咳払いが続いた。
執事なりに、気を使ってくれているのだと、キラは胸をおさえた。
「ありがとうございます。でも大丈夫、淋しくなんかないです。平気です」
恥ずかしくて強がったが、上手く笑えない。
そんなキラから目を逸らした執事は、目を逸らすようにポットをワゴンに戻した。




つづくのであった

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ダブルコール 1

今朝は、苺タルトの夢だった。
食べたいけど食べれない――そんな夢。
ザラ家のパティシエが腕をふるったお菓子は、芸術的すぎて食べるのに勇気がいるのだ。
それなのに、美味しい香りと可愛い姿で誘惑し、いたいけな子猫を悩ませる。
最近キラの夢はずっと、食べ物ばかりが登場していた。
ここへ来てから覚えた菓子の名前が、格段に増えたせいかもしれない。
その中でも苺タルトは衝撃的だった。
クリームとカスタードの上に並んだ大粒の苺は、真っ赤な宝石。
食べ物じゃないみたいに煌めく、甘い香りのする芸術品。
初めて出されたときは、吃驚しすぎて固まっている姿を、しっかり観察されて笑われてしまった。
今朝の夢でも、じーっと見つめていたら、『どうぞ。好きなだけ食べていいよ』と額を撫でられた。
『早く食べないと、プリン星人が来るよ?』
昨日みたいに――と、付け足しながらクスクスと悪戯っぽく笑う声は、すでにとても可笑しそう。
器用そうな長い指で触れられると、くすぐったくて恥ずかしい。
けれど、プリン星人は関係ないのだ。
プルルンとしたプリンの形のプリン星人は、初めから敵ではなかったし、そもそもあれは一昨日の夢の中の話だ。
『もしかして嫌いだった?』
心配そうに見つめる視線を感じて、キラは思いきり首を横に振った。
『そうじゃなくて。だって、食べたらなくなっちゃうんだもん。それはイヤなの。食べてもなくならなかったらいいのに』
困ってしまって少しだけ見上げると、声を殺して吹き出す横顔が見えた。
ふるえる肩と襟にかかった髪が、さらりと動く。
透き通るほど白い肌も、長い手足も、とてもよく知っていた。
いつもの、懐かしい景色だ。
思い出せば、なんだかとても恥ずかしい。
居心地が悪くて俯いていると、あやすように髪に触れていた手が滑って、頬を突っつかれる。
『じゃあ、今日のオヤツは大きな苺タルトにしようか』
食いしん坊だと思われただろうかと思ったが、変わりなく優しい声が響いて額を撫でられる。
腕が動くと、ふわりといい匂いがした。
怖くない威圧感のない、サラサラで温かい体温と石鹸の匂い。
「ここにいていいよ」と許してくれる、そんな魔法のような特別な手を、キラは知っている。
厳密に言えば3つほど、キラの世界にはある。
夢の中に出てくるのは、その中の誰かのだと思うが、いまいち自信がない。
目が覚めれば、触れられた感触も曖昧な気のせいでしかない。
どうせ夢なのだから、考えても仕方ないのだが、撫でられたときに嬉しかった気持ちだけがいつまでも甦って、結局、その日のオヤツより気になっている。
昨日はプリンで、一昨日はマカロンで、その前はシュークリームだった。
夢はお菓子ばかりで、目が覚めれば、いつも同じお菓子がお茶に出てきた。
予知夢という言葉があるが、まるで食い意地の証明のようで自己嫌悪に陥り、溜息が出る。
どんなにお茶やお菓子が美味しそうでも、結局キラは『ひとりぼっち』なのだと思い知るだけだ。
感触を思い出して自分の髪を撫でてみて、肩を落とす。
もう、しばらく誰からも撫でられてもいなかった。
留守番なのだから、仕方ないのだと胸を押さえるが、押さえたそこは、いつの間にか冷たいものが重いほど詰まっている気がした。
夢など、あまり覚えていないことが多いのだが、食べ物の夢だけは、やたらと鮮明だった。
いつも最後に、そっと頬に触れるのが、唇の感触のように思えて、起きてからもぼーっとしていることが増えてしまった。
おかげでキラは早起きが出来なくなり、どんどん眠る時間が増えている。
寒い冬のせいかもしれない。
この間見た厚い本の、冬眠する動物がいるという項目が、キラの頭をクルクル回る。
たとえ冬眠してしまっても、きっと誰からも叱られはしないだろう。
どうせ起きても誰からも必要とされてない。
今もキラは一人ぼっちだ。
何気ないそぶりで振り返っても、与えられた部屋は眠ったように静まり返っていて、ここにいる自分も夢の中のように現実感が薄い。
昼間なのに、夜のような日々が続いている。
屋敷の向かい側の棟は、色んなヒトが忙しそうに動いているのが、こちら側から見えた。
あれは執務室からの指示を待つ人々らしい。
中庭を挟んだ向こう側にあるその窓は、もうずっと厚いカーテンが閉じたままになっていた。
いつか誰かが開けるはずだと気になってはいるが、何度振り返って見ても豪華な刺繍の入った布が開く気配は無い。
あの重いカーテンは、毎朝キラが引っ張って開けていたのだ。
「ちゃんと起きてるのかなぁ」
部屋の主の寝起きが悪さは折り紙つきなのに、キラの出番はなく、大きな猫の耳を垂れて肩で溜息をつくしかない。
俯くと、柔らかな髪がはらりと頬にかかり、ひどく人形めいた姿になる。
長い睫に、ミルク色の肌。
大きく印象的な菫色の瞳は怖いほど澄んでいて、見る者は一様に驚いた顔をする。
細いがバランスのいい体型を見て、ミニチュア美少女フィギュアと評したのは、キラの雇い主の同僚だっただろうか。
いつも概ね元気な子供だったのだが、ここ最近は憂い顔が増え、痛々しい溜息が増えた。
それでも頑張るキラの小さな手には、キラキラした球体の飾り。
クリスマスツリーのオーナメントの飾りだった。
もう、ずっとそれと格闘している。
「これ、いつ終わりが来るんだろう?」
眉根を寄せて覗きこむそこには、目の大きな子供の顔が歪んで映っていた。
もうずっと、しょんぼりした顔で固まっていることを、キラ自身も自覚していた。
――ヘンな顔。
歪んでいるのも手伝って、マヌケに見えてしまう。
それが自分自身の顔だと気付くまで、実は当初、しばらくかかった。
思考力が鈍っていたというより、初めは単に新鮮だったのだ。
頭についている大きな猫耳は、大きく映ったり小さく映ったり球体を覗き込むたびマジックミラーのように表面に映る。
特に頂点に映る猫耳は小さくなって見えなくなる。
本当になくなったとしたら、こんな感じだろうか?
そう思いながら顔を近づけると、映っているのが見えてしまう。
だが、完全に映らないようにすることなど無理なのだ。
キラには猫の耳がついている。
それは、変えられないことだ。
初めから猫耳で生まれてきたのだ。
この屋敷に来た時に貰った、それを隠すための大きな帽子は、もう必要ないと取りあげられてしまった。
『ちゃんと守るからだいじょうぶ』
キラの頭を撫でてくれる3人は、口々にみんなそう言った。
シンと――ご主人たち二人。
嬉しい言葉ではあったが、どうしてもキラの不安を拭うには至らない。
猫耳は、本来は隠さなければいけないもののはずだからだ。
ぴょっこりした耳は、どうにかすれば取ることも出来るはずで――猫耳のあったシンは、そうやって自由になった。
けれどキラのは、取れる気配すらない。
ピンとした耳の付け根を押さえたり引いたりしてみるが、びくともしない。
コキンと首を折って考える。
シンより耳が大きいせいかもしれない。
それとも、取れて欲しいと望む力が足らないから取れないのだろうか?
そんなことを真剣に考え始めている。
確かに、キラはシンほど猫耳で苦労をした記憶がない。
何故なら、ずっと誰かしらに守ってもらっていたからだろう。
猫耳のコーディネイターは、『生きた宝石』と呼ばれるデザイナーズチャイルドで、遺伝子を極限までに弄ったスーパーコーディネイター計画により生まれた子供と言われている。
珍しいとされているのは、単に人権上の問題から厳重規制されているというだけではなく、成功例の確認が難しいとされているほど希少なものだから。
遺伝子操作の究極を目指したもののため、一般的なコーディネイターとの差別化のために目印がつけられており、多くの場合、それは猫耳とされていた。
中でもキラは、遺伝子操作のイレギュラーによって偶然生まれた、唯一の完成体であり、それゆえ本来のマスターの元から誘拐されてしまったのだと言う。
ブリーダや闇の仲介屋が喉から手が出るほど欲しいのが、完全体で、彼らがどこまで把握して厳重に守られていたはずのキラを誘拐出来たのかは分からない。
元のオーナーの記憶のない、ほぼブランクの状態でキラは連れ去られた。
そして、ブローカー同士の取引の最中に偶然通りかかったシンが成り行きで助け出し、さらにザラ家の子息、アスランによって保護されて、ここにいる。
それなりに大変な目にも遭っているはずなのだが、本人に自覚はなく、それゆえ危機感も薄く、安全な場所に保護してもらっている今でもなおシンからは『危なっかしい』と叱られ、『危機感がない』と頬を抓られてしまう。
けれど、きっとそうでいられたのは、一人ではなかったからだ。
それなりに色々あったが、結局今も、この広大な屋敷の中で、何不自由なく保護して貰っているおかげで、自分が狙われているという自覚がキラにはない。
それゆえ、ときどき猫耳でありながら自分は異端者だと言う事実を忘れそうになってしまうのだ。
指をさす者は、徹底的に排除された優しい空間にいたのだ。
それはとてもありがたい事なのだが、こんな風にポツンとひとりになると不安で泣きそうになる。
――もっとしっかりしなくちゃ、いつまでたってもシンのようにはなれない。
ひとりぼっちで淋しいなど、オルスバンの出来ない幼稚園児のよう。
猫耳だった頃のシンは、キラを連れて逃げながら、たった一人で薬や食料を調達していたのだ。
時には、傷を作って帰ってきたことも知っているし、自分は食べなくてもキラにくれようとしていた。
それに比べれば、ひとりでじっとしていることくらい、簡単だったはず。
ジャマをしないことやワガママを言わないことくらい、ずっと出来ていたはずだ。
キラはオーナメントの球体を目の前にかざして、それをじっと見つめた。
ツルツルしてピカピカのその表面は、大きな窓もソファーもテーブルも椅子も、部屋のすべてを映す歪んだ鏡。
そこは、伸びたり縮んだりする不思議な世界。
けれど球体に、キラの会いたい人は映らない。
こんなものの中しか、もう探すところがないのだ。
空元気を吹かして無邪気に楽しい振りをしていたが、一人では、どうしても楽しくなれない。
溜息をつく目の前には、大きな深緑のモミの木。
となりに置かれた箱には、キラキラした飾りや色とりどりのリボン。
それらの飾り付けを頼まれているのだが、モミの木はキラの何倍も高さがあるので、手の届く下の方だけ集中して飾ることになってしまい、下枝は床に届くほど垂れ下がってしまった。
まるで、枝を苛めているようだが、仕方ない。
高い所は、ロボット鳥のトリィに任せようとしたのに、トリィは手伝ってくれないばかりか、キラなど素通りして毎日どこかへ姿を消してしまうのだ。
あっさりしたものだ。
お願いした尖った星も星空を駆けるペガサスも、ヒョイと嘴で咥えると、ドアが開いた隙を狙って、パタタと一直線に飛び出して行ってしまう。
トリィにだけの秘密任務があるようで、ぽつり残されて見送るキラはセツナイ。
そんなこんなで、執事から仕事を貰ってから、もう1ヶ月も経っているのに、ツリーの高い場所は全く飾れていない状態だった。
このままでは、終わる気がしない。
キラ自身にやる気が出ないのと、仮に出来なくても誰も咎めそうに無いのとで、余計に進んでいないのだ。
けれど残念な事に、期待されていないことを、キラ自身が肌身で感じていた。
誰からも期待されていない――ずっとひとりぼっちは、雨に濡れながら路地に転がっているよう。
12月に入ってずっと屋敷の中がざわめいていて、窓から見えるみんなは忙しそうに動いている。
けれどキラは、自分に出来る事が思いつかない。
申し訳のように与えられたこのツリー飾りつけは、厄介払いなのだと、さすがに気付いてしまった。
居るとジャマになるから、追い払われて隔離されたのだと、ニブイキラにも分かってしまったのだ。
でなければ、こんな不恰好な飾り付けをして、誰からも叱られないはずが無いだろうし、いつも気にかけてくれるキラの雇い主が全く声をかけてくれないはずはない。
「キラも、お手伝いしたい。一緒にいたいよ」
けれど、それが迷惑だと言われているのが現実なのだ。
はあ…と肩を落として、役立たずはモミの木を突つくしかない。
だいたい、キラはクリスマスツリーを知らなかった。
初めはクリスマスツリーの飾りを見ても、何をするものか、しばらく悩んだほどだ。
そのツリーを知らないキラから見ても、目の前の中途半端な飾り付けのモミの木は、あまりにアンバランスで見栄えが悪い。
飾れば飾るほど不恰好になり、不恰好なのが、余計に、やる気を失せさせる。
褒めてくれるか、叱ってくれるヒトがいないと、つまらない。
走っているのか止まっているのかすら、分からなくなる。
執事は経過を監視しているだけで、指示を出す事も手伝う事もしてくれないのだ。
テーブルマナーには煩いのに、いつまで経っても終わらない飾りつけを注意することもない。
けれど、背伸びをするあまり、後ろに倒れそうになったとき、つぶさに抱きとめてくれたのは、他でもない気難しい壮年の執事だった。
倒れそうになったキラを支えた執事は、眉一つ動かすことなかったが、かすかに頬が引き攣って、眉はしかめられていた。
何か粗相あっては、彼の忠義心が許さないという空気が、びんびんと伝わって、余計にキラを萎縮させた。
その日から更に、飾り付けのペースが落ちたのは言うまでもない。
ションボリした発育不良の猫耳が、さすがに可哀相に映ったのだろう。
厳しかった執事が、少しだけ優しくなった――ような気がする。
どうでもいい仕事をくれたのは、厳格な執事をしても困った猫耳の子供を扱いあぐねた結果なのだと気付いて、キラの耳は垂れっぱなしだ。
執事はキラを、キラ様と呼ぶ。
その円熟した業務をこなす執事を、敬称なしで『アデス』と呼ぶようにと言われているが、当然キラには難易度が高い。
呼ぶようにと言われてみて初めて、それまでも彼を名前で呼んだ事などなかったのだと気付いたが、自分よりも明らかに目上の人を呼び捨てにする勇気などない。
物言いたげにモジモジしていると、先に言いたい事を当てて貰っているのが常で、これまで困った事もなかった。
それでなくとも何もかも御世話になっている立場だった。
負い目まみれのキラに、誰かを呼び捨てにすることなど考えた事もなかったのだ。
確か、厨房のお兄さんは『坊主』と呼んでくれるが、ご主人二人とシン以外の誰からも『キラ』という名前で呼ばれた事はないし、キラもこの屋敷の誰の事も名前で呼んだ事はなかった。
まして、保護して貰っているご主人たち――アスランやアレックスを呼び捨てにしろと言われても、出来るはずが無かった。
請われて何度も努力したが、喉に言葉が貼り付いて声が出ない。
それが二人を――特にアレックスの顔を曇らせるのだと気付いたときは遅かった。
どうにかしようと悩むうちに、会えなくなってしまったのだ。
本当に仕事が忙しいのもあるだろうが、会わせて貰えない期間があまりに長いので、その理由を考えたキラは、この原因に思い当たった。
当たり前すぎる答えだった。
――どうにかして、呼んでおけばよかった。
不甲斐ない自分を責め続けて、胃がチクチク痛んだ。
そっとポケットから取り出した懐中時計には、二つの大粒の宝石がぶら下がっている。
『ここにいてくれ』と言う言葉とともに、ご主人たちから預かった二人の母親の形見だという。
出て行こうとしたときに一度返したのだが、ここにいてくれと言う言葉とともに、キラの元へと返ってきた。
この屋敷にいてくれと言われて泣いたことを、キラは忘れない。
あのとき、アレックスに穿たれた耳の傷は、もう完全に塞がっている。
怪我をしたせいで、アレックスが負い目を感じているのか、余計に大事にして貰っていることもキラは知っていた。
「でももう、会ってくれないのかもしれない……」
考えると、ひどく不安になり泣きたくなる。
――早く、シンが帰ってこないかな……。
せめてシンさえいれば、淋しくなくなるだろう。
同じ猫耳だったせいか、きっとシンがいれば笑い飛ばせる。
いつの間にか耳を落としていたシンは、いつの間にか軍に所属していて、アスランとともに任務で長期不在にすることが多かった。
この屋敷に隠れなくても、もう猫耳を落としたシンはヒトに紛れてもかまわないのだ。
自由になれたシンは、生き生きしている。
この屋敷にいてくれるのは、義務だとか責任だとかそう言ったものなのだと、いじけたキラは考え出す。
猫耳があっても無くてもシンは全く変わっていないはずだが、猫耳がなくなってからのシンは、キラと言う、護らなければならないお荷物から解放されて安心したのだろう。
キラという足かせがなくなり、自由になったシンは、以前よりも幸せそうで充実しているように見えた。
キラに触れるときも、楽しそうに輝いて見えた。
もう、隠れる必要も襲われることもない。
どこへでも飛んで行ける余裕が眩しすぎる。
責任感の強いシンは、ちゃんと荷物を降ろしたのだ。
有り難いことだと分かるし、感謝しているのに、棟に穴が開いてしまって、そこから中身がこぼれてしまう。
――いいなあ。
どんな事があっても、泣かないように笑って手を振るのがキラの仕事だ。
何故なら、ここから動けないから。
みんな、遠くへ行ってしまって、いつも一人になってしまう。
もう慣れた思っているし、今はトリィがいてくれる。
もう淋しくないと思っていたのに、トリィすら勝手に飛んで行ったまま、帰って来てくれない。
追いかけたかったが、猫耳のキラは、むやみに屋敷内をうろついてはならないと厳命されていた。
決められたドアの向こうへは行けないから、見送るしかない。
『申し訳ありませんが、警護上、キラさまには大事をとって頂かなければなりません』と、やんわり、だが反論は許さない威圧感で言い含められた。
訪問者の中には、時折、子供がいた。
大きな声で泣いて笑って、屋敷も中庭も走り回っていた。
檻の中の大型犬をからかって調子に乗っているところを、蒼白になった大人に捕まえられたが、それでも人工の太陽の下で元気一杯だった。
キラはそう出来ない。
猫耳を匿っているということは、ザラ家にとってリスクの生じることで、それでも置いて貰っているのだ。
以前はアスランやアレックスのどちらかが遊んでくれたので、出歩けない事が不便だと思ったことはなかったし、自分の存在が、ここまで迷惑なのだと気付く事もなかった。
甘やかされすぎて、普通が何だか分からなかったのだ。
ひとりで遊ぶ事も多かったし、中庭で昼寝しても叱られなかったし、執務室に御茶を運ぶのもキラの仕事だった。
だが、十二月になり、部外者の出入りが今までないほどに増えている。
アレックスが急に本腰を入れ始めた事業が正念場なのだと、執事のアデスは簡潔に説明してくれた。
事業を拡張することは、キラも知っている事だった。
向こう側の屋敷の廊下を小走りに駆けて行く人影は、今まで見ていた、ご機嫌伺いの人達とは明らかに違った。
あの人たちに見つかってはいけないのだと、本能的に知っている。
何故ならキラは猫耳で、狩られる対象で、それを匿っていることでザラ家に不利益が生じる。
テリトリーが侵されるのだ。
猫耳もコーディネイターではあるが、普通のコーディネイターとは少し違う。
猫耳は特別な商品で、主に人身売買の対象物とされ、ペットのように売り買いされる、そんな身の上なのだと猫耳の頃のシンは教えてくれた。
キラが『マスター』の元から攫われたのは、そんな理由なのだ。
誘拐されたキラを以前から知っていたというザフトのアスランが保護してくれたというのは、とてつもなく幸運なことだったのだと、耳を落としたシンからは何度も何度も釘を刺された。
けれど、キラは今ひとりぼっちで、貰った仕事をこなす力もない。
頑張らなければならないのに、どこかが壊れてしまったみたいに、元気が出ないのだ。
病気かもしれない。
胸を押さえれば、細い肋骨の奥の方がキュウキュウと軋むのが分かる。
それは以前は知らなかった痛みで、キラの中で少しずつ大きくなり、下手をしたら壊れてしまいそうなほど軋んでいる。
『情緒不安定』というのかもしれない。
一人ぼっちで考えていると、温かい部屋にいるのに、身体の表面に何かがパリパリと貼りついたように上手く動けなくなる。
怖い物に捕まってしまうのだ。
振り払うように頭を振って、何度溜息をついただろう。
――早く、ツリーを仕上げなくちゃ。仕上げて、調べ物をしよう。
今度は一人になっても大丈夫なように、ゴハンの作り方を覚えて、エレカの運転も出来るようになりたい。
迷子にならないように、もっともっと地図も調べなくては。
言葉も、たくさん覚えて、一人でも平気になりたい。
ずっと考えていた事だが、今、ひとりぼっちでこんな気持ちのときに思いつくと、改めて我に返るのだ。
――それは全部ここを出るためのこと。
不意に小さな胸が掴まれたように痛んだ。
いつかは出るつもりではいたのに、それを考えることは、ひどく淋しいことなのだと改めて知る。
――いつまでひとりぼっちが続くのかな? それともずっとひとりなのかも。
しょんぼりと天使の飾りを抱えていると、遠くからふわりといい香りが漂ってきた。
甘い匂い。
そっとポケットから懐中時計を取り出して蓋をあけると、思った通り針は午後3時15秒前を指していた。




つづく

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とりいそぎアス誕生日 導入部


甘ったるい香りが鼻腔かすめて、アスランは目覚めた。

果物のように甘いのに、しつこくなく、それがどこから来るのか探さずにはいられない。

それは、金木犀の花の香り。

以前、一緒にそれを見たとき、『小さな星みたいな花だね』と、キラは淋しそうにその花に触れた。

濃い緑と、オレンジの花。

触れるとこぼれてしまう、小さな花。

壊れ物に触れるような指先。

そのときの儚げな微笑みが脳裏をかすめて、アスランはハッキリと覚醒した。

記憶の中のキラは、いつも清らかな顔をしている。

風が亜麻色の髪を揺らすと、頬に一筋だけかかる、あの幻のような微笑み。

どんなに微笑んでいても、綺麗な菫色の瞳は憂いがこびりつき、きっといつか消えてしまうのではないかとずっと、アスランは怖かった。

手をギュッと握ると笑ってくれるのが嬉しくて、でも、顔を見るのが面映くて、アスランはどうしたら自分よりもずっと年上のキラを守れるのか、そればかりを考えていた気がする。

哀しい顔を見つけるたび、この人は、これ以上傷ついてはいけないヒトだと、どうしてだか強く思った。

自分よりもずっと年上のキラを、研究所から抜け出したばかりで何も知らなかったアスランは守りたかったのだ。

――ずっと守りたかった。

やはり、アスランは笑ってしまう。

柔らかな毛布に包まれて、怠惰な惰眠を貪って。

今でも守りたいと思う気持ちは、嘘ではない。

けれど、傍にいられない。

自嘲するように片頬を歪めると、アスランは身体を捻って半身を起こした。

そのとき、冷たい夜風を首筋に感じて振り向いた。

ベッドの奥の窓が、少し開いていたらしい。

小さなオレンジ色の花が、白い毛布の上に落ちていた。

金木犀の木が、窓の外にあったのだろう。

飲みすぎて酔っていたせいか、全く気付けなかった。

見上げれば、カーテンの隙間からは静かに月が照らしていた。

少し前まで、アスランはあの場所にいた。

――もっとあの場所に居られたらよかった。

けれども、それは考えても仕方のないことだった。

ただ分かるのは、時間は止まらないということ。

時間は止まってくれない。

あの頃には戻れない。

それは、キラの差し出す手を取ったときから知っていることだった。

アスランは思いを断ち切るように窓を閉め、カーテンを閉じて起き上がると、隣からけだるげな女の声がした。

「んー……こんな時間にどうしたの?」

ベッドの中からショートカットの女が、アスランが纏ったばかりのシャツの裾を引いた。

流線型を描く裸の女の身体。

それは、先ほどまでは柔らかくて温かかった。

だが今のアスランには、もう何もかもが厭わしい。

女から移った香水の匂いのする自分の身体にすら嫌悪を覚えたが、嫌悪を覚える自分自身が可笑しくなり笑った。

誰も、そんなアスランの気持ちを知らない。

「本当にキレイな顔。王子様ってきっと、あなたみたいな顔をしているんでしょうね」

にっこりと唇の端を上げて、艶やかに女が笑うが、アスランは表情を変えない。

「私の悪い王子様は、もう私が不要なの?」

手を伸ばし、キレイに筋肉のついた腕にしがみ付きながら、女はクスクスと声を出して笑った。

はだけた上半身を隠すことなく、まだ熱く豊満な身体を押し付けてくる。

「冷たい身体をしているのね。私が暖めてあげる」

絡み付いて離れない細い腕。

押しつけられた、豊満な胸。

伸びてくる赤いマニキュアの指先は凶器のよう。

強い香水の匂いは、相手を支配したと言うマーキングに似ている。

女はいつも酔ったように、アスランを求める。

「キレイな顔――キレイな髪」

まだ半分夢の中にいるような微笑み。

とろりと潤んだ瞳は、光源が落としてあるせいか、やや菫色に見えた。

――ああ。

唐突にアスランは、この女性を選んだ理由に思いあたり、クシャリと自分の髪を掴んだ。

『アスランの髪って、やわらかくていい匂い』

幼い頃、何度も撫でてくれた優しい手の感触が甦る。

キラは、少しだけ石鹸の匂いがした。

欲望の一切のないサラサラした掌。

女性のように手入れはしてはいないが、なめらかな指先。

――欲しいのはそれで、この女ではないのに。

「……もう帰る」

シャツのボタンを上まで閉じ、しがみ付いたままの女の事など忘れて、アスランは一歩を踏み出した。

物分りのいい女は、後を追うことなく、絡めた腕を放した。

『アスラン・ザラ』という、この遺伝子の持ち主のおかげで、アスランは一夜の相手には苦労したことがない。

彼らは喜んで食事と寝床を与えてくれる。

何かが欲しいと言えば、彼らは我先にと競うように、アスランの手の上に乗せてくれるのだ。

アスランがこうだということは、きっとオリジナルのアスラン・ザラも面白楽しく生きていることだろう。

殺伐とした気分で、そのまま部屋を出て行こうとしたとき、背後から声がした。

「ねえ、待って」

「まだ何か?」

尖った声を出しても、ベッドにいる女は責めたりはしない。

ゆっくりと飴のように、アスランを溶かそうとするだけだ。

ベッドから下ろした赤いペディキュアの白い足を組むと、彼女は流し目でアスランを見た。

「王子様の本当の名前は分からなかったけど、ひとつだけ私にも分かった事があるわ」

思わせぶりな事を言われる事には、慣れていた。

だから、聞かなかった事にしようと、アスランはノブを回して重厚なドアを押した。

その孤高な背中に、砂糖に包まれた毒が、礫のように投げつけられる。

「ねえ、キラってだぁれ?」

思いもしなかった名を呼ばれ、アスランは足を止め、部屋を振り返ってしまった。

そこには、自分の身体を隠すことなく、物憂げに座った女が、顎を上げた仕草で、アスランを見ると可笑しそうに笑った。

「あら、効果覿面。あなたがそんな目をするのは初めてね。もしかして、キラって王子様の恋人の名前なのかしら?」

自分の目が剣呑になるのを、アスランは必死に堪えていた。

「……どこでその名を?」

アスランの問いに、ベッドの上から振り返った女は、唇の端をあげて笑った。

「昨夜、その人と私を間違えていたでしょう? 小さな声でキラ……って――とっても切なそうに名前を呼んでいたわよ」

どこが可笑しいのか分からないが、これが恋愛の駆け引きだとか牽制とか言うのだろうか。

このとき初めてアスランは、女の顔をじっと見つめた。

婀娜っぽさと幼さが同時に浮かぶ容貌は、たしかに美しいのかもしれないが、美を求めるあまりか個性を感じられない。

ヒトに人工的な手を加えると、似たような偏りが現れると言っていたのは誰だっただろうか?

傍を離れようとすると、いつもマネキン人形たちは、蜘蛛の糸や草の蔓のような何かで、アスランを絡めとろうとする。

何かを得たいと絡み付いてくる腕や視線や、言葉。

煩わしくて、アスランが意図しないもの。

それまでは、キラが守ってくれていたものだと知るまでに、時間はかからなかった。

ひとりで街へ出て初めて知った生ぬるいそれにも、いい加減もう慣れた。

「――そういうのが、気になりますか?」

ひとつ瞬きをすると、アスランはニコリと微笑んだ。

こういう笑い方をすると、アスランに絡み付いた蔓は、いつも困ったようにはずれた。

「まあいいわ」

大人の余裕を滲ませて、女は引いた。

面倒なく手を放してくれる相手を、始めからアスランは選んでいたはずだった。

そして、いつものように挨拶もせずにドアから出ようとすると、まだ研究所から外へ出てたった二年のアスランよりも確実に長く生きている女性は、最後にベッドの中から言った。

「そう言えば、今日は、あなたのお誕生日だと言っていたわね。いい日である事を祈っているわ」

そんな話をしただろうか? と思ったが、昨夜乾杯したグラスの音が、一種だけアスランの脳裏に甦った。

感傷的になり、心が揺らいで喋ってしまったのだろうか?

一番傍にいて欲しい人から遠く離れて、ひどく淋しかったからかもしれない。

だとしたら、自分は大人どころか、とんだ甘ったれだと知る。

だからアスランは、唇をつぐんだ。

上着を肩にかけ、長い睫毛を伏せたままやり過ごす。

厚いドアが乾いた音をたてて閉じる音を確認すると、殺伐とした気分で歩き出した。

ホテルのエントランスから抜け出すと、黎明の遠い夜風はまだ冷たく、一気にアスランの体温を奪っていく。

エレカを拾う気にもなれず、アスランは蒼白い街灯の下を歩いた。

誰もいない、誰からも忘れられた、世界でたったひとりのような気がしてくる。

足音に合わせて細長い影だけが付いてくる石畳は、影絵のよう。

足早に歩いていると、またどこからか金木犀の香りがふわりと漂った。

本当は朝まで目を覚まさないはずだったのに、眠りは金木犀の甘い香りに阻まれた。

『そう言えば、今日はお誕生日だと言っていたわね』

もう顔も思い出せないドアの向こうの女は、きっと自分よりも長生きする。

もしも女の生き血を吸って永遠の命が得られるのなら、けしてそれを厭わない。

世界から切り離されて歩きながら、もうずっとアスランは暗闇の中、独り孤独だった。

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