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ロボキラクリスマス 以前の無配本

ロボキラクリスマス
 
おはようございます。
ええと……ぼくはキラ。
となりで眠っている緑の羽のコトリさんはトリィっていう名前で、ぼくたちは、いつもいっしょの仲良しなの。
トリィは、アスランがくれたコトリさんで、とってもカワイイ、オリコウさんなの。 
オヤツのときも、アスランが帰って来る時間も、首かしげて鳴いて、ぼくにいろんなことを教えてくれる。
ずーっとずっといっしょだから、トリィといたら、どんなこともだいじょうぶって、そんな気持ちになるの。
だから、オヤスミのときも、オハヨウのときも、ぼくはトリィといっしょにいるのだけど、今日、ぼくはトリィより早起きをした。
こんなこと、初めてなんだけど、本当は昨日の夜おそかったから、眠くて、ふらふらで、眠くてツライ。
目が開かなくて、前が見えなくて、でも無理やりベッドから出たら、転んで頭をぶつけちゃった。
寝起きって、ちょっと苦手。
眠いせいか、ちょっとフラフラしたけど、でも、いま、がんばらなかったら、これまでがんばった意味がないから負けられない!
きょうは大事な日なの。 
『アスランのお誕生日』なんだもん!
お誕生日には、いいものをプレゼントして、おめでとうするのが決まりなの。
だって、お誕生日なんだもん。
アスランには、ふわふわして、やわらかくて、幸せになれるものをあげたくて、ずっと探していたの。
ふわふわで、やわらかくて、あったかいもの。
それを探していたら、なんだかシナモンのお顔がうかんだ。
シナモンは、アスランがくれた大きなクマさんで、いっしょにオルスバンしてくれるイイコなの。
 アスランみたいな赤いお洋服を着てないけれど、本当はクマのエリートなのかもしれない。
だって、ときどき大きくなって、イザークさんと会いにきてくれるから。 
あれって実は、スーパーシナモンの特殊ニンムらしいの。 
シナモンは、スーパーシナモンにモードチェンジしたらパワーアップできる。
大きくなったスーパーシナモンは、いっぱい動けて、色んなことができるの。
イザークさんが無理を言っても、とってもすばやくて、赤いマントと頭の王冠がカッコいいの。
ぼくもスーパーキラになれたら、イザークさんの部下になれるかもしれない。
もっともっと大きくなれたら、きっとスーパーになれるはず。
そのときは、アスランが着ているのと、いっしょの赤いお洋服だったらいいな。
大きくなれるシナモンが、とってもうらやましいけど、シナモンがプロフェッショナルなのは、ぼくが一番に知ってるもん。
ふわふわしていて、やわらかくて、だっこぎゅってしたら、とっても安心する。 
だってシナモンの中には、アスランのふわふわがいっぱい入っているんだもん!
とってもやわらかくて、あたたかい。
シナモンのことをぎゅってしたら、おひさまとクッキーの匂いがする。
まえ、いっしょにオフロしすぎてペチャンコになったシナモンのこと、アスランはおなかの中に、ふわふわをたくさんつめてなおしてくれたの。
アスランの手は魔法の手。
色んなものを作るのが、とってもじょうずなの。
アスランの手で、なでなでされると、うっとりしちゃう。
きっといっぱいなでなでされたら、ぼくもいつか、スーパーモードになれるんじゃないのかなって思うの。
スーパーモードで、オトナになって、アスランのパパになれたらいいなって、ときどき思う。
だけど……ぼくはまだ、大きくなれない。
アスランのことも、見上げないといけないし、アスランはお膝を折ってくれないといけないの。
なでなでするのって、たいへんなんだろうなって思う。
アスランはきっと、お仕事でなでなでしすぎて、たくさんお疲れなのかもしれない。
このあいだ、夜、目が覚めてしまったとき、アスランはパパさんチェアーでいねむりしてた。 
その前の夜も、パパさんチェアーで眠っていたの。
おててがだらーんと椅子から落ちてて、おぼれて沈んでしまった人魚姫の王子さまみたいな、キレイだけどすごくお疲れなお顔をしてた。
アスランは、がんばりやさんなの。
いつもぼくにはやさしくて、にっこりしているけれど、こっそり絵本のかげから見るアスランは、おつかれでタイヘンそう。
だから、ぼく、すごく心配になる。 
アスラン、最近は何をなでなでしてるんだろう?
心配だったから、イザークさんに相談してみたけど、イザークさんは、黙ったまま何も言ってくれないの。
イザークさんは、アスランのオトモダチで、アスランとおそろいの赤いお洋服着てる、キレイでエライヒトで、ときどきお家に来てくれる。
背が高くて、ちょっとコワくて、ぼくはしかられてばかりいるのだけど、本当はやさしい人だって、知っている。
ちょっとカルシウムがたりないだけなの。
イザークさんのカルシウムは、全部身長に使っちゃったのかも。
スーパーモードなのだと思う。
ぼくもいつか、スーパーモードになれたら、エリートでエライ人になって、イザークさんとおそろいを着たい。 
だから、ミルクをいっぱい飲むの。
でも、今はまだ無理で、身長も伸びないし、わからないことでいっぱいだけど……でも、ぼくにだって、わかることがあるって、イザークさんは教えてくれた。
そう言われてみたら、ここのおうちのことと、アスランのことなら、ちょっとだけわかる。
だから、ぼくなら、アスランに必要なものを知ってるはずだって、イザークさんは言ったの。
それで、観察して、いっぱい考えて、アスランに、あげたいものが見つかった。
アスランが、あのパパさんチェアーで眠るときは、ぜったい、ふわふわが足りないと思うの。
アスランは、よくパパさんチェアーで眠っちゃうけど、でも、ぼくはまだ小さいから、眠ってるアスランのことだっこして、ベッドにつれていってあげれないの。
アスランは、ぼくのことだっこして、ベッドまでつれていってくれるんだけど、ぼくには同じことが出来ないの。
それ、前にイザークさんに言ったら困ったお顔されちゃったことなんだけど……。
そのときに、「出来ないことを、ぐだぐだ考えるな」って叱られちゃった。
出来る事をしたらいいんだって、通信機で相談にのってくれるおにぃちゃんも、言ってた。
ぼくに出来ること……。
だから、ぼく、アスランのために、ふわふわをがんばることにきめた! 
がんばって、アスランがバンザイしてくれる、そんなふわふわをあげるって決めたの。
そしたら、きっとアスランのこと、元気にできるはず!
アスランが、ふかふかほわほわになれたら、きっと幸せになれると思うの。 
それで、ちょっと迷ったけど、通信機のおにぃちゃんに、もう一度相談したの。
通信機のおにぃちゃんは、アスランとイザークさんのオトモダチで、このあいだアスランがピンチのときに助けてくれた、やさしいヒト。
アスランがお熱だしちゃったとき、助けてくれたの。
通信機でしかお話したことないけど、いっしょに色んな作戦考えてくれたり、困ったときはいつも、いろんな相談にのってくれる、たのもしいおにぃちゃんなの。
「あのね、シナモンのふわふわが欲しいの。アスランのお誕生日に、ふかふかでほわほわで、幸せなのを、あげたいの」
そう言ったら、おにぃちゃん、はじめビックリしていた。
『し、シナモンの、ふわふわ?』
シナモンって言ったとき、おにぃちゃん、なんだか声がヘンだった。 
――どうしたんだろう?
でも、その後ろからイザークさんの声が混ざって、なんだか、おにぃちゃん叱られていたみたいだった。
なんだか、ドタバタいってた。
『おにぃちゃん……だいじょうぶ?』
コソコソ聞いたら、通信機の向こうからコホンって咳払いが聞こえて、イザークさんのコワイ声が返ってきたの!
『チビ、何か用があるなら、直接俺に言えばいい』
冷たい口調で言われて、イザークさんのコワイお顔が浮かんで、おにぃちゃんのくれた通信機を、落としそうになっちゃった。
おにぃちゃんの通信機は、お星さまの付いた可愛い形で、おにぃちゃんにしか通じないの。
それは、イザークさんだって知っているはずなのに。
「……ごめんなさい」
どう言っていいか分からなくてあやまったけど、イザークさんは黙ったままで、ぼくはちょっと慌てた。
でもイザークさん、本当は怒ってないって、ちゃんと知ってる。
知っているけど、ちょっとコワイ。
確かに、イザークさんから銀色の通信機を貰っているのだけど、でも――。
「でもだって、イザークさんの通信機は、ピンチのときしか使っちゃダメなんだもん」
いっしょうけんめい考えてそう言ったら、イザークさんは黙り込んだまま、おにぃちゃんに替わってくれたの。
イザークさんは何も言ってくれなかったけど、でも、通信機のおにぃちゃんは、すごく笑ってて、なんだかまたイザークさんに叱られてた。
大変そうなのに、すごくうれしそうで、うらやましかった。 
きっと、通信機のおにぃちゃんは、イザークさんにしかられるのも好きなんだなって思う。
「仲良しで、いいなあ……」
ポツンとそう言ったら、もっと笑われちゃったけど、おにぃちゃんが笑うので、ぼくも笑った。
そしたら、『キラとも仲良しだろ?』って……おにぃちゃんはそう言ったの。
なんだか、ずっとまえからオトモダチみたいで、心がほかほかして、うれしくてぼくも笑っちゃった。 
アスランが、おにぃちゃんたちとオトモダチで、ほんとうによかった。
オシゴト大変だけど、おにぃちゃん達となら、きっとアスランもだいじょうぶ。
イザークさんは、よくアスランのことも怒ってる。 ぼくもいっぱいしかられる。
でも、イザークさんといっしょなら、きっとアスランもだいじょうぶって思うの。
だって、イザークさんはすごいから。
「ぼくも、アスランのだいじょうぶになりたいなあ」
思わずそう言ったら、通信機のおにぃちゃんが大笑いして、 『大丈夫も何も、キラがいなきゃ、アスランは大ピンチなんだぜ』って、そう言ってくれたの。
なんだか、すごくすごくうれしかった。
いっぱいほめてもらえて、すごくくすぐったかった。
『イイコだなあ、可愛いなあ』って、通信機のおにぃちゃんは、いつもいってくれるの。
通信機のおにぃちゃんは、なでなでがじょうずそうって、ぼくは思う。
イザークさんは、あんまりなでなで上手じゃなさそうなの。
でも、イザークさんの方が、通信機のおにぃちゃんより、エライんだって。
通信機のおにぃちゃんが言っていた。
「とりあえず、明日届けるから、安心しておけばいいよ。イザークおにぃちゃんが、届けるからな……ってイテ!」
通信機の向こうは大変そうだったけど、でもイザークさんが、シナモンのふわふわを極秘ニンムで届けてくれるって約束してくれた。
これでアスランにふわふわでほわほわをプレゼントできる! って、ぼくワクワク眠れなくて。
そんなこんなで、昨日、イザークさんが来てくれたの。
そのとき、アスランはまだ帰ってなかったの。
アスランよりずっと早く、イザークさんは来てくれた。
ぼくは、ちょうどお部屋のベッドのシーツをハサミで切ろうとしてたとこで、いつの間にお部屋にいたのか、後ろからイザークさんに名前を呼ばれたとき、すごくビックリした。
「出来ることならば聞きたくないが。チビ、おまえは一体、何をしようとしている?」
コメカミを押さえたまま、イザークさんは、ぼくのシャツの襟をひっぱって空中でプラーンってした。 
突然だったから、ぼくは吃驚して『いらっしゃいませ』って、出てこなかった。
「おおかた、こんなことだろうとは思って来てみたが」
コワイ声で眉を寄せたイザークさんは、絵本に出てくる雪の女王さまみたいで、ピンとした背中の後ろにびゅーって! って冷たい吹雪がみえた。
ホントは、こんなとき、ちょっとだけイザークさんがコワイ。
ハードキャンディみたいな薄い色の瞳でにらまれたら、凍っちゃいそう!
「シーツを切ってどうする」
イザークさんは、ショベルカーみたいに、ぼくをベッドの上に降ろしてくれた。
「何がしたいのか、ちゃんとわかるように言ってみろ」
ぼくは、ペタンてすわったまま、イザークさんを見上げた。
冷たい声で言われて、ぼくはプルプルしていた。
「だって……だって、ぼく、おつかれのアスランに、ふわふわでほわほわなマクラを作ってあげるって決めたの」
そういって、手に持ってたハサミと接着剤を見せたら、イザークさん、どこかがイタイみたいなお顔して額をおさえると、ポッケからぼくとおそろいの銀の通信機を取り出して『はじめろ』って、短く言ったの。
なんだか疲れたみたいな、コワイ声をしていた。
「イザークさん?」
心配になってお名前呼んだけど、にゅっと手が伸びて着て、ぼくは、イザークさんにもう一度吊るされて、お部屋の壁と机の間に連れて行かれて、うごけなくなっちゃった。
「イザークさん?」
お名前呼んだけど、壁みたいに動いてくれなくて。
後ろでバタバタいろんな音がしてるから、振り向こうとしたのだけど、イザークさんの大きな手で目隠しされちゃって何も見えないの。
それから、静かになって、イザークさんに目隠しとってもらったら、お部屋のまんなかで、赤いマントの大きなクマさんが両手を広げていたの!
うわぁぁぁぁ!
「シナモン!」
うれしくなって抱きついたら、ぎゅーってだっこされて、高くあげたままくるくるまわされて、ぼくはポン!って放り投げられて、キャッチされて、すごくうれしくなっちゃった。
ぼくも、これ、アスランにしてあげられたらいいのになあ……。
だっこして、くるくる!
「シナモン、あいたかった!」
ぎゅって抱きついたら、同じだけだっこされて、ふわふわした!
だって、シナモンはいつも、ふかふかで、ほわほわ。
きっと幸せが詰まっている。
シナモンも、ぎゅーって抱っこして、何度もくるくるしてくれたの。 
「おまえら、さっさとしろ! もうじきアスランのヤツが帰ってくるぞ!」
イライラした声のイザークさんが低い声で言うと、シナモンの肩がビクンてした。
シナモンよりも、イザークさんの方がいつも強いの。
それで、腕を組んだイザークさんの監視のもと、ぼくとシナモンはがんばって、アスランのふかふかマクラを作ったの。
「シナモンのくれた、ふわふわたくさん入れたから、きっとアスランもほわほわになるね」
ナイショでコソコソってシナモンに言ったら、シナモンは、ガッツポーズしてみせてくれたの。
それで、シナモン、マクラの中にふわふわをたくさん入れてくれてポンポンで、ぼく、がんばってチクチク針でぬったの。
すっごくたいへんだったけど、みんないっしょで楽しかった。
それで、出来上がったころにアスランが帰ってきて、ぼくは、あわててシーツの下にマクラを隠した。
「おかえりなさい」
帰ってきたアスランにぎゅってして、ちゅってしたら、アスラン、なんだかイザークさんとシナモンを見て、ちょっと吃驚していた。
「あそんでもらったの」
えへへってシナモンに抱きついたら、アスランが「こっちにおいで」って手を伸ばしてくれたから、ぼくはもういちど走って行って、アスランの腕におでこをピトってくっつけた。
おうちに帰るといつも、アスランは、ぎゅってしてくれる。
だいじだよーって、そんなお顔でみてくれる。
どんなに遅くなっても、疲れていても。
ずっとずっと一緒だよって、ちゅってしてくれる。
でも、きょうも時計は、十時をすぎていた。
ぼくが、遊んでいたら、アスランは眠れない。
イザークさんは帰れない。
「ぼく、もうおそいから、ねるね? あすらん、あのね。あしたの朝はぼくが起こしてあげるから、ゆっくり眠ってていいよ!」
そういって手を伸ばしてホッペにちゅってしたら、アスラン、やさしいお顔して笑った。
何も知らない、まだ吃驚していないお顔をしていた。
だから、ぼくもうれしくなって笑ったの。
きっと、吃驚させて、喜んでもらえるって思って、計画通りって、シナモンを見たら、シナモンは深くうなづいてくれたの。
P作戦は、もう発動中。
「イザークさん、シナモン。ありがとう。またあしたね」
アスランとイザークさんとシナモンに手をふって、お部屋から出てもらってドアをパタンと背中で閉めた。
いつもなら、眠っている時間だから、アスランもそれ以上何も言わなかったの。
何度も、大丈夫? ってきいてくれたけど、おつかれなのは、アスランのほう。
それから、プレゼントのマクラにリボンとお花をつけて、ぎゅってだっこしてベッドに入ったの。
P作戦は、朝いちばんにプレゼントを届けるのが重要なの。
ちゃんとシナモンとイザークさんとで、作戦会議して決めた。
それで今朝は、トリィよりも早く起きたの。
ドキドキして眠れなかったから、ちょっとねぼうしちゃったけど、ぼくは目をこすりながらプレゼントのマクラをだっこして、アスランのお部屋に潜入したの。 
ラベンダーのいい匂いのするほわほわでふわふわのマクラはポンポンで気持ちよかったけど、緊張して手がふるえちゃった。 
お部屋はとっても静かで、何も音がしなくて、アスランも、まだ眠ってた。
絵本の眠り姫さんみたいに、アスランはいつもキレイなお顔をして眠っている。
いっこだけオトナになったアスランは、パパさんチェアーじゃなくて、ちゃんとベッドにいた。
「アスラン、おはよ。おたんじょうび、おめでと」
小さい声で言って、ちゅってして、白いホッペの横にマクラを置いた。 
「アス、ラン」
名前を呼んでもおきなくて、ぼくはちょっとホッとした。
マクラごしにせのびして、眠っているアスランの白いホッペをそっとなでたら、ぼくは、なんだかすごく胸がギュってした。
だいすきで、目の前にいてくれてうれしくて、泣きそうになっていた。
「アスラン、おはよ……おめでと――よかった」
何がよかったのかわからないけれど、いてくれて、そばにいられてうれしくて、ぼくは泣いていた。
なんだか、たくさん、ありがとうって言いたくなって、困った。
アスランのベッド、ふわふわあったかくて、気持ちよくて。 ぼく、離れたくなくて、毛布からはみ出たアスランの肩にピトっておでこをくっつけたの。
「アスラン……おはよ、おめでと」
言葉にすると、胸がいっぱいになって、立っていられなくなる。
まぶたが重くて、目を開けるのがツライけど、アスランがいるからいいの。
ぜんぜん寒いなんて思わなかったのに、ぼくは、冷たくなってたみたい。 
手とか肩とか、あすらんとくっついたところから、ほわわってあったかくなるのがわかった。 
なんだかはなれられなくなっちゃって、アスランのベッドに、ぱふってぼくは倒れこんでいた。
ついてきてくれたトリィも、マクラの横で羽をたたんで眠っちゃった。
「ん……キラ?」
アスランを起こしちゃったのか、眠そうな声がした。
かすれたアスランの声は、なんだか笑っていて、なんだか夢の中にいるみたい。
うっすらエメラルドの瞳が見えたけど、眠そうにまた閉じていて、ずり落ちそうなぼくのこと、だっこぎゅーってしてベッドにあげてくれて、ぬいぐるみみたいに抱きしめてくれたの。
すごく、あったかい。
アスランも、ねむったまま唇が笑ってた。
それからそのままコトンて、眠っちゃったの。 
抱きしめられた腕の中、すごくあったかくてふわふわだった。
本当はアスランのこと、起こしてあげるつもりだったのに、きもちよくて、眠くて、あったかくて、ふわふわしあわせで…… ぼくも眠くなっちゃった。
アスランにぎゅってされたら、ぼくもほわほわでふわふわになれそうな気がするの。
だって、アスランの手は魔法の手で、ぎゅっとしてもらったところから、きっとぼくは色んな事が出来るようになれるはず。
アスランが幸せになりますように。
アスランのお願いが、みんなかないますように。
アスランが気持ちよく眠れますように。 
なんどもアスランの腕の中でそうお祈りした
それで、しあわせだった。
ぼくは、なにもいらないの。 
ただアスランにであえて、ぼくはしあわせです。
「だいすき……ありがとう」
オデコをアスランの胸に、くっつけていたら、アスランのこと、みんなわかる気がする。
トクン……トクンってアスランの音がして、だんだん眠くなって行く。
ずっとこうしていたいなって思って……それから、後のことはおぼえてない。
こうして、このままぼくは、アスランのほわほわでふわふわになれるのかな……って、ただそれだけ。

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クリスマス無配本。
この翌日にキラが大人化して、アスランとイザークがオロオロする話を
天使光臨編で書いていますが、途中のまま数年放置。

今回、猫キラでラクスに会うクリスマスを書きかけたけど、終わらないのでこっちをアップしとく。

色々思いつくのに、手がすすまないよ。どうしよう。
 話的には、こうなったら面白いのにとか思うのに、それがアスランと結びつかないことがある。

「アスランはこんなことしない」「こんなこと言わない」みたいなのっていうのが
強くありすぎる。
なんでなんだろう。

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タナトス 続き

自分の所業に対する罪悪感に潰され、侵食されていく。
裁きを受けても仕方無いと、垂れ込めてくる闇よりもどす黒い絶望に、ユーレンは顔を覆い、呆然と懺悔した。
あんなに諦められないと粘っていた研究すら、一気に霞んだ。
頭の中は真っ白で、立ち上がる気力もない。
――あの大鎌で身体を裂かれるのだろうか。
ぼんやりと考えながら、よほど特殊な猟奇殺人でも、そんなやり方は聞いた事がないと、頭の隅で冷静に考えた。
生死を司る魂の管理者は、その大鎌を振り上げ、振り下ろす間に何者かの魂を獲ると言う。
昔、きいた御伽噺は、そんな曖昧なものだったのだが、そうやって裁かれた前例をユーレンは知らない。
科学者の端くれであり、神にもなろうと驕った男が『アレ』――つまり死神を信じるなどと、どう考えても狂気の沙汰だが、それとしか呼びようのないものに直面しているのだからどうしようもない。
身体が怯えて、逃げる事も抵抗する事も思い浮かばなかった。
死神ではないかと思い始めた途端に、声すら立てる事が出来なくなっていたのだ。
だが、目の前の影は大鎌を振り上げるどころか、構えるそぶりもない。
指の間から覗いたユーレンの目に入るのは、マントの横――床に突かれた鎌の柄だけ。
それは、初めから一向に動いてはいない。
それなのに、やけに大きく見えるのだ。
張り裂けてしまいそうな緊張が、どれだけ続いただろうか?
――誰か助けてくれ。気が狂ってしまう。
息が苦しくて、胸に穴が開きそうになる。
密度の深い闇に放り込まれて、恐慌状態に陥っている。
瞼を閉じても開いても真っ暗で、どちらが現実か分からなくなって眩暈がしてくる。
視界で蒼白く発光するのは、人工の月だろうか、それとも――。
デスサイズ?
間違えようなどないはずなのに、完全に混乱していた。
どちらにしろ、目の前の大鎌を持った黒マントは、変わらず目の前にいる。
ユーレンは、自分の気が狂ってしまったのだと思い始めていた。
だがその時、人工子宮の計器パネルが点滅しているのに気付いて、我に返った。
さらにカタンと音がして、医療ガスが充填され始めて、完全に異変に気付いた。
計器が異常を示しているのだ。
――失われていく。
人工子宮内の異常を知らせる耳障りな電子音が鳴り響き、その音でユーレンは金縛りが解けたように、飛び出していた。
真っ先に守らなければならないものがあった。
大鎌を支えた影は、それを一度もユーレンに向けようとしなかった。
黒尽くめのマントは、初めからユーレンを一顧だにしていなかったのだ。
狙われているのは自分以外にないと思っていたが、あの人工子宮の中には、胎児の命が在る。
黒マントが見ていたのは、初めからずっと、硝子の向こうで眠る最高のコーディネイターの、その儚い命だったのだ。
――奪われてなるか!
考える前に、体が動いていた。
気付けばユーレンは、よろめきながらも三号機の前に両手を広げて立ち塞がっていた。
息が詰まり、恐ろしくて顔が上げられないが、黒マントの裾は見えている。
それは、すぐ目の前にあった。
荒い息で三号機を背中に庇っても、黒マントからは応えはなく、ユーレンの心臓だけが壊れそうなほど大きな音で打っていた。
トクントクンと、内側から叩きつけるような、変則的な血流の音が胸や耳元で大きく響くのがわかる。
身体中から心臓の音がして、振動で体が震えているのだ。
それは、ユーレンが生きていると言う証。
普段は気にもとめもしない事だったが、命があるからこそ生きていられる。
痺れるほどの緊張に苛まれながら、自分の鼓動が苦し紛れの生を叫んでいるのが分かる。
生きている、生きているのだ、死にたくはない。
――まだ死にたくはない……っ!
死の恐怖に駆られた今、ユーレンは自分が生きているという事を痛いほど意識せずにはいられなかった。
けれど、それを擲ってでも、目の前の研究を守らなければならなかった。
それなのに、どうして後先考えずに丸腰で飛び出したのだろうか?
銃は、デスクの引き出しの中だった。
ユーレンの焦りとは裏腹に、対峙した黒尽くめのマントは、大鎌を天に立てたまま微動だにせず立っている。
思えば、この黒い人影は、初めから一歩も動いた様子はなく、彫像か人形のよう。
蒼白い顔は影になり、全く表情も見えないが、きっと恐ろしい顔をしているに違いない。
生き物ではない何か――きっとこの世のものではない。
悪夢こそ相応しい、対峙するユーレンの目の前に、亡霊のようにただ居るのだ。
静かに佇むその影は、まるで何かを『待っている』ようにも思えて、ユーレンは額から流れる嫌な汗を拭う事も出来ず、ただ負けないように凝視するしかない。
背中に庇った人工子宮から繋がるモニタには、異常を知らせるアラートが鳴っていた。
これは、人工子宮内の状態が芳しくない状態に傾き始めたという予備警報だった。
目の前で、計器の数値は上昇して行き、ユーレンは叫びそうになる。
まるで佇む黒い影が、人工子宮の中の命に、人知の及ばぬ力で干渉しているようにも思えた。
このままでは殺されてしまう。
スーパーコーディネイター計画は、終焉を迎えてしまうのだ。
「こ、これには手を出さないでくれ!」
やっとの思いで絞り出した声は、怯えに震え、ひっくり返っていた。
すでに、広げた両手が鉛のように重く痺れ、垂れ下がっていたが、それでもユーレンは必死に広げて――そして毅然と顔をあげると、黒マントと正面きって対峙した。
目の前は暗く空気は重く、異様な大鎌が妖しく光るだけだった。
あれで一閃された瞬間、すべてが終わるのだと思うと、背筋が凍るほど恐ろしい。
本当は、ここから逃げ出し、再び状況が整ってから、新たにスーパーコーディネイター計画を打ち立てる方法もあったと、今更気づいたが遅かった。
――命がなければ、何も出来ないのに。
汗が吹き出して、背中が冷たくなっていく。
身体は疲労困憊して現実感が薄いのに、ユーレンの頭はやけに冴えていた。
どうしようもない勝負を挑んでいる。
奥歯を噛んで真っ直ぐに見据えても、黒いフードの影になった容貌は影になって見えない。
それが余計に不穏な胸騒ぎを突きつけた。
ただ、青白く光る大鎌は、すぐ目の前にあった。
それでも、身を挺して守らなければならない、それだけで男は両手を広げていた。
その姿を見て、闇の中の黒マントは、ようやくユーレンという人間に気づいたように、そっと首を折った。
影絵の黒が、ほんの少し動くと重い空気が震えたように思えた。
だがそのとき、ビーッ! と、別の機器から不快な電子音が続けざまに長く響き、人工子宮内の胎児の異常を伝えた。
ユーレンは反射的に機材へと向き直り、処置を始めた。
ろ過装置を最大にしても、血圧は二百を越え、どんどん心拍数が上昇していく。
ブクブクと音をたてて濁り始めた羊水の中で、胎児は苦しむ様子もなく、ゆっくりと沈んでいく。
酸素濃度を上げても、ろ過を最大にしても焼け石に水とでも言うように、あっという間に羊水は濁っていく。
これまでの失敗と同じように、為す術も無く狼狽える無力な研究者は、今、自分の置かれている状況を完全に見失っていた。
「何故だ?! 急にどうしたんだっ!?」
人工子宮装置のどこを弄っても、手の施しようがない。
これまでに何度も経験したことと同じ。
「――無駄です。その命はもうじき終わってしまうでしょう。あなたがどう足掻いても、どうしようもないのです」
淡々とした声が暗闇から響いた。
その静かな宣告に背中を叩かれたとき、ユーレンは逆上していた。
「どういう意味だ? オマエが何かしたんだろう!? えっ?」
幽鬼のように、ゆっくりと振り向くやいなや激昂するユーレンの前で、ほっそりした黒いシルエットは静かに首を横に振った。
「その魂は、もうすぐここから離れてしまう。ただそれだけのこと」
「それだけだと!? 馬鹿を言うなッ! 命が離れるってことは――それは」
それは死ぬと言う事だろうか、実験が失敗したと言うことだろうか。
初めての失敗ではないと言うのに、このときユーレンは立っていられないほどのショックを受けていた。
恐怖など吹き飛び、ただ人工子宮装置にしがみつくだけ。
冷たい風が、足元をひゅうと吹いた。
「どんな魂も例外なく、その時が来れば身体から解き放たれて自由になる。――それがこの世の理。そして私は、あなたの目の前の未成熟な魂が身体から離れたあと、迷うことのないよう導くために来たのです」
失意の男の隣で、黒いマントが揺れた。
感情の一切の篭らない声は、穏やかにも冷酷にも聴こえる。
見上げる男には、黒いシルエットが絶望を凝縮した漆黒の闇に見えた。
つまりは、死神がデスサイズを携えて、死を宣告しに来たと言うのだ。
「こんなこと、嘘だ……っ。これは全人類の頂点に達する最高のコーディネーターなんだぞ!? オマエにその価値が分かるかっ?!」
掠れた呻き声をあげて頭を掻き毟ってみても、目の前の黒マントを見たときから、薄々分かっていた事だった。
研究は失敗して、このままスーパーコーディネイター計画の最後の希望はついえてしまう。
これでユーレン・ヒビキは切り札を失うのだ。
蒼褪めて消沈する研究者の目の前で、黒い影は淡々とした少し悲しげな声で告げた。
「死は誰の上にも等しく平等に訪れます」
「嘘だ」
こんな馬鹿なことがあるはずがないと、血を吐くほどに叫んだが、ユーレンの目の前の影は、異質で異様。
万が一、机の中の武器を構えていたとしても、きっと影は身じろぎひとつしないだろう。
そういう存在なのだと、ユーレンは知っている。
「信じてくださらなくとも結構です」
冷徹な言葉に、頭を抱えた男は発狂しそうになる。
「何なのだ!? こんな事があっていいはずがない! そもそもお前は誰だ。誰の許しがあって、私の目の前にいるッ?!」
問いに影は、ゆっくりと瞼を開けて男を視た――ような気がした。
瞬間、ザッと男に鳥肌が立った。
訊かなければよかったと、すぐに後悔したが遅かった。
「薄々お気付きのようですが、私は死神と呼ばれる者です」
ごく簡単な挨拶が、鉛のように男を貫いた。
デスサイズを掲げたまま、黒マント姿のほっそりしたシルエットは、静かに男を見ていた。
男よりも、ずっと若い声なのに抗えない厳しさがあった。
死神と聴いた瞬間、男は鉛弾で撃たれたように、体に力が入らなくなった。
背中から下半身へと衝撃が走って、ミシリと骨が鳴ったのが分かった。
だが、男は鉄を捻じ切るが如く、無理矢理に首を横に振って床を踏みしめた。
「う、嘘だ。そんなものっ――死神などあるはずがない」
「ええ。理解できないのが当たり前ですし、あなたの、その認識でいるほうが幸せです。私はただ、死者の魂を運ぶのが仕事なだけで、追い詰められたあなたの眼に、偶然私の姿が映っただけのこと。今まで通り見えなければ気付く事もなかったでしょう。――わたしは毎日のようにこの場所へは訪れていたと言うのに」
「嘘だ……!」
気迫をこめ、震える息を吐き出して睨みつけても、続かない。
目を開いて現実を見る事を、身体全部が拒絶する。
そんな男の前に、確かに死神は彫像のように立っていたが、同時に存在は空気のように希薄だった。
そして男は、不思議とこの死神を見失ってしまう事が怖かった。
見失ったその時に、すべてが終わるのだと分かったからだ。
力を振り絞って男は立ちあがろうとし、そんな男を、死神は淡々と見下ろしていた。
暗闇で、ぬらりと大鎌が光る。
死神が、ユーレンへと近づいてきたのか、自分で近づいたのか分からない。
ユーレンの背中の人工子宮のカプセルに、死神が動いたように見えた。
魂を狩るつもりなのだろう。
「こんな事は嘘だ! この世に神も仏もいないと言うのに、死神だけがいるはずがない!」
ユーレンの叫びに、顔をあげた死神は、マントの影から見せた清潔そうな唇を自嘲的に歪めた。
「そう言えば、死神にも一応、神と言う名がついていましたね」
硬質な声は、ひどく淋しげに聞こえた。
頭から深く被ったマントのため、辛うじて死神の口元だけしか見えなかったが、唇の輪郭は理知的で、最初に思った通り、まだ若い姿形をしているように見えた。
大鎌は掲げてはいるが冷酷には見えず、神と言われたからではないが神聖で理知的に見えた。
まさに男の目には、誰よりも慈悲深い神に映ったのだ。
昼間、ユーレンが金策に走った者が道化のように思えた。
頼れるのは、この死神しかいない。
それは、一瞬の閃きのような戦慄だった。
一縷の願いをこめて、ユーレンは再び床に両手をついた。
「来てくれたのが死神でよかった。頼む、助けてくれ! お願いだ、あの子を連れて行かないでくれ」
「それは死神に願うことではありません。人には定められた寿命があります。それに則って私は魂が迷う事のないよう、導くだけです」
「それこそ、死神のアンタの采配でどうにかなるのだろう?! 頼む。連れて行かないでくれ」
「残念ですが、理を違えるわけには参りませんし、未熟な魂を迷わせてしまう事の方が、どんなに残酷なことか。……あなたには想像すらつかないことでしょうが」
「そこを頼む! 絶対に私がどうにかする、約束するから」
今の今まで恐れていた癖に、必死の形相でにじり寄り、溺れる人のように黒マントに縋りつく。
「どうか頼む、せめて待ってくれ。あと少しで完成するんだ! アンタだって気付いているはずだ。これは素晴らしい研究なんだ。人類のために、この世に出すべきだ! どうしてもと言うのなら……私の寿命を半分、この子に分けてやる。それならばいいだろう? そうしてくれ――頼む」
そんなユーレンを、死神は静かに見下ろしていたが、答えは簡潔で無慈悲だった。
だが、それでも足元の冷たいマントを力をこめて握りしめ、ユーレンは頭を下げたが、死神はニベもなく顔を逸らした。
「無駄だ」
「そこを頼む、どうにかしてくれ、望む物があるなら何でも出す! 金なら研究が成功した暁に欲しいだけ払う! だから、だからっ」
ユーレンは引き下がらない。
もう、他には何も残っていないのだ。
「そうだ、誕生させる事が出来たなら、私の寿命を全部やる、妻のもやるから! どうだ二人分だ! それならいいだろうっ?」
「そういう問題ではない」
死神は辟易したように唇を、ほんの少しだけ歪めた。
だが、他に方法を知らないユーレンは、断られても何度も床に額を擦り付けた。
何でも言うことを聞く。
自分で足りなければ、足りるだけの魂を差し出してでも、この研究は成功させなければならないと訴えた。
それしか知らない機械にでもなったように、ユーレンは頭を下げ続ける。
金策で走り回った人間相手にでさえ、一度もしなかった事だった。
生身の人間は一度も信じたことなどなかったが、この死神ならば信じられた。
何度も頭を下げ、その足元に跪いて一心に希う。
どうかこの子を助けてくれと懇願し、啜り泣いた。
だが、返事はない。
背後の人工子宮装置からは、アラームが鳴り続いている。
あれが切れたときが、終焉。
黙り込んだままの死神に、ユーレンは時間がないと叫び訴えた。
だが、それでも残酷な沈黙は続いて、ついにアラーム恩が途切れ、諦めかけた男が叫んだ、その時だった。
「やはり人間は……仕方の無い生き物です」
遠くから、低い声がした。
そして呆然と泣いていた男のまぶたの中に、何かが光った。
ポツポツと光は増えて、暗闇だった世界に灯りが点った。
驚いて目を開けば、いつの間にか、いくつもの焔が、周辺全てを取り囲んでいた。
「これ、は……」
光の鱗粉を放つ蝶に見えたが、違った。
死神の足元に跪いたユーレンの周りには、幾千幾万もの蝋燭が灯っていたのだ。
まるで、小さな炎の海原にいるようだった。
長いもの、短いもの、太いもの、細いもの、焔の大きなもの、今にも消えそうな小さな物――形状は様々。
幾千幾万もの蝋燭が、丸い炎を点してユーレンと死神の周りを取り囲み、温かなオレンジ色の光を放っている。
波のようにさざめき、何かを語りかけてくるような光の海。
強い光も弱い光も、瞬くように煌いて、波のように静かに揺れている。
涙が出るほど美しくて、物悲しくもある数多の光は、初めて目にするはずなのに懐かしく、ユーレンの胸には郷愁がこみげて、思わずシャツの上から胸を掻き毟った。
「これは人の命と同じもの。形は様々だが、その者の寿命を示している」
朗々とした声で、その中の一つを死神は指した。
それは、今にも尽きてしまいそうな短い蝋燭だった。
「まさ、か……」
――あの三号機の胎児のものだろうか?
だったら絶望的だと、ユーレンは息を飲んだ。
だが、彼はもっと驚く事になる。
「この蝋燭はユーレン・ヒビキ。あなたのものだ」
死神は、静かな声で指差した腕を下ろした。
瞬間、ユーレンは絶句して目を瞠り、戦慄した。
「まさか……」
「ご覧の通り、あなたの寿命は残すところ、あと少し。だから、あなたの命は誰にも分け与える事など出来ない。あなたの元にも、遠くなく迎えが来るだろう。それは私かもしれないし、私ではないかもしれない。だから馬鹿な事を考えないで、あなたに残された日々を大切に過ごすがいい」
それだけ言い残すと、死神は男の脇をするりと通り抜けようとした。
「ま、待ってくれ! じゃあ、アレの蝋燭はどれだ? 教えてくれ!」
「アレ?」
冷たく問いで返され、恐慌状態になって死神を引き止めたユーレンは、その場に這い蹲り、自分よりも短い蝋燭を必死に探し始めた。
アレと言うのは、今、すでに瀕死の胎児――ユーレン・ヒビキと妻ヴィアの受精卵を遺伝子操作した、すべての中核――彼のすべて。
「アレの、三号機の蝋燭はどれだ?! もはや消えてはいまいな?!」
動転した男の身体は震え、どこだどこだと繰り返す声は、焦燥に掠れていた。
乱暴に探すあまり、倒してしまった蝋燭のその中には、男の妻、ヴィアのものもあったが、男は気付く事はなかった。
その狂乱を全部、淡々と瞳に映しながら、止める事のなかった死神は冷酷に答えた。
「あの入れ物の命は、まだ生まれ出てもいない曖昧な存在。そんなものに命の蝋燭など存在しない」
「生まれ出ていないから……曖昧だと?」
男は顔を強張らせた。
死神は問いに答えない。
だから、さらに男は追い詰められる。
「そんなはずはない、生きていた! 生きているんだ、まだッ!」
男は知っている。
まだ、未熟な心臓は動いていた。
数分前は、かすかな身動ぎも確認していた。
だが、一般人から見れば、曖昧に見えるかもしれない。
それなら何故、この世のものでもない不確かな魂をユーレンから奪おうとするのだろうか。
人の手で遺伝子操作され、人工子宮で作られた命は、神の与えた命の範疇とは異なると言うのか。
だとしたら、男が作り出した命、それは誰のものでもない。
神のものですらないなら――創造主のユーレン自身にこそが、あの命の神に等しいはずだ。
男の作り出した命なのだから、男のものだ。
いつの間にか、死神が非現実的なものだとか、恐ろしいものだとか、そう言った事を、男はついぞ感じなくなっていた。
むしろ、この死神こそが待ち続けてきた味方に思えた。
死神と名乗る黒マントが、明らかに自分よりも若く、与しやすいと思い込んだのと、三号機の胎児誕生に対する男の欲が軒並みならぬほど強烈だったからかもしれない。
「アレの蝋燭がないというならば、アレが生まれる可能性は、お前の言う理から逸脱した存在なのだろう? 命の焔が初めからないのならば、消えなければならない理由も無い、そうじゃないか」
黙り込んだままの死神の前で、ユーレンは狂ったように笑い出した。
そして、笑いながら両の目から涙を零した。
「お願いだ、助けてくれ――助けてくれ……頼む……私の子なのだ。人類の夢なんだ」
そこにいたのは、一人の無力な父親の姿だった。
純粋に、一つの命が消える事を嘆く人間の姿に見えていた。
死神は、静かに男を見つめた。
そして。
「――それほどまでに言うのならば、お前の望みを叶えよう」
声と同時に、男と死神の周りを取り囲んでいた蝋燭が消えて行き、元の暗闇に戻っていく。
まるで世界が転換していくように、あの世とこの世との境目が動いた。
男は仰天していたが、正気は保っていた。
それを死神は、きちんと見ていた。
上か下かも分からぬ漆黒の闇の中、両手をついたままの男の目の前で、そのとき、ふわりとかすかな焔がひとつだけ灯った。
死神の手には大鎌ではなく、一本の蝋燭がともっていた。
何が何だか分からない男に、死神は問うた。
「あの入れ物にある命の名は?」
死神の言葉が意図する意味も分からず、男は首を横に振った。
「父親だと豪語して名も与えてやれぬのか。ならば仕方が無い。迷わぬように、わたしがつけよう」
死神が白い指先を蝋燭にあてて軽くなどると、そこに文字が浮き上がった。
キラ・ヒビキ。
呆然と見つめる男の前で、蝋燭の焔は小さいが強く美しいものへと変わり始めた。
花が咲いたように煌めく温かな光。
その光が手元にきたせいで、死神の顔が一瞬だけ暗闇に映し出されたのをユーレンは見た。
どこぞの王子のような、高貴な容貌だった。
正体をかいま見て驚く男に気付かず、死神は、その蝋燭を差し出してきた。
「あの入れ物の命の名は、わたしがキラと名付けた。これももはや何かの縁。わたしは、あの子の名付け親。あの命が尽きるまで責任を持って見守ることとしよう」
男は呆然と死神を見つめ、言われた言葉の意味を理解すると、はらはらと涙を零した。
言葉が見つからなかったのだ。
「あの子がもう少し育つには、まとまった資金が必要だろう。それは明朝にでも届けることにしよう」
淡々と言う死神の言葉を聴いたとき、男の胸は歓喜に満たされ、他に何も考えられなくなってしまった。
実験を続ける事が出来る。
それだけで、頭がいっぱいになる。
だから、礼すら口にする事もなく、それ以降の死神の言葉を聴き逃した。
「お前は自分の命が長くない事を忘れてはならない。わたしが名づけた命を守る事を一番に考えておくことだ」
それだけ言うと、死神の姿はプツリと音をたてて消えた。
その音がした瞬間、男はハッと目覚めた。
研究室の、自分のデスクだった。
うつぶせたまま、いつの間にか眠っていたらしい。
時計はまだ、夜半で、戻ってからそれほど時間は経っていないようだった。
――可笑しな夢を見たものだ。
身体は痛んだが、デスクの裏のボタンを押して、隣の隠し部屋の扉を開いた。
奥の研究室には、大切な研究が眠っている。
それに異常がないかどうか、調べなければならない。
こんな夢を見たなら、尚更だった。
男は内心怯えながら三号機の前に立ち、ひとつ深呼吸して数値に目を落とした。
そして、ひどく安心して大きな笑い声をたてた。
すべて正常値で、順調だった。
それが嬉しくて、男は仰向いて大笑いしながら元の部屋へと戻り、ソファーへ倒れこんで眠りについた。
翌朝、男の世界は一変していた。
研究所の口座に一面識も無い個人からの莫大な大金が振り込まれ、男をギョッとさせたのだ。
――あれは、夢ではなかったのだろうか?
一瞬だけ頭を掠めたが、思い悩む暇はなかった。
あれよあれよと言う間に、出て行った研究者達が戻って来て、そして運命の日を迎えた。
男の研究が実を結び、スーパーコーディネイター計画が成功したのだ。
だが、キラと言う名を死神によってつけられた子供は、その名で呼ばれる事は無く、人工子宮のナンバーのまま、三号機と呼ばれ続けた。
研究資金の潤った男は、新たなスーパーコーディネイター計画に着手した。
今度は、遺伝子提供者はすぐに見つかった。
ユーレン・ヒビキ博士の人生にとって、順風満帆な幸せの絶頂だった。
このまま量産が可能になれば、高度なコーディネイターだけの夢の世界が出来上がる。
だが、その終焉は実にあっけなかった。
三号機での二例目の実験を開始して、すぐのことだった。
散乱した研究室の血だまりに、男は倒れていた。
周りには、幾つもの研究員の遺体が転がっている。
恐れていた、ブルーコスモスの襲撃だった。
そしてそのときになって、男はやっと、あの死神との邂逅を思い出していた。
――確か、私の蝋燭は、ほぼ燃え尽きていた。
こういうことかと、男はやっと理解した。
『お前は自分の命が長くない事を忘れてはならない。わたしが名づけたこの命を守る事を一番に考えておくことだ』
最後の死神の言葉が脳裏に甦ってきたが、すべては遅い。
血だまりの中で痙攣しながらも、男は頭の中で一つの事だけを考えていた。
三号機の成功例、男の研究の唯一を、ここから連れ出さなければならない。
自分の遺伝子を分けたアレの名前は、何と言っただろうか?
この腕で抱いてやることもなかったスーパーコーディネイター、最高の息子。
あれだけは確保しなければと思ったが、もう指先ひとつ動かせもしない。
凍えた風が吹き、混濁する意識の中で、男は目を開いていた。
いつの間にか傍らに立っていたのは、ほっそりした黒い影。
片手には凶悪な大鎌、命を刈り取るデスサイズ。
そして、その黒いマントに包まるようにして眠る赤子は、紛れもなく男の研究――男の子供。
――名前はなんだっただろうか。
そう、確か――蝋燭に文字が浮かび上がっていた。
一度も名を呼ばなかった男には思い出せなかったが、それがあったことを記憶の断片から見つけた刹那、安堵したのか諦めたのか、薄く微笑んだ男の最後の意識は真っ白に飛び散った。
この日を境に、メンデルのGRAMR&D社は閉鎖され、後にバイオハザードが発生したため、コロニーごと無期限封鎖される事になる。
研究員の遺体はおろか、大量の実験途中の胎児すらも放置されたまま闇に葬られ、すでに誕生したというスーパーコーディネイターの噂も、そのままプツリと途切れて消えてしまった。

拍手

タナトス

散らかった机に上着を放り投げ、男は崩れるように両手をついた。
「この世に神はいないのか……」
つぶやきは闇に消えるだけで、無人の部屋に返事などあるはずもない。
深夜の研究室は空調の音だけが響き、あとは所内を管理する機械音がまとわりつく。
男は肩で大きな溜息をつくと、乱暴に頭を抱えた。
一日中、カバンを抱えて歩き回った脚は棒のよう。
元々、社交的な性格でもない。
自分は研究室に篭って研究に没頭する方が、何倍も性に合っている人間なのだ。
それを絶望するほど思い知らされ、憔悴する日々が続いていた。
液晶に浮かんだ時間は、もうとっくに零時を回っていて、あたりは静まり返っている。
また、貴重な一日が幕を閉じてしまう。
柔らかな椅子に腰を下ろすと、疲労がどっと押し寄せて身体の節々が悲鳴をあげた。
タイムリミットまで、あとどのくらいだろうか。
もっと足掻かなければならないのに、身体が泥のように重く、思うように動かない。
眩暈を伴う眠気で身体は限界なのに、妙に頭の芯が冴えている。
まだ成さねばならぬことが山積みで、やり抜く時間はともかく、なによりも資金が底をついたことが男を苦しめていた。
――どうしたらいいのだ。
男は、ひどく憔悴していた。
研究資金どころか、すでに自分の資産すら男には残ってはいない。
健気に支えてくれていた妻の姿も、もう傍にはなかった。
金策を工面することなど、およそ男には似合わない作業だったが、頼れる者は誰もいなくなってしまった。
経営に不慣れな男にとって、これほどの資金難を立て直すなど無謀なことだったが、困難こそが当然だとも思っていた。
神の所業に匹敵する遺伝子研究が、容易く一般人に理解出来るはずがない。
『天下のヒビキ博士が研究資金ごときでそんな! お案じなさることなど何もありませんよ』
揉み手で近寄って来る同業者の作り笑顔からは、研究を根こそぎ奪おうと目論む下心がハッキリと透けて見えた。
最先端の現場において、ライバルから研究を横取りされる事件など、特に珍しい事でもない。
男は今までの経験から、ヒトが愚かで信用出来ない生き物だと言う事を十分すぎるほど見てきていた。
自分を鑑みても、もしも見栄えのいい研究が目の前に転がっていたなら、黙って自分の物にしてしまうか、自らの手で潰してしまうかのどちらかだ。
誰よりも先に研究成果を出せなければ、その結果を誇る権利などない。
一番と二番とでは、雲泥の差がある。
だから研究者は、信頼関係の成立しない支援者に、二の足を踏むのだ。
どこにスパイが潜んでいるか分からない。
どれだけ札束を積まれても、研究に理解のない支援者からの援助は警戒する。
けれどそれは、選ぶ余地が残っている場合だ。
男が置かれている状況は、そんなに甘いものではない。
もしも高額な寄付を申し出てくれる者がいたならば、男は再び自分の魂など売り飛ばしただろう。
どうせ、すでに一度金のために売ったことのある魂だった。
研究者は常に困窮している。
だから、売れるものは何でも売って金にしなければならない。
でなければ研究を続けられないという、それは切実なことだ。
誰もが願うのは、金払いが良く、自らの研究に介入することの少ない、都合のいい権力者の存在だった。
出来れば国の中枢に関わる裕福な政治家なら、なおいい。
彼らほど理想的なパトロンはいない。
国が保護してくれるならば、資金など気にすることなく、研究にだけ没頭できるのだ。
だが、どこの国の中枢も、すでに男の研究を取り締まる側に回っていて、援助を望む事は大変難しい状況になっていた。
オーブにある妻の一族は裕福で、今まで男は、その力に頼りきりだった。
妻はオーブの権力者の親族で、その国の国政に携わる友人も、男の研究を理解してくれていたのだ。
だからこそ、今まで成立していた相互関係だった。
だが、もうそれをあてに出来ない。
今の妻は、すでに男の研究を理解しないばかりか、ヒステリックに糾弾するばかりになってしまった。
結果、妻経由で男の元へ届いていた資金援助もプツリと途切れた。
――今にきっと、私への融資を絶った事を後悔するに違いない。
信頼していた妻や友人から背を向けられた事は、プライドの高い男を、ひどく傷つけていた。
資金が底を尽き、進退窮まるのを知っていて、援助を絶たれたすべてに憎しみすら覚える。
恨む相手が間違っていると知りつつ、男には研究がすべてだった。
妻を愛していないわけではない。
愛してはいたが、それに緊急性を感じなかった。
妻は美しく、たおやかな女性であり、男と同じ研究者だった。
最愛の妻がいたからこそ、男の研究は始まったのだ。
――三号機が成功すれば、きっと妻も分かってくれるはずだ。
きっと昔のように褒めてくれるに違いない。
だが願いは届かず、成果はない。
「今に見ているがいい」
苦く呟き、唇を噛みしめる。
だが、強がってみてもただの空回りで、今日までの成果のなさがすべてを物語っていた。
思えばずっと、今よりも莫大な援助があったときでさえ、資金繰りが必要でない年はなかった。
研究に明け暮れた男に処世術など全くなく、優秀な研究者ではあっても、マネージメントで生き馬の眼を抜くような力はない。
融資や援助を受けることが、とてつもなく大変なことを、妻や有力者の友人に頼っていた男は忘れていた。
とりわけ期待されて来た分野の第一人者だったので、他の研究者よりも、ずっと優遇されてきたのだ。
その頃は、支援者の方から頭を下げてやってきた。
かつてのそんな状況が、ひどく恵まれていたのだと気付けないまま、男は資金難と言う憤りと屈辱に押しつぶされて疲れきっていた。
「……どうしてだ。私も研究も何も変わってはいないのに、何故」
立場が変われば、今までのとりまきは獲物に飛びかかるハイエナと化し、男の研究を買い叩こうとする。
それだけはさせられないと、男は脚を引き摺りながら戻って来たのだ。
資金も限界だが、男にも限界が近づいている。
息を吐き出すと身体の力が抜け、そのままブラックアウトして意識が飛んでしまいそうだった。
だが追加予算が打ち切られた今、この施設の電力も、いつ落とされるか分からない状況だった。
無駄に出来る時間はないと立ち上がった、その次の瞬間、男は眩暈を覚えてグラリとよろけた。
溺れそうな焦りとは裏腹に、感覚の薄れた脚では床を踏みしめることも難しくなっていた。
両手で机に手をついて堪えても、膝がガクガクと震える。
「こんなことで……」
ぶら下がってくる絶望に息を詰めれば、そのまま灰になって身体が朽ちてしまいそうになる。
必死に目を開けば、机の上は請求書の山が散乱し放題で、見ているだけで心が荒んだ。
整理を任せていた最後の研究員が、滞った給料の未払いに痺れを切らして出て行ったのは先週だっただろうか。
一時は持て囃され、引く手数多だった融資や援助も、もはや思うようにならなくなって久しい。
苦悩の男は、強くコメカミを押さえ、もう片方の手で軽くカールして流した金髪を掻き毟った。
「あと少しなのだ。ここで中断すれば、今までの努力すべてが水の泡になる。それこそ人類そのものの損失なのに」
――なのに何故、誰もそれを分かろうとしないのだろうか。
自分の妻ですら理解してくれなくなったことが、一番堪えていた。
かつては最大の理解者であったはずなのに、今では同じ研究者でありながら口もきいてくれない。
そればかりか、顔を合わせるとヒステリックな叫び声をあげて暴れ出し、精神科に診てもらっている状況だった。
「もうやめて! あれは物ではない、命なのよ!」
悲痛な声は悲鳴そのもの。
命だからこそ完成させなければならないと必死だったのは、研究者の妻も同じはずだった。
彼女は、この五月に母になる。
腹に入れた子はナチュラルの女の子で、経過は全くの順調なはずだった。
きっと出産が終われば、落ち着くだろう。
ナチュラルの女の子が欲しいと言う彼女の希望は、叶えたはずだった。
なのに、どうして研究に理解を示してくれないのだろうかと、男は頭を抱える。
究極のコーディネイター計画のために、この十年、何もかもを犠牲にして費やしてきたのは、この人類の発展のため。
クライアントの希望通りのコーディネイトを成功させ、不幸な子供を作らないためだった。
資金難のため、自分たちの遺伝子を研究に捧げることは、妻とはお互いに了承済みのはずだった。
だが彼女は、自らの胎内に子供が宿ってから変わってしまった。
今まで抑えていたものが堰を切ったような激しさで噴き出したように、男を責め始めたのだ。
「もうこんな酷い事はやめて! こんな研究を続けても無駄よ、命は生まれいずるものよ! 作り出すものではないわ」
わめき散らす妻の悲鳴を聴き流すしか、男には術がなかった。
続けてきたのが大切な研究なのだという事は、彼女も知っていたはず。
折り合いをつけてくれるとタカを括っていた。
だがその日、妻は研究室で暴れだし、まだ残っていた職員が慌てて彼女を取り押さえる騒ぎとなった。
資金調達のため、地球軍に不適合なサンプルを譲り渡した日だった。
「返して! あの子を返して! もう一人の……!」
暴れる妻と、男は口論になった。
あれは、妻だけのものではない。
卵子に顕微授精した遺伝子は、間違いなく男のものだ。
「私の子供だ! 最高の技術で最高のコーディネイターにするんだ」
「それは誰の為? ――貴方の為?」
 妻は大きなスミレ色の瞳を涙で一杯にし、瞬きすら忘れて男を凝視していた。
彼女の白い頬に大粒の涙が伝って落ちたそのとき、男は自分がどんな冷たい顔をしていたか記憶にない。
「より良き者をと人は常に進んできたんだ。それは、そこにこそ幸せがあるからだ」
激情に任せて口をついて出たのは、今更の答えだった。
身重だというのに、ひどく激昂したため、貧血を起こして床にくず折れた妻を抱き起こしもせずに、男は腹立ちを隠さずに見下ろしていた。
亜麻色の長い髪と細い背中を震わせて、妻は泣いていた。
まるで自分に宿った命を、これ以上奪わせないと死守するが如く、自らの腹部を庇い、さらに男を責めたてた。
男にとって、妻から腹の子の親権をも剥奪されたような、そんな日だった。
確かに、研究に倫理的な問題のあることや、外部に漏れては聞こえの悪い事が多すぎることは、今更のことだった。
その直前までは、妻は自分の理解者だと、男は当たり前に信じていた。
『命を弄び、実験サンプルにしている』
研究所職員の間で、男の実験そのものが不信感を募らせていたのは知ってはいたが、あの日の妻の狂態が決定打だったかもしれない。
合法的ではないことをしているのだから、抵抗があるのは当たり前で、資金さえ足りていればしなくても済んだことばかりだった。
遺伝子提供を受けられたなら、自分たちの受精卵を使うこともなかった。
そして、資金のために規定レベルに達しなかったサンプルを、破棄という名目で売却することもなかった。
妻が反対すると分かっていたので話さなかったのに、一体どこから漏れたのだろうか?
L4宙域にあるメンデルは、多くの遺伝子研究者が集まっているので、必然的に業者や仲介屋の出入りも多い。
口々に囁く彼らを封じる事が出来なくなってしまったことも、男の失策のひとつだった。
口封じのために必要なのも金。
スーパーコーディネイター計画は出入りする関係者にも極秘扱いであったが、耐えられなくなってここを出た研究者が口を滑らせる可能性も低くはない。
男は仮定の上で、その誰だか分からない彼らを本気で憎んだ。
――故意に、私の実験を潰したい者がいるに違いない。それに妻が唆されているのだろう。
その思いつきは信憑性があり、自分の成果に焦るあまり、男は自らの罪に気づけぬまま一気に荒れた。
襲ってくる疲労と、思うようにならない苛立ちから、そんな過日の事を思い出し、男は激昂したままデスクを叩いた。
すると、脇に散乱していたメディアのタワーが、乾いた音をたてて床へと散らばった。
そのどれが大切な資料だったのかさえ、もう男には分からなくなっている。
まるで空き巣にでも遭ったような荒れ様だったが、疲れ果てた男は、そんなことに構う余裕がないほど疲弊しきっていた。
――だが、私には三号機がある。
デスクについた握りこぶしで立ち上がろうとすると、昼間、男が必死に頭を下げた取引先の顔が、自動的に脳裏に甦った。
長い黒髪の一見柔和に見える遺伝子学者は、男と同じ会社の若いコーディネイターで、以前から男の研究に深い興味を示していたのを知っていたが、今の研究そのものを買い上げるという条件を提示してきたときに向けられた微笑みが壮絶に美しく、男は恐ろしくなり後ずさった。
そして男が次に会いに行ったのは、以前、とある条件と引き換えに投資を受けた金髪の中年実業家で、相変わらず男の研究には興味を示さず、同じものを彼の言う条件に替えてから作り直すならば金に糸目はつけぬと、相変わらずの容赦なさと狡猾さで、有無を言わさず札束を目の前に積み上げてきて、男をたじろがせた。
さらに或る教授は、男の研究と言うよりも、それが成功した暁に、畑違いの自分の研究にとって、どんなメリットがあるのかと何度も訊いてきた。
最後に、仕上げのように、誰も彼もが口々に、もったいぶった口調で言うのだ。
『下手にあなたに手を貸せば、こちらが命取りになるのだ。貴方も、そのくらいは弁えて貰わなければ』と。
本当は、喉から手が出るほど男の研究に興味があるはずなのに、こうして買い叩かれる。
だがそれと同時に彼らの中に、脅迫めいた危険なものが含まれていることを男は肌で感じていた。
結局、今日も資金援助の額は、どれも申し分のない破格の物であったが、そのどの条件も男は飲む事が出来なかった。
スーパーコーディネイター計画は究極のコーディネイターを作る研究で、莫大な資金が必要な研究だった。
ここ数年、特に資金難に陥ってからは、成功に能わぬサンプルを売却することで、研究資金を稼ぐしかなくなっていた。
人工子宮の開発は比較的早くに完成したが、最高のコーディネイターを誕生させるには、それでは駄目だったのだ。
一号機二号機と失敗続きだったが、今残っている三号機の胎児は、十年をかけて、ようやく成功の兆しが見えたものだった。
「あれは奇跡に近いのだ。まさに人が神の領域に手が届くかどうかの瀬戸際――それを私が、この手で掴む――それが私の研究のすべて」
力の入らない指で握った拳を机の上に押し付け、ユーレンは呻いた。
満足に動けないほど疲れきっていたにもかかわらず、彼は片手で体を支え、疲労により震えの止まらぬ指で机の裏のボタンを押した。
すると音もなく奥の戸棚が移動し、隠し扉が現れた。
男を急がせ掻きたてる、大切な研究がそこにある。
整然とした次の部屋へと、ユーレンは引き込まれるように吸い込まれていった。
そこは、無機質な空間。
ドアの向こうに広がる闇は、まるでどこか別の異空間へとつながっているかのよう。
モーター音が低く響き、それ以外の音が存在しない。
部屋の陽のあたらぬ闇の中で、整然と並んだ機材だけが静かに点滅していた。
男のいた部屋の荒れ具合が嘘のように、こちらには何もない。
研究室とは別の、この光の一筋も入らない隠し部屋に、男のすべてが詰まっていた。
壁を埋め尽くして並ぶボックスの、そのほとんどが暗く空っぽだったが、部屋の中に収められたポッドのひとつに、この世の誰よりも優れた完璧な命が宿っていた。
ここにあるのが三号機。
男が命を賭けた大切な宝。
幾層にも重なる繊細な装置の中心に、発光する蒼白い光がある。
その中で静かに眠る命が、男のすべてだった。
大きな円柱状の機械からは、何本もの太いケーブルが延び、周囲のモニタには内部の胎児の様子とバイタルの数値が浮かび上がっている。
それに異常は一つもないことを、男は計器でチェックし、一通りそれを終えるとホッと肩を落とした。
すべて健やかに、確実に生を刻んでいる。
――どうか、一刻も早く誕生してくれ。
厚い硝子の向こうの、おぼつかない胎児の心臓は、規則正しく動いていた。
人工子宮の羊水の中で、まどろむようにゆらゆらと揺れる小さな姿が、男には『生』という芸術そのものに見えた。
大きな可能性が、ここにあると言うだけで、心が震え出す。
バイタルの正常値を示す密かな電子音が、どんな素晴らしい音楽よりも疲弊した心を癒すのだ。
それは、まさに男の作り出した命が目覚めを待っている証拠。
人工子宮という孤独な揺り籠の中でたゆたいながら、最高の能力を秘めたヒト形と魂が合わさった、至上の宝物。
三号機に眠るその命が、今の男に持てるすべて。
人生すべてを、この小さな命に捧げたのだ。
何があっても、これを守らなければならない。
男は、妄執に取り憑かれたように誓うのだ。
だが守ると言っても研究資金のとうに尽きた、このままでは費えてしまうのは目に見えていた。
支援者の誰かを選ばなければ、男の研究は無へと帰してしまう。
だが誰か一人でも選べば、この宝は男の手から離れてしまうだろう。
――それは出来ない。
男の遺伝子を宿した子供なのだ。
何としても持ちこたえなければならない。
眩暈を堪えて、ポッドの無機質な表面に手をあてると、泣き出したい気持ちになってくる。
「やっとここまで来た……あと少し、あと少しなのだ」
このままでは終われない。
諦められない。
諦めるタイミングを測り違えていると、世界中から嘲笑されても終われない。
目頭に、にじむ涙をぬぐうつもりもない。
唇を噛んで苦悩する男にも、この人工子宮の命が本当に、あと少しで誕生となるか否かは分かっていない。
そして、誕生してみなければ分からない事もある。
他の多くの事例のように、シャボン玉が弾けるほどの儚さで無に帰してしまうのかもしれないのだ。
男が作り出そうとしているのは、そんな危ういバランスの中で誕生を待つ究極の命であり、男が人生すべてを賭けた、あまりに心もとない一つの可能性だった。
けれど、成功すれば人類すべてをひっくり返すことが出来るだろう。
神を作り出した技術として、男は歴史に名をはせ、後世までその功績を称えられることになるだろう。
何故なら男が作っているのは人類の憧れであり、その頭上で燦然と輝く希望と言っていい。
数多の犠牲は否めない。
だれもがこうありたいと切望する祈りであり、夢そのものを形にしたものを、ユーレンは自分と妻の遺伝子で作り上げるのだ。
それがスーパーコーディネイター計画。
ヒトの遺伝子を組み替え、誰よりも優れたコーディネイトを施した、最高のヒトを作り出す研究だった。
優秀な頭脳と身体能力と、美しい容貌を兼ね備えた究極の命を誕生させることが、コーディネイターの極み。
資金援助のために法も倫理も犯し、資金調達のために、男は禁じられたヒトクローンに手を貸す所業まで犯した。
だがすべてが、究極のコーディネイターを作り出すため。
自分の遺伝子を引き継ぐ子供を、最高のコーディネイターにするためだった。
我が子の受精卵を培養し、遺伝子操作を繰り返す。
遺伝子の無尽蔵な組み換えに、ヒトの形を保てない胎児は放置、或いは破棄され続けた。
残酷なようだが、それは最高の人類を作り出し、人の夢を叶えるための聖なる犠牲。
研究者が前に進むためには、屍や犠牲の山に怯んではならない。
人類のためだという免罪符は、自らの子供を犠牲に捧げることとで男を正当化させ奮い立たせた。
ヒトの命を使った遺伝子操作実験は、神への冒涜という古臭い言葉だけでなく、倫理的な観点から風当たりも強い。
だが、成功の夢を振り仰いだ男に、それは雑音でしかない。
メンデル遺伝子研究所の円筒形の施設群は、ユーレン・ヒビキ博士が作り出した墓場そのものだと醜聞が流れたが、ついぞ男の耳には入らなかった。
ヒトになれなかった屍の山が、どう処理されていくのか、忙しい男の視界に入らなかったのだ。
「この三号機は成功させなければならない」
男は低い声で呟いた。
このままでは、彼の人生のすべてをかけた、人が神になる可能性が、ゴミ同然の価値しかなくなってしまうことになる。
――そんなことが許されてなるものか。
「私は神を作るのだ」
握った拳を震わせて、男は厚い硝子の向こうの羊水の中で、静かに丸まって眠る胎児を睨みつけた。
最高の可能性を秘めた命。
それが、男の持てる研究の結晶。
ユーレン・ヒビキは遺伝子研究の第一人者で、優秀な研究者なのだ。
今に超人どころか、神さえ作りだすだろうと囁かれ、そして、それを実現させる力が自らにあると信じた。
美しい容姿、明晰な頭脳、身体能力が高く、疾病に強い身体。
こうなればいいという、人の夢や憧れを形にする研究のはずだった。
人材こそが国の宝。
それは、連綿と続く人類の発展に繋がる。
人は絶えず競争して、洗練されていくのだ。
隣人よりも優秀な遺伝子であればあるほど、その家系は繁栄していく――簡単な図式だ。
最も簡単に優秀な人間を作り出す方法、それが遺伝子操作であり、それがなければ凡人が天才の域に到達する確率は極めて低い。
凡人のままで良いと誰が思うだろうか?
隣人よりも劣ったまま良いと、誰が本当に満足するだろうか?
もしも遺伝子をコーディネイトすることにより、人生のスタート地点を確実に押し上げられるならば、世の親は遺伝子操作のリスクを厭わないだろう。
事実、優秀な遺伝子ほど裏切らないものはない。
それを操るユーレンは、これまで、さほど困難なく支持者からの資金を集め、顧客の要望のままの遺伝子操作を行い、富と名声を手に入れてきたのだ。
そのユーレンの願いは、唯一つ。
自分の遺伝子を受け継いだ、スーパーコーディネイターを作り出すことだった。
自分の遺伝子を継承した子供に、数多のコーディネイターの頂点を統べさせたかったのかもしれない。
初めは、妊娠中の母体に影響されない、より安全で確実なコーディネイターを誕生させるための、研究のはずだった。
だが、そんな凡庸な研究では多額の融資は望めず、いつしか究極の遺伝子操作を施したコーディネイターを誕生させることへと目的は変わった。
それがスーパーコーディネイター計画だった。
莫大な資金をつぎ込んで、今ようやく完成間近となったのに、反コーディネイター団体ブルーコスモスによる、コーディネイターの排除が進められていた。
必然的に男とその遺伝子研究のすべては、その標的のトップに名を連ね続けた。
地球では、コーディネイターの治療や誕生に関わった病院施設や研究所、さらには支援、援助する団体や個人までもが、テロや暗殺の標的となり始め、新たにコーディネイターの誕生を希望するものは激減した。
世界がコーディネイターを閉め出そうとしているのだ。
そうして手足をもがれても、ユーレン・ヒビキ博士は地球を離れ、L4宙域でスーパーコーディネイター計画を遂行した。
彼には、それしかなかったし、それが研究者の彼が選んだ道だった。
そうやって、男は一人でここに立っている。
そして目の前の三号機が、彼にとっての最後の希望である。
この三号機の胎児が誕生しなければ、金銭的にも倫理的にも社会的にも、もう二度と、このレベルのコーディネイターを作る事は出来ないだろう。
ゆえに、何があってもユーレンは完成させなければならなかったのだ。
改めて固く握りこぶしを握ったとき、奇妙なことに、冷たい風が足元を吹き抜けた気がした。
いくら荒れた研究所とはいえ、まだセキュリティは生きている。
一般人が入りこめるシステムになっていないのだ。
まして、隠し部屋のこの場所に踏み入ることは、限られた数名にしか許していない。
気のせいかと思ったが、その次の瞬間、確かに人の気配を感じて振り返り――そしてユーレンは恐怖のあまり掠れた悲鳴をあげた。
闇の中、振り返ったすぐ後ろ――三号機の前に、いつの間にか、ひっそりと佇む人影があったのだ。
恐怖に固まったユーレンの前で、頭からつま先まで黒いマントに覆われた人影は静かに立っていた。
ドアの開く音はしなかったし、網膜認証がなければここへ簡単に入れる訳がない。
まるでテレポートして現れたような不気味さにザッと鳥肌がたち、ガクガクと膝が震えた。
何者かが一瞬で現れるなど、尋常ではない。
照明をつけなかったことを、これほど後悔したことはなかった。
だが、機材の放つ蒼白い光に照らされて現れた、ほっそりしたシルエットを見て、幾分ユーレンは落ち着きを取り戻した。
――女か……?
相手が自分よりも、ずっと華奢に見えたからだ。
これなら、捻じ伏せられる――そう思えた。
「誰だ?! こ、ここへはどうやって入っ……ッ?!」
ユーレンは高圧的に叫んだが、直後に再び吹くはずのない冷たい風に頬を撫でられて戦慄した。
こんな凍えた風が、密封状態の研究所内に吹くはずはないのだ。
冷気で体温を奪われた場所が、凍りそうに引き攣る。
――疲れて悪い夢を見ているのだろうか。
正気に戻れと一度目を固く閉じて開けば、黒い影の頭上に大きなシルエットを確認し、ユーレンはギョッと目を見開いて、さらに声にならない悲鳴をあげた。
心臓が大きな音をたて、身体に流れる血液が一気に引いたのが分かった。
何故なら侵入者の右手には、大きな刃を持つ鎌が握られていたからだ。
不穏なシルエットの威圧感は、凶器だった。
ぬらりと光る凶悪なそれ。
その尋常でない大きさと形状が本物なら、人間など一振りで真っ二つに引き裂かれてしまうだろう。
ユーレンは、自分の研究が反コーディネイター団体の標的にされている事を知っていた。
――ついにここへ来たのか。
「貴様、ブ、ブルーコスモスか……ッ?!」
動転した男の呻きにも、返事はない。
だが、返事がないと言う事が肯定なのだと思い込み、男は死を覚悟しなければならなかった。
どうにかしようと思うのに、身体が動かない。
心臓と脳とが危険だと訴えるのが、遠い世界の他人事のようだった。
男――ユーレン・ヒビキ自身は現実感が薄く、おかしな夢を見ているようでもあった。
黒づくめの異様さはあるが、目の前のほっそりしたシルエットからは、不思議と殺意が感じられなかったからだ。
恐怖に怯えて爆発しそうな心臓の音を他人ごとのように感じながら、ユーレンは何度も首を横に振った。
――何かがおかしい。
目の前の人影がブルーコスモスならば、何故こんな奇妙な出で立ちだろうか?
彼らは、銃やナイフや爆弾を使う。
こんな大鎌は聞いた事がない。
凶器を持っているとは言え、動きやすいとは思えぬ黒マントは、一般に知られるテロリストの姿からは、大きくかけ離れていた。
それどころか、笑えない冗談のようだ。
テロリストと言うよりもむしろ――目の前にいるのは、もっと根本的に異質なもの。
テロリスト特有の怒りや満たされない暴力とは対極にある、不条理の結晶。
人の力ではどうしようもないものを、淡々と当たり前のように運んでくる『不文律』のような大きな力を持つものではないか。
そんな得体の知れない恐怖が、ユーレンを震え上がらせずにはいられなかった。
長い柄の先についた、蒼白く光る三日月型の大きな刃。
独特な形状の大鎌を持つ者については、昔話に聞いた事がある。
実物を一度も目にしたことはなくとも、きっと誰もがひと目で理解するだろう。
それは、人の命を刈りとると言われる禍々しいもの。
タロットカードで見たことのある、Death Scythe――デスサイズそのもの。
こんな武器を使う者が『アレ』以外の他に存在するだろうか?
身体が強張るのは、疲れているせいだけではない。
体中の毛穴が恐怖に煽られ心もとなく開いて、そこから体温も力も抜け出して行っているのだ。
恐ろしいと身体が怯える――それは、どうしようもない本能的な震え。
目の前にいる者が、この世のものではないと悟るまでに、そう多くの時間はかからなかった。
だが同時に研究者であるユーレン・ヒビキは、そんな馬鹿な事などないとも思っていた。
何故なら、思い描いた『アレ』は民話や作り話の中だけの抽象的な存在のはずで、科学文明の発達した現代では、ただの御伽噺のようなものだ。
――こ、こんな馬鹿な話、聞いた事がない……ッ。
しかし、ユーレンの目の前に在るものを説明するには、それしか思い浮かばない。
図らずも、畏怖を伴う圧倒的な原始本能が囁くのだ――ただ一言『ひれ伏せ』と。
顔も見えない簡素な黒マントに、屈服して許しを請うように、ユーレンの身体は強張ったまま平伏する。
顔も上げられず、ただ不条理なまでに震えるしかない。
人は、自分の想像を越えたものと遭遇した時、あまりにも無力だった。
あの通常考えられない質量を持つ大鎌を携えてここに来たと言う事は、無論、それを使うためだろう。
黒マントは、運命によりユーレンを殺しに来たのだ。
その事実を悟ったとき、鉛を飲んだように胃が重くなり、ユーレンは息を詰まらせた。
――逃れられない。
足が床に縫いとめられたように、動けないのだ。
それは、自分のしてきた所業に気付いて、急に恐ろしくなったからだろうか。
――否、あれは必要な研究だったのだ!
言い聞かせても、体の奥底から『許されない』と言う声がした。
誰でもない、ユーレン自身の声だった。
身体の自由が利かないことにパニックに陥る。
生まれ出る命に、ユーレンが遺伝子操作を施し続けてきた事。
間違ってはいない人類の進歩のためだと、何度も誇っていた研究だった。
だが人の進化のためとはいえ、人の命を無残に奪うことになったのは、事実に他ならない。
生まれてくる子供に、親にとって都合の良い能力を付加することに、どれだけの意味があったのだろうか。
コーディネイターでなくても、生まれてくれば幸せな日もあるだろう。
だが、スーパーコーディネイターが欲しかったユーレンにとって、それ以外はゴミ同然で、欲しい結果でなければ破棄処分を躊躇わなかった。
――仕方ないじゃないか……私は研究者だッ!
ガクガクと震える両手で頭を掻き毟り、ユーレンは取り乱した。
いっそ狂ってしまいたかったかもしれない。
 

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ミルキラ 夏休みの最後の日

 

「……冗談だろ?」
聞き間違いかと思った。
だから、もう一度問い直したのだが、目の前のクラスメイトは、そっと目を逸らした。
さっきまで元気に微笑んでいた顔に、一瞬だけヤバイと書いてあった。
逃げようとするから、アスランは反射的に後ろから首根っこを掴まえて、もう一度訊いた。
正直、まだ事態が把握出来ていなかった。
「ちょっとキラの言ってる意味が分かんないんだけど……データが飛んだにしてもバックアップくらい取ってあるだろ?」
返事は無言。
アスランの問いに、目の前のお子様はオモチャのように首を横に振るだけだ。
幼年学校の頃から一緒のクラスメイトは、アスランの理解の範疇を超えることがとても多い。
小さくて可愛いので世話を焼いてしまうのだが、あまり煩くしても良くないので、最近はやりすぎないように気をつけていたつもりだった。
けれど、そのやり方を間違っただろうか?
困ったように俯く細い首を見ていると、何故だか理由もなく憐憫の情に駆られて、自分の落ち度を考えてしまう。
「キラが困っているんだったら、データのサルベージくらいなら手伝うけど」
このときアスランは、ほとんど完成したデータを想定していた。
そのサルベージをキラが出来ないとは思わなかったが、何か問題があるのなら、アスランにも力を貸すことは出来る。
反省を込めて譲歩したのが功を奏したのか、ついに躊躇いがちだった花びらのような唇が開いた。
「だってきらね。データっていうか……まだやってないもん」
「……やってない?」
復唱しながら固まった。
アスランは学年トップだが、目の前のお子様の言葉が理解できない。
「うんそうなの。まだなの」
そんなこともかまわず、答える声は小さいがよどみない。
そして悪びれもせずに見上げる、澄んだすみれ色の瞳。
その、あまりの純粋さと透明感は一片の瑕疵もなく、アスランのほうが面食らう。
――やっていない、ぜんぜんって……? どういうこと?
アスランには想像がつかない。
「……課題、貰ったのは夏休み前だよね?」
「うん、そだね」
固まるアスランに、邪気の一切のない微笑みが答えた。
つじつまの合わない夢を見ているよう。
だが瞬きをしても、目は覚めない。
まぎれもなく、これは現実で、目の前のお子様は、やっていないと言ったのだ。
「ちょっとキラ……冗談だろ?」
えへへと笑うキラにアスランも笑おうとした。
思い切り笑い飛ばそうとしたが、そう出来ない。
その不快感を自覚して初めて、やっとアスランは事の重大さに気がついた。
「ぜんぜんやってなかったら……」
急に心臓が早く打ち出したのは、残暑の暑さのせいだけではないはずだった。
あまりの衝撃に、アスランは自分の膝から力が抜けていき、急速に世界が遠ざかるのが分かった。
この心もとなく途方に暮れる感覚は、用意周到なアスラン個人ではなかなか経験することはないものだっただろう。
――冗談ではないっ!!
アスランは叫びそうになる。
まさに冗談で済まない一大事が、一気に目の前で展開していた。
「何やってるんだよ、キラ! いったい今日が何日だか分かってるのか?!」
「えと、さんじゅういちにち? さんじゅうににち?」
小鳥の囀りのような可愛らしい声で小首を傾げられ、アスランは近くの木の幹を殴りたくなってくる。
「今日で夏休みは終わりなのに、課題が出来上がってなくてどうするんだよ?!」
想像すると、アスランのほうが蒼くならずにはいられない。
事の重大さに気づいていないのか、暢気なクラスメイトに眩暈がする。
少なくとも、マイクロユニット以外は出来上がっているかと思っていたアスランは、甘すぎた。
「……少しは慌てろよ! 夏休みは終わりなんだぞ?! 課題やってなくて、どうするんだよ?」
「大丈夫だよ。そんなことより、早くチョウチョ掴まえに行かないと、せっかく見つけたのに逃げちゃうよ?」
何かと危機感が欠如しているのは、アスランが甘やかしすぎたからだろうか。
「あのね。そんなことよりじゃなくて、ねえキラ。現実見なよ。この時点で課題より大事なことなんかないだろ? ほら行くよ」
事態を把握すると、即アスランは限界に達した。
争う一瞬が惜しい。
握り締めていたコブシを開いて、目の前の虫取り網を握る細い手首を強引に掴んだ。
「ちょっと引っ張ったら痛いよ、アスラン」
「ほら、急いで行くよ」
グイと引くとアスランよりも小さな身体は、簡単に動いた。
「え? 行くって、どこ?」
「キラの家」
「なんで? 今日はちょうちょ捕まえるって約束なのに!」
可愛い顔が悲しげに曇る。
だから、どうしてそんなに暢気にしていられるんだと、アスランは問い質したい。
「そんな場合か、馬鹿!」
キラは確かに可愛いとは思うが、こんなときは可愛いだけに腹立たしい。
とうとう怒鳴りつけて、アスランは振り返ることなく走り出す。
ある意味、振り返ったら負けだと知っているから振り向けない。
きっと下唇を噛んで、今にも泣き出しそうな顔をしているのは想像がついた。
美少女顔負けなそれは卑怯なほど可憐で、アスランと同学年とは思えないほど稚く見えるのだ。
「あすらん、そんなに引っ張ったら手がイタイよ」
「文句が言える立場じゃないだろ」
幼年学校の頃から毎日のように通った友人宅。
この夏休みも、ここで何度も遊んだ。
遊ぶばかりではなく、勉強もしたはずだ。
課題の話はしていたし、口頭ではあるが経過を確認してみたりもしていた。
なのに、何故に白紙なのだ?!
『夏休みの課題』が白紙。
それはアスランには考え付けないことで、想像しただけで眩暈がしそうになる。
無邪気な微笑みに、まんまと騙されてしまっていた自分をアスランは呪いたい。

「レポートは仕方ないから写させるとして、ネックは絵3枚と読書感想文か」
絵はキラに描かせるとして、自分は読書感想文を片付けたほうがいいだろう――と、アスランの頭の中はフル回転で段取りを立てていく。
だが、机に向かうアスランの隣で、餌を待つ小鳥のようにキラが見上げてきた。
「あすらん、絵も読書感想文も自由提出だったよ?」
「え?」
真剣なアスランに、しれっとキラが言う。
だからしなくてもいいんだと、しないことを前提にしているキラに、アスランはポカンと口を開いた。
「あと、マイクロユニットの提出も、見せびらかしたいくらいカッコイイのが出来た人だけでしょ? だったら、きらは無理だもん」
だからしないと、あっけらかんとキラは言う。



とりあえずここまで
明日っていうか、できたら今日あぷする

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ダブルシークレット12

どうせなら、ちゃんと「サヨナラ」と言って欲しかった。
だったら、今みたいに泣かずにすんだかもしれないし、お別れだって言えただろう。
けれど、きっと猫耳には、そんな価値すらないのだろうか。
後ろ向きな事ばかりを考えて、自虐に浸っていても仕方ないが、ちっぽけなキラには、きっとそんな権利すら与えてもらえないのだろう。
だから何も教えて貰えず、要らないと言われれば他所にやられるしかない。
一方的に、それを受け入れられるほど、まだキラは強くなれない。
アスランに拾って貰ってからずっと幸せ過ぎていたから、聞きわけがなくなってしまったのかもしれない。
以前は、何も望む事などなく、望む事すら知らなかった。
でもザラ家に来てから、溢れるほどたくさん、色んなものを与えて貰っていた。
でも同時にそれは、ザラ家にとってリスクの大きいことだと知っている。
それでも敢えて置いて貰えたことは、感謝してはいるのだが、助けて貰ったのに酷いことをされているような、恩知らずな事を考えてしまう。
――イイコになるから、キラのこと仲間ハズレにしないで。
きっと、ヒドイ顔をしていると思ったが、幸い背後のアスランから顔を見られることはない。
背中に触れるアスランの胸。
触れている場所は温かいのに、居心地が悪くて苦しくなる。
アスランは優しいけど、キラの権利など認めてくれない人。
何も知らない猫耳のキラを馬鹿にして、きっと見くびっているのだ。
嫌いになってしまいたいのに、どうしてこんなに離れたくないのだろう?
――困らせたくないし、笑っていて欲しいのに、ダメだなあ。
考える事に疲れ果てて、キラは何も考えない事にした。
その方が、イイコでいられる。
アスランを安心させられる。
「キラのマスターのおうちの灯りは、どのへんなの?」
話を逸らしたくて元気な声で訊いたとき、背後のアスランの吐息がキラの頭にかかった。
「残念だけど、ラクスの家はここからは見えないんだ」
「え?」
キラは大きな目を瞠った。
意味が分からなかったのだ。
「彼女の家はアプリリウス市にあるから、別ブロックになるんだよ」
そう言いながら、エレカのナビモニタに地図を出して説明をしてくれた。
プラントのコロニーの成り立ちすら、キラは知らなかったし、知ろうとしなかった。
知っているのは、ザラ家の敷地内の、それも一部だろう。
それで事足りていたから、プラントについて調べることなど、思い付きもしなかった。
今になってみると、残念でならない。
もっと為になることを、覚えておけばよかった。
これから連れて行かれるところは、思った以上に遠いのだと初めて知った。
「そういえば、地球の地理は教えた事があるけど、プラントは教えてなかったね」
耳元に響くアスランの声に悪意がないだけ、キラは悲しい。
「ううん……どうせキラ、すぐに飽きて寝ちゃうし」
「そんなことないだろ。ずいぶん熱心だとアデスから聞いている。その事も考えの足りなかった俺のせいだ」
アレックスと入れ替わることはあるが、基本的に不在の多いアスランとキラの接触は、あまり多くはない。
そのうえ一緒にいるときの話題は、マスターについての話――結局はザラ家から出て行くべきだという話になってしまうことが多かった。
マスターであるラクス・クラインが、どんなに大事に育ててくれていたのか、だとか。今も心配して心を痛めているとか――確かに大切なことではあるのだろうが、キラはどうしていいか分からなくなってしまう。
アスランは正しくて、教えてくれる事は、すべて本当だと言う事も知っていた。
キラの身体の心配もしてくれるし、気にかけてくれる。
けれど、キラは皆と一緒にいたいのに、やんわりとマスターの元へもどるよう説得を続けているのだと思うと、胸が塞ぐのだ。
アスランはマスターの味方であって、キラの味方ではない。
それは、仕方のないことだ。
「地図は自分で読み出せるからヘイキ。本当に、今まで興味がなかっただけだから、きっともっとプラントにも詳しくなるよ」
「じゃあ、何か教材があるといいけど」
アスランはモニタの画面を切り替えた。
すると、しっとりした音楽が流れて、モニタの中でピンク色の髪の少女がゆっくりと顔をあげ――そして歌い始めたところだった。
光と花と、そして青空にはラクス・クラインという装飾文字の字幕。
白いドレスの少女が祈りを捧げるように歌う姿は、絵本の中の女神さまのよう。
とても懐かしい声を聴いた気がした。
――このひと……ラクスって……。
固まったキラが唇を開く間もなかった。
アスランはタッチパネルを突くようにして、画面をニュースに切り替えた。
きっと全くの無意識だったのだろう。
アスラン自身も自分がしたことに驚いたようで、画面で手が固まったままだった。
「……悪い」
戸惑い、呆然とした声。
顔が見えなくとも、キラの狭い視界からでも、アスランが焦っているのが分かる。
ラクス・クラインという名前は、マスターの名前だと教えて貰っていた。
モニタ画面は一瞬だけでハッキリしないはずなのに、それがマスターだと気付いたのは、歌声を聴いたからなのだろうか?
吃驚してしまったのが悪いことのような気がして、取り繕いたかったが、振り向いてアスランを見上げる事すら出来そうにない。
やけに明るい声で読みあげられる気象プログラムが、返って気まずい。
まだ戸惑うようなアスランの指先がパネルの上を動いたとき、思わずキラはその白い手をギュッと握りしめて止めてしまっていた。
アスランの指先が驚いていた。
無意識だったので、キラはもっと驚いていた。
アスランの手が、やけに冷たかった。
「あ、あの……」
慌てていたせいで、何が言いたいのかキラ自身にも分かっていなかった。
――何か言わなくちゃ、何か。
何か言わなければ困らせる。
すでに気象プログラムの読み上げは終わり、ディセンベル市にオープンした植物園の特集番組に移っていた。
「この植物園、ここ見たいから、あの……だから、このままにして欲しい」
緊張のあまり、窒息してしまいそうだった。
けれど、キラの背後から困ったような溜息が漏れた。
そういえば、屋敷の外に出るなと厳命されていたのを思い出して、キラは余計に焦った。
「あ、あの、あのね。ここに行きたいわけじゃなくて、今だけ、モニタで見るだけでいいから」
「――そうじゃなくて……」
抱きしめる腕がギュッと強くなり、身体で包みこむようにアスランに抱きしめられていた。
そして耳元でゴメンと囁くような声がして、キラは震えた。
――どうしよう。
アスランが、もう一度、あのピンクの女神さまを出してくれようとしたのだと分かっていたのに、遮ったのはキラだ。
けれど、キラは見たくなかったのだ。
自分のマスターを知れば知るほど、アスランやみんなが遠くなる気がして、心もとなくてたまらなくなるから。
今までラクス・クラインの元へ戻るように説得されてはいたが、画像一枚、見せて貰ったことなどなかった。
こんなにアスランが慌てなかったら、彼女がマスターだとは気付けなかったかもしれない、いや、気付かない振りだって出来ただろう。
実際、一瞬だったせいか、もう髪がピンク色だっただけで、顔も忘れてしまった。
今からマスターの元へ送り届けられるのだとしても、少しの時間でも考えたくはないと思ってしまった、それだけだ。
「……ダメだな、俺は。本当に自分が嫌になる」
アスランの声と当時に抱きしめられた腕が緩んで、思わずキラは振り向いてしまった。
パーキングエリアのオレンジの光に縁取られたアスランは、目を伏せて額を押さえていた。
疲労が深いのは一目瞭然で、考えてみれば、アスランは長期任務から戻ったばかりで、いつもなら部屋にこもっているはずだった。
それなのに、キラを送り届けてくれようとしているのだ。
「あの……ワガママ言ってごめんなさい」
「キラは悪くないだろ」
「だって……さいごなのに」
最後と言う言葉が、辛くて声が潰れる。
「最後って……」
何故だか意味が分かっていないアスランを、キラは残酷だと思った。
皆でマスターの元へ返すのだと決めたのではないのだろうか。
「だって、キラ、捨てるられるんでしょ……」
「捨てるって……どうして?」
長く息を吐いたアスランが額を押さえたまま頭を垂れた。
ふわりとした髪が白い頬にかかって、ぎゅっと寄せられた眉根に苦悩が滲んでいた。
こんなに苦しめていたのだと、キラは思った。
「だって。キラがいたら迷惑なの、分かってるから、だから」
「誰が迷惑って言ったの?」
目の前の怖い人に指をさしたかったが、怖くて無理だった。
確かにアスランは迷惑だとは言っていないし、誰も言ってはいない。
「でも、だって」
顔をあげたアスランの静かな双眸で見つめられて、キラは、くしゃりと顔を歪めた。
端正な容貌は変わらないが、明らかにアスランが怒っていたからだ。
先ほど泣いたので、もう泣かないと決めたのに、やはり無理だった。
嫌われると思うと、胸が潰れてしまう。
「だって、キラのせいで、みんなケンカになっちゃうのはいや」
「……皆って、昼間のこと?」
泣いて答えられないキラの様子を肯定と捉えたアスランは、再び頭を抱えた。
「俺の部屋での話を聴いて……キラは今、自分がラクスの元へ戻されようとしているんだと思っているっていうこと?」
疑う余地もない気がして怖々とコックリ頷くと、アスランはシートに沈んだ。
ひどいダメージを受けたボクサーのようだった。
「確かに俺が悪い。悪いんだけど……なんで俺ばかりこんな役回りなんだよ……」
ブツブツ言いながら眉間に深い皺を刻んでいて、キラは自分が言いすぎたのだと思いこんだ。
「あ、あの、アスランは何も悪くなくて、たぶん、マスターの元へ戻ったほうが、みんなのためにいいって分かってるから、だからキラは」
上手く言えない。
だが、幸せだったのだからお礼を言いたいと、キラは心から思った。
ちゃんと『拾ってくれてありがとう』と伝えたかったが、今、何でもない振りは難しすぎた。
――なるべくイイコにしたかったのに、だめすぎる。
どうしようもなく、空気が重く圧し掛かる。
しばらく黙りこんでいたが、またひとつ、腹立たしげに大きな溜息をついたアスランは、まっすぐにキラを見下ろしていた。
「俺はただ、キラに夜景を見せたくて――それだけだ」
「……え?」
ドライバーズシートのアスランの膝の上で、思わずキラは身を引いていた。
その小さな背中に、宝石のような夜景が広がっている。
「夜景って、ビューポイントっていうのと同じ?」
ポカンとしたまま、キラはアスランを見上げた。
それを引き寄せられてギュッと抱きしめられたとき、吃驚して涙が引っ込んだ。
夜景だとか見せるだとか、連結しない単語が踊っている。
一体、何がどうなったのだか、まだ理解出来なかった。
だが、抱きしめられた腕が強くて、ずっとこの中にいたいと願った。
けれど、それは口に出してはいけないことだ。
「急だったからアレックスみたいに気のきいた誕生日プレゼントも用意出来ないし、シンみたいなことも出来そうになくて、だからせめてこんな事しか思い付けなかんたんだけど、まさか捨てるとかって……どうしてそうなる」
咎めるようにさらにギュッと力を込めて抱きしめられて、キラは慌てた。
正しい答えが分からない。
「だってキラは、マスターがデータで、みんなが困るから、返そうってみんなで決定したんじゃないの?」
意味を理解していないキラは、思いきり支離滅裂だったが、それはさらにアスランを落ち込ませていた。
実際のところ、何が問題でシンが怒っていたのか、キラには全くわかっていなかったのだ。
――そもそも、誕生日って……。
キラには訳が分からない。
ようやく説明の必要性について気付いたアスランは、難しい病名を告げる医者のようにキラを見つめて口を開いた。
「俺たちも知らなかったんだけど、5月18日がキラの誕生日――つまり生まれた日で、本来ならば皆でお祝いする日だったんだ。昼間は三人でそのことの確認をしていただけだ」
確認だという雰囲気ではなかったような気がしたが、キラにとって重要なことは、それではなかった。
「えと、じゃあ、捨てなくていいの?」
「だから、なんでそんなこと思うの?」
明らかに機嫌が悪くて、キラは怯んでしまう。
無用に怯えさせてしまい、はあと溜息をついたアスランは、頭痛を堪えるような困った顔で、先ほどシンが手渡したバスケットを後ろから取り出して助手席に乗せた。
クリームの甘い香りが、ふわりと漂ったが、今のキラにはどうでもよかった。
「意味、分かっているかな? 一般的に、誕生日にはケーキを食べてお祝いをする。キラの具合が悪くなければ、近くの別宅でそうしようと思って、これは用意させたものだ。それでも信じられない?」
「そ、そうなんだ」
ケーキはマスターへの手土産だと思っていたキラは、やっと自分の思い違いに気付いて、身体の力が抜けた。
「よかったぁ……」
ぐったりして笑うその様子から、キラの思い違いを正確に推察したアスランは天を仰いだ。
「信用がないのも無理はないけど、これほどとは」
「……ごめんなさい」
「いや、普段俺がラクスの元へ戻るように言っていたのは事実だから仕方ないのだけど――でも……今日はもう……ま、いいか」
キラにとって、誕生日よりもザラ家から出ることのほうが重大なことだというのを目の当たりにして、アスランは良心の呵責に苛まれながらも、唇が緩むのをとめられない。
「とりあえず誕生日プレゼントに希望するものがあったら用意するから」
「誕生日とかよりも、キラはずっとこのままがいい」
「そうじゃなくて、ちゃんと誕生日の意味分かってる?」
「ケーキが、お祝いをする?」
「いや、あのね」
少し慌てているアスランが面白くて、キラは笑ってしまう。
まるで本当に「ずっとこのままでいいよ」と、言って貰っているような気がしたのだ。
意味を理解しそうにないキラが、べったりと抱きつくと、アスランが、急にクスクスと笑い出した。
――アスランが笑ってる。
キラは自分が夢をみているのだと思った。
実際、安心したせいか急速に襲ってきた眠気に抗えなくなくなっていたのだ。
子猫の規則的な寝息は、強力な睡眠薬より効果的で、すでにかなりの疲労が蓄積していたアスランは、ひとたまりもなかった。
一瞬、気が緩んだのがいけない。
「あったかいな、キラは」
眠そうなアスランの声が遠くなり、それが寝息に変わるまでは、それからほんの数秒だった。
 
おしまい

とりあえずあぷ

あ、このあと不機嫌なシンがバイクで回収にきて、フロントガラスコンコンってされても
ねむりこけてるアスランとキラなのでした。

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ダブルシークレット10

何故なら、自分のことで精一杯で頭がパンクしそうだったのだ。
――意気地がないって言われた。
他の誰でもないシンの口から言い放たれた。
いつもからかわれているし、意気地のないのも本当のことだったが、考えすぎて萎縮しきっているキラの心は、崖から突き落とされたようなショックを受けていた。
――だって、みんなキラがいなくなったほうが幸せなんだもん。
分かってはいても、簡単に折り合いを付けられるほど、人生経験を積んでいない。
「キラは大丈夫だよな?」
兄のような口調で簡単にシンが言う。
頷くよりも顔が見たくて見上げると、そんな涙目のキラを見て、シンは吹き出した。
「なんだよ、その顔! 相変わらずガキだなあ」
上着の袖で涙を拭いてくれながら、安心したみたいに笑っている。
その瞳の中に宿る、揺るがない強さが眩しすぎて、キラは俯いてしまう。
シンの笑顔が淋しくて淋しくて仕方なくなるのは、お別れの前だからだ。
「いつまで拗ねてるんだよ、ガキだなあ」
呆れたような嬉しそうな声は、シンが上機嫌な証だった。
返事をしなくちゃいけなかったのに、上手く出来ない。
どうしても平気になれなかったからだ。
「さて、俺は本当にもう行きますよ。アスランさんはキラとエレカで待っておいてください」
腰を上げてそれだけ言い残すと、飛ぶように闇に消えて闇に紛れ、気付けば後方の茂みの奥にいる。
ちょうど厨房のある辺りだ。
厨房の裏口のドアが開いたままだったせいか、夕食の良い匂いが漂ってきて、余計にキラを泣かせた。
いつも作って貰っていた美味しいゴハンやお菓子とも、もうお別れしなくちゃならない。
「だいじょうぶか? シンは、ああ言っているけど無理することはないから」
アスランの言う、何が無理なのか分からない。
アスランがキラをマスターの元へ戻したくて、みんなと喧嘩をしていたのをキラは知っている。
だから、三人一致で戻すことに決まったのではないのだろうか。
アレックスもシンも、それがいいと同意したのだろう。
そうすれば、三人とも喧嘩をすることなどなくなる。
こんな風に、要らない物のように戻されるのは悲しい。
いっそのこと、心配などしないでくれたらいいのに。
「行った方がいいって、シンが言ってたから……だからヘイキ」
抱かれた腕のシャツを掴んで見上げると、少し考え込んだアスランは、ゆっくりと歩き出した。
ここへ来て、ずいぶん経つが、初めて通る通路だった。
アスランは何も喋らなかった。
そして道なりに進むと、敷地のはずれに濃いシールドの貼ってある流線形のエレカが停まっていた。
その助手席のシートにキラは降ろされた。
エレカに乗ったのは、まだ二度しかない。
そのうちの一度は、アスランに拾われたときで、意識が朦朧としていて覚えていない。
のこりは、シンに拾われる前で意識すらなかった。
あたりが暗いせいか、ひどく不安になった。
地獄へ連行する車なのかもしれない。
「嫌かもしれないけど、耳は隠したほうが無難だろうから我慢して」
アスランは、キラごと抱いていたブランケットをキラの頭に丁寧にかけて耳を覆うと、そのままそっと頬を撫でた。
「苦しくない?」
優しい眼差しと声が辛くなる。
宝石を包むように、大切に、アスランはキラに触れた。
そんなアスランに『必要とされない』ことが、悲しくてならない。
アスランは優しくて、悲しい瞳をしている。
キラでは一度も笑わせてあげる事が出来なかった。
「だいじょうぶ?」
何も言えないでいると、何度も頭を撫でられる。
せめて困らせたくなくて頷いていた顔をあげると、アスランの白い容貌が息のかかる距離にあって、キラは驚いて自分の身体をシートに押し付けた。
ちっぽけなキラを抱くように、長い腕が伸ばされる。
怯えているように見えたかもしれない。
自嘲的な唇の端が淋しげに見えて、胸が痛んだ。
キラは何か喋ろうとしたが、言葉が見つからない。
「そんなに怖がらなくても、何もしない」
溜息のような声がした。
だが、そのまま隙なくシートベルトを装着されると、もう逃れられない気がして喉が鳴った。
思い返せば、拾って貰ってから色んなことがあった。
屋敷の中は、温かくて美味しくて楽しい事ばかりだった。
お世話になった執事に挨拶をしたかったが、とても言い出せない。
静かに俯いていると、突然、エレカのフロントガラスがノックされた。
「アスランさん、これ」
暗闇の中、息を切らしたシンが助手席のドアを開けて、キラにバスケットを抱えさせた。
「しっかり持って、落とすなよ」
シンは晴れやかに微笑んだ。
バスケットからは、お菓子の甘い香りが漂ってきた。
今から行く、マスターへの、お土産なのかもしれない。
クリームとカスタードと苺の匂い。
もう食べられないと思うと、とても残念だった。
「アスランさん、帰りの時間を一応教えておいてください」
昼間、あんなに怒っていたとは思えない笑顔だった。
一瞬、助けに来てくれたのかと期待してしまった自分に気付いて、キラは唇を噛んだ。
アスランとシンが小声で何かを話している姿は、頭をくっつけんばかりに距離が近い。
――シンはアスランに必要とされていていいな。うらやましい。
黒い影が動いて、アスランがエレカの運転席へと滑りこんできた。
キラの横でコンコンと窓を叩く音と同時に電子音がし、パワーウィンドウが降りた。
「じゃあな」
シンが元気に手を振った。
その姿が遠ざかると同時に窓が閉まり、あっけなくシンは夜の闇に紛れて消えた。
あまりに急な別れだったが、スッキリしたシンの笑顔がキラの胸を締め付ける。
ここへ来る前に別れたときも、シンはあんなふうに笑っただろうか?
厄介者がいなくなって、よかったと思っただろうか。
それでも、今日までキラはシンに救われたのだ。
結局、ありがとうもサヨナラも言えなくて、キラは黙ったまま泣いていた。


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もう4月。
桜の季節ですね。早いなあ……。
トロトロしてばかりいないで、てきぱきこなしたいですヾ(o゚ω゚o)ノ゙

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ダブルシークレット8

初めに見えたのは、見覚えのあるベッドの天蓋。
初めてここへ来た時に見たのと同じ、眠っていたのはアスランのベッドだった。
まだ少しだけ、頭が重たい。
「気が付いた?」
静かな声がして顔をあげると、ベッドの柱にもたれて佇む、この部屋の持ち主の姿があった。
柔らかな白いシャツで腕を組んでいて、静かな眼差しで見下ろしていた。
「……えと」
前後関係が思い出せずに困ってしまったが、いつもアスランは何も教えてくれない。
こんな掴みどころのない眼差しに晒されると、居心地が悪くて、有る事ない事喋ってしまいそうになる。
プレッシャーで、胃が痛くなりそう。
本当は怒りたいのを、我慢しているのではないだろうか? 
迷惑に思っているのは、間違いないだろう。
それとも、興味がないのかもしれない。
何故なら、目の前にいるのにキレイな緑色の瞳は、いつもキラの知らないどこかを見つめている。
アレックスと同じ顔だからインパクトは薄いが、やはり違う。
二人の見分けが付かない皆が不思議なほど、キラには分かる。
この間帰って来たとき、『見分けが付かないからコツを教えてくれ』とパニクるシンに『アスランはピカピカのボンボンショコラだけど、アレックスはツヤツヤのザッハトルテっぽい』と説明したのだが、全く分かって貰えなくて、反対にキレられてしまった。
けれど本当は、もっと簡単に見分ける方法がある。
アレックスは作り笑いが上手だが、アスランは、ほとんど笑わない。
厳密にアスランが笑っている記憶がキラにはないのだ。
――楽しくないと笑えない。
アスランは、きっと楽しくないのだとキラは思う。
助けて貰ってばかりだし、優しいことも知っているが、その優しさは何故か掴みどころがなくて、ひどく心もとない。
アスランは優しいけれど、たぶんきっとひどく疲れていて、多分、隙のない見た目よりもずっと脆いのかもしれないと思ったことがある。
はらりと頬にかかる紺色の髪が、余計に顔色を悪くみせているのかもしれない。
眉間に皺が寄っていて、とても疲れているように見えてしまい、いつもキラは緊張してしまうのだ。
最近、また新たに何か困らせたり、ワルイコトをしただろうかと、毛布の下で思い巡らせかけて――コンマゼロで、その理由にヒットしてしまい、一気に目が覚めた。
――そういえば、窓から侵入したのに、どうしてベッドにいるんだろう?
「って……ぇ?」
瞬間、大きなスミレ色の瞳がピクンと見開かれた。
思わず悲鳴をあげかけた口を両手で押さえるのが精一杯。
確かアスランの部屋に忍びこんで、盗み聞きをしたのだった。
さらにそのまま眠りこんでしまってベッドを占領してしまっているのだとしたら、アスランが疲れてしまうのも納得する。
――叱られるかな……盗み聞きしたの、バレたかな。
嫌われるのが怖くて頭を抱えてみたが、いつまでもそうしていられるわけはないのは、ちゃんと知っていた。
シーツの影から盗み見たアスランからは、全く怒気は伺えなかった。
いつもと同じ、静かな、そして無欲な顔をして少し怖い。
「キラは、そこの床の上に倒れていたんだよ」
巣から落ちた小鳥を拾ったような調子で指差すと、アスランは、そのままキラの肩にポンと触れた。
軽く触れられただけなのに、ひどくビクつく自分をどうにかしたかったが、キラは何も出来ない。
「あ、あの」
とりあえず謝ろうとしたが、声が震えた。
「色々あると思うけど、あんまり無理しないように」
もう一度ポンポンと、あやすように叩かれて、逃げる事も避ける事も出来ずにキラは固まっていた。
ただ触れられた場所が温かくて、とても大切にしてくれている触れ方だと分かった。
こんな風に触れてくれるのに、アスランは遠い場所にいる。
拾って貰って置いてくれただけで感謝しているのに、それ以上を望む自分が、キラは嫌になる。
アスランは優しい。
みんな優しい。
でも、キラはひとりぼっちだ。
ギクシャクと身体を起こし、ベッドの上でペタンコ座りになると、純血の猫耳はひどく小さくて怖いほど。
この小さな存在に、プラントのコロニー数基分の価値があると言う。
そんな事など何も知らないキラは、華奢な身体で項垂れながら小さく息を吐き出した。
――アスラン、怒ってないのかな。
誰にも聞き取れないくらい小さな声で呟いてみたが、まだ顔をあげる勇気が出ない。
――でも、キラがここにいない方が、アスランは嬉しいんでしょ?
問えない言葉が頭をかすめるたびに、泣きそうになってしまう。
キラにはよく分からない。
本当の事は何も、誰も直接キラには伝えてくれないからだ。
そのまま、アスランは黙りこんだままで、キラは俯いたままだ。
「窓の外に踏み台が積んであったとアデスが言っていたけど、キラがしたんだよね?」
静かな問いに、キラはますます深く項垂れた。
「とりあえず、窓からはやめてくれ。怪我をされてはかなわないから」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい、かなりシンの声が響いていたらしいから……キラにも心配させたんだろうね。こっちの不注意で悪かった」 
困ったように目を伏せるアスランに申し訳なくて、キラはプルプルと首を横に振った。
アスランは何も悪くない――それはキラにも分かっていた。
けれど、キラにここにいて欲しくない。
それが、どうしようもないことなのも、ちゃんと分かっていた。
「それで……」
アスランは、一度口ごもった。
「それで、率直に聞くけど――キラは俺たちの話をどこまで聞いただろうか」
「え? ……あ」
あまりに直球すぎて思わず顔を上げてしまったキラは、慌てて俯いた。
頭が重くなって何も考えられなくなるほど、たくさん聴いてしまった。
それはみんな、キラが知らない方が良かった事なのかもしれない。
「怒らないから言ってごらん?」
問いかける感情のないエメラルドの瞳は、とてもキレイだけれど怖い。
「あ、あの……アスランが怒ってるとこまで……かな?」
どう答えていいか分からずに、キラはへらりと笑ってみせたが、怪訝な顔をされてビクリと固まった。
「俺は、あのとき怒った記憶がないんだけど」
「え? え? じゃ、じゃあ……シンくんが、えと、シンくんは怒ってたから……うん」
キラは必死に言い訳を探した。
緊張のせいか胸が音を立てて鳴って、顔が赤くなってしまい泣きたい。
「あは。……間違っちゃったのかな」
モゴモゴと口ごもり、すでに涙目になってしまった顔を隠したくて、焦って両手で猫耳を握ってしまった。
キラの猫耳。
本当は、これがついているから。
だから、みんなを困らせる。
みんなと同じになれない。
俯いたまま猫耳を握ると、ポツリとシーツに涙がこぼれて落ちた。
「……キラ? どうしたんだ」
慌てた声で無理やり顔を上げさせられそうになって、キラは身体を固くして俯いたが無駄だった。
力や体格が違い過ぎるのだ。
無理やりに仰向かされて、涙が飛び散った。
それなのに、また溢れた涙でアスランの顔が歪んで見えなかった。
叱られていないのに、どうして泣けてくるのか分からない。
緊張しすぎているのかもしれない。
「だいじょうぶ、ちょっと、なんか変なの」
笑おうとした次の瞬間、ぎゅうと抱きしめられて痛いほど胸に押し付けられた。
頭があげられない。
そして、そのままパサリと布に包まれて、目の前が真っ暗になった。
「しばらくの間じっとして、声を立てないでくれ」
簡潔なアスランの声とともにベッドのマットが遠くなり、ふわりと抱き上げられたのが分かった。
見えないそのまま、キラは前へ前へと進んでいく。
大きなアスランのストライドは、迷う事なく床を蹴って、空気が変わるのが分かった。
屋敷の突き当たりまで行き、外へ出たのだ。
――捨てられるのかもしれない。
キラは、抱き上げられた腕の中で身体を丸めて泣いていた。




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ここ数日、なんだかPCがヤバイ><
なんか、重くなって上手く動かないの。

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ダブルシークレット7

沈黙のあと、アスランの深い溜息が響いた。
「結局……俺は知らなきゃいけなかったことを蔑ろにしていたんだ。そればかりか、今回のこのデータを見て初めて、自分が何も知らないことを思い知った。それなのに分かったような顔をして、キラには普通の子みたいに接する事が大事だとか、まだ子供なんだから難しいことよりも伸び伸びさせておけばいいとか……何だか勝手な勘違いばかりしていた」
「ア、いや、もう別に、あの、そんなアンタを責めているわけじゃないし……っていうか、さっきはちょっと責めてみたけど、あれはつい、カッとなったっていうか」
あーもう! と、前髪を掻き毟るシンの声。
「だって、ねえ! アイツを捨てたことのある俺にアンタを責める資格なんて全くないし、アンタが転々としていた俺らのところまで辿り付いただけでも凄いと思ってる……でも! それはアンタがキラをずっと保護してくれるって前提の話ってだけだ。アンタがキラを一番に考えてくれているのも分かっているさ。でもキラを他所にやるって言うのなら、全部意味のない事だ。俺はキラを一度捨てたけど、アンタなら守ってやれるじゃないか。俺に出来ないそれに腹が立つってだけで、俺がアンタみより力があったらいいわけだから……アンタが悪いわけじゃないってことで。あー、もう! 黙ってないでアレックスさんも何か言ってくださいよ。こっちまで頭がグルグルしてきた」
「いや、俺もグルグルしているし。ここへ来る前のキラに関しては、俺は内向き担当だから詳しく知らないし、ラクスから相談されて動いていたのもアスランで、現在進行形で彼女から相談されているくらいだから、細かい事は任せるしかないっていうか……」
「わー、もう! 俺ら全員グルグルしていて使い物にならないじゃないですか?! ちょっとそれ、貸してください」
奇声をあげるシンの息遣いが荒いに、アスランのぐったりした声が重なった。
「なんていうか、今頃気付くのも申し訳ないが、時々ラクスは口頭で捜査状況の報告はしてくれるのだけど、『こういう細かいキラのパーソナル情報』は全く話してくれたことがなかった。それに口出しするのも不躾だと思っていたから、興味があるそぶりをするのも何だかいけない事のようで……でも、今にして思えば俺は意地を張っていたのかもしれないけれど」
アスランの『パーソナル情報』という声をバックに、ページを捲るような紙の擦れる音が続いた。
そして、さらに幾ばくかの沈黙と、それぞれの深い溜息。
「えーと……アスランさん。これって、アンタが深刻になるほど大事な事なんて何も書いてないじゃないですか。身長、体重は、今よりもちっこいなあってくらいで。キラの資料とか言うくせに、肝心の本人の写真の添付もないし、好きな食べ物嫌いな食べ物とかいう項目、これ本当に必要なんですか? この必須事項にある昼寝に必要な時間だとか、寝間着の推奨生地とかいうのは何ですか? まるで稀少動物の飼育マニュアルみたいですが……っていうか、こっちの後ろの方にさりげなく遺伝子情報があるんですけど、本当はこれが一番重要なんでしょ? なんで一番大事なことが、こんなゾンザイな扱いなわけ? アイツ、本当に大事にされてたんですか?」
憤慨するシンに反して、アスランの声は重い。
「多分ラクスは、キラが自分の元へ戻らないのは、犯人がキラを隠しているのだと確信しているのだと思う。だから一見、無駄なような項目は、囲われているキラが、少しでも快適に暮らせるようにという配慮じゃないだろうか。一見、どうでもいいことのように見えるが、彼女でなければ知り得ることの出来ない、キラにとって大切なことばかりだと思う。俺はそのどれも配慮してやっていない」
「……いや、知らなかったんだから、それは仕方ないんじゃ」
モゴモゴとシンの小さな声が、アスランの声にかき消される。
「何度もチャンスはあったんだから、直接本人に聞けばよかったようなものだと思うかもしれないが、不用意に知れば知るだけキラを彼女の元へ戻さなければならなくなるような気がしたし、多分自分のルールでキラを立派に育てているんだという優越感みたいなものに浸っていたんじゃないだろうか。実際に俺はキラがどれだけ淋しがっていたのかも知らない。この中では一番先に出会っていて、ラクスに捜索を頼まれもいるのに、キラのそばにいてやった時間は、シンよりもアレックスよりも少ない。俺はキラを閉じ込めることしかしていない。それはキラにとって良いことではないって、その報告書を見て思い知ったんだ」
「キラを閉じ込めるだけなのは、俺たちだって同じだ」
「そ、そうですよ! 閉じ込めておかなきゃ猫耳がフラフラ外を歩いていたらどうなるか、アンタだって分からないわけじゃないでしょう? ていうか、それ以前に、あの警戒心のないバカを閉じ込めないでどうするんですか。何も分かっていないガキなんだから危ないんですよ。っていうか、ところでアイツ、本当はいくつなの? 報告書っていからには生年月日くらい載ってるはず……と」
声に続いてカサリと紙が擦れる音がしたかと思うと、シーンと部屋が静まり返った。
今まで陽気だったシンの声がなくなると、物音もなくなり、隣の部屋で固まっていたキラは、そっとドアを振り返った。
――もう終わったのかな? みんな、落ち着いたみたい。
はあと息を吐き出した。
ここに何をしにきたのか、すでに完全に忘れていた。
キラの頭はグラグラしていた。
もう本当に撤退しようと、入ってきた窓へと向かおうとしたとき、突然弾けるような笑い声がした。シンだった。
「なーんだ、コレ偽物ですよ! あは、俺たち、何マジになってんの? バカらしー」
やけに明るい声だった。
だが、空気はしらーとしたまま、それに応える返事も笑い声もない。
「まさか、コレを信じたんですか? やだなあ、二人揃って。ちょっと考えたら、こんのあるはずないじゃないですか。決定的な偽情報の証拠ですよ、だいたい生まれた年を間違っているところからして別人でしょう? よくいるんですよね。こういう早とちりする奴って」
「それは、ラクスが直々に関係機関に送っているし、様式も正式なものだ」
「えっと? アスランさん、何いってんの? だってこれ、どう見たってオカシイでしょ? ……って、まさかアンタら、これ本気で信じたんですか? もしこれが本当だったら――アンタらと同じってことですよ?」
「いや、俺達は十月だから、それより五カ月早いってことになるな」
ぼそりと聴こえた声は、キラには双子のどちらのものか分からなかった。だが、うろたえているのは明らかにシンだ。
「いや、だから、オカシイでしょ? アリエナイでしょ?なんで二人して、まるっと信じてんですか? アレックスさん、アンタ、いつもはもっと冷静でしょ?! アスランさん、何、暗くになっているんですか。これ絶対にオカシイですって! 何で、こんなガセ情報にショックを受けてるんですか、ねえ?」
シンの声だけが虚しく響くが、キラには内容が把握出来ない。
――お仕事の話なのかな?
「だから、この報告書が本物のわけないじゃないですか」
弾き飛ばすように自信満々で笑うシンの声がするのに、部屋に漂う緊張感は緩む事はない。
「シン……日付は間違いではないと、思う。朧げではあるが、なんとなく聞いた覚えもある、それから――キラにはまだ」
「あー、いいですって!」
重い口調のアスランに反して、遮るシンはそれを全く取り合う様子はない。
「そのことはこっちに戻ってからすぐに、オタクの執事さんから五月十八日のことは一通り聞いたんですけど、何か説明が面倒だったから、キラには教えなかったんですよ。ホント、ガセ情報を信じて安易に説明しなくてよかったですよ。それじゃなくても『ナゼナニ』煩いのに、下手に教えてたら撤回も面倒ですし。でもまあ、一応聞いたからには、とりあえず俺は、その辺の菓子で機嫌をとっておきましたよ。あと、髪も洗ってやったし、一緒にゲームもしてやったし――って言っても、いつもと同じだから何も気付いてないでしょうけどね。まあ、本人はおろか、こっちも何も知らなかったから、多少は思うところもあったんですが、なんて言うか……ホント、この報告書はないですって! 今月ピンチだから、本物だったら、もう少し良い物を買ってやらなくちゃとか、後ろめたかったからホッとしましたよ」
シンが溜息をついたそのあと、再び沈黙が続いていたが。
「――そんな顔で睨むなよ。言いたいことがあるなら、ハッキリ言えばいいだろ」
不機嫌を押し隠すような声色は、アレックスだった。
ということは、同じく黙りこんでいたアスランも同じなのだろう。
というか、あの部屋の中に不機嫌じゃない人はいない。
「おまえ、いつもそうやって黙ったまま人を動かそうとするよな。悪い癖だ」
突き放すようなアレックスの声が、キラの近くのドアに向かって響いた。
「別に……俺は何も言っていないだろ? 勝手な言いがかりをつけるな」
憮然としたアスランの返答にチッという舌打ち。
「まあいい。こっちを守ってた義務だから教えてやるよ。……俺は一週間ほど前、アデスからその報告書を貰ってすぐに、プレゼントってわけじゃないが、『その辺にあった』ヒヤシンスの水栽培セットを渡しておいたかな」
「へえ、さすがアレックスさんだな。それってキラの部屋の窓にあったあれでしょ? なんか、すごく大事にしているみたいで昨日の夜、見せてくれましたよ」
シンの言葉を聴き、まんざらでもなさそうにアレックスが喉で笑ったようだった。
「五月はデザートに毎日ケーキを食べさせていたから、十八日も確実に食べさせてるはずだ、きっと」
「やだなあ、アレックスさんでもあんなのを信じたんですね? でも、冷静に考えて変だって気付いていたんでしょ?」
「いや、シン……それとこれとはちょっと」
「いい加減にしろ」
口ごもるアレックスを遮るように、ドンと大きな音がした。机を叩いたのかもしれない。
「この報告書は本物だ。書いてある内容も正真正銘の事実で、ちゃんとラクスの署名もある。それが何よりの証拠だ」
「そんな怒らなくても、っていうか、正真正銘って言われても、とにかくそんなわけないですって! だって、あんなチビで菓子のオマケで狂喜乱舞するオコサマですよ? ナイナイ」
手を振る様子が分かるようなシンの声に、アスランの疲れ切った溜息がさらに増えた。
「シン、真面目に聞いてくれ。アレックスもシンによく説明してやってくれ」
「説明っていうか、俺にはなんとも言えないが、ラクス・クラインの署名が本物なのは確かで――シンの手にある報告書の真偽に関しては、それが全てとしか言いようがない」
「え?……えと? だから?」
「クライン家の懇意にしているドクターからきちんと裏も取っている。そのドクターは誕生する前からキラを知っていた。そしてメンデルの極秘資料の中にキラのデータはあったそうだ。――キラはメンデルで特別に作られた子供だ」
「メンデルって、あの――」
シンの声が急に細く小さくなって、キラは不安になった。
――メンデルって何? 何かよくない事だろうか?
わからない。
ただ、アスランの声がよどみないのが怖くなった。
「信じられないのは俺も同じだ。……結局は普通の子とは違う、そう言う事だ」
「ちょっと待てよ。俺だって、それは分かっていたさ。でも、だってアイツが特別でも、それは猫耳ってだけで、どう見たって普通のガキだし……」
「本当に普通なら狙われることなどない。本来なら、このデータも機密に値する。データの内容はキラの」
「そんなこと! そんなのは分かってるさ。でもやっぱりその日付からして変だろ、アリエナイ。絶対に信じられるかよ」
シンは強い口調で憤っていたが、戸惑うように何度も口ごもる。
ただアスランだけは淡々としていた。
シンの声は掠れていて、泣いているように聴こえた。
ドアの向こうは、みんなの声が小さくくぐもり、聴き取るのが難しい。
「シンの気持ちも分かるが、事実は事実として認めたうえで、今後のキラに対する一定の指針を決めておかけなければいけないだろう。それが不十分だとしたら、ここにキラを置いておくことがキラ自身の為にならないことになる。このデータを見せられた以上、子供だからと侮って囲っておけばいいと言うわけにはいかない」
「だから、俺は信じないって言ってるじゃないですか! だって今さらどう接すればいいんですか? アンタだって他人事じゃないんですよ? 数ヶ月とはいえアンタよりも上ってことなんですから」
潜めてはいるが、シンは憤っていた。
キラには良く分からないが、やはりすごく大事な事を話しているのだろう。
キラには教えて貰えない、大事なこと。
教えて貰っても、きっとどうにもならないことだ。
不安定な身の上は、その精神をも危うくしていく。
そして、まさに隣の部屋でアスランが危惧していることのひとつは、キラに不安を抱かせ、淋しい思いをさせているということで、それは何度も執事からの報告に挙がっていたことだった。
ドアの向こうにいる皆が小声になって聴き取りにくくなると、余計に不安になってしまい、キラは、もう一度ドアを手で触れようとした。
少しでも、みんなの近くにいたいのだ。
けれど同時に、猫耳を持つ以上、そう出来ない理由があることも思い知る。
ドアではなく、キラにしか見えない城壁が聳えているようだ。
不穏な空気が自分のせいだと分かるから、近寄るのが怖くなる。
――っていうか、本当に猫耳がすべての元凶なんだよね。
現実は、容赦なくキラの胸に突き刺さる。
平和な世界に紛れ込んだ異端者。
それは今さらだったが、どうにもならないのが可笑しくてキラは笑ってしまう。
けれど、笑ったら涙がこぼれてしまうのは何故なのだろうか。
仕方のないことなのだから、いい加減慣れなければいけないのに、キラの心は弱くて、勝手に悲しくなって困ってしまう。
平気な顔ができないなら、もう皆の前には出られない。
あのドアに近づいて知ってはいけない。
知ってしまうと笑えなくなる。
――とりあえず、見つからないように消えなきゃ。
向こうは、まだ言い争いが続いているのが分かる。
よく『喧嘩じゃなくて話し合い』だとアスランやアレックスは言うが、理解出来ないキラは不安になるだけだ。
大好きな人たちが争っているのは自分のせいのような、そんな気がする。
それを確かめる事も、どうにも出来ない事も受け止められない。
考えていると、眩暈がしてくるのだ。
ただ、ひどく悲しい。
前が見えない。
にじんだ世界に、ふらりと足を踏み出したそのとき、突然足がもつれて倒れてしまった。
絨毯に膝をついたとき、傍の家具とぶつかったようで何かが落ちる音がした。
そのとたん、騒がしかったドアの向こうの話し声がいっせいに止まり、一転してあたりが静まり返った。
そのまま、何も音がしない。
――どうしよう、バレちゃったかも。
キラは床に手をついたまま、固まった。
胸の奥から不穏な音が鳴り響いて、内側から壊れてしまいそう。
――どうしよう。
今にも飛び出しそうな胸のその場所を手で押さえ、身体を丸めて目を閉じる。
すると、瞼の中の暗闇が重く圧し掛かってきて、それはキラの力を完全に奪った。
ブラックアウト。
急速に意識が遠のいていったことも、キラが気付くことはなかった。

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ダブルシークレット7

 
「え? って……は? って、アンタ何言ってんですか」
虚を突かれたようにシンの声がひっくり返った。
「いや。本当に、そんなつもりじゃないと思っていたんだが、言われてみたら反論が出来ない。救出したときエレカをここに向かわせたのは、キラを手元に置いておきたいと思ったからなのかもしれない。……ラクスの家のセキュリティーを強化してからだとか、もう少しキラの体調を整えさせてからだとか、あの時思った理由は色々あったと思うが、改めて考えたら全部理由にならない。里心をつけさせる為だと非難されれば、撤回は難しい。俺の浅はかな出来心が事態を複雑にしてしまったとしか言いようがない」
「出来心って、そんなの有るはずがないでしょうが。アンタはクソ真面目を絵に描いたような人なのに」
全くフォローにならないシンの断言に、気まずい沈黙が広がった。
アレックスの助け船もない。
「とにかく! 全部アンタがしたことでしょうが? しっかりしてくださいよ……っていうか、俺としてはアンタにはしっかりして欲しいんですけど……」
モゴモゴと、シンは口ごもる。
ガンガン攻めることしかしらなかったので、相手にこんな風に引かれると、どうしていいか分からなくなるのだ。
アスラン自身も、ずぶ濡れで衰弱の酷いキラの姿を、ラクス・クラインに見せるのは酷だと思って保護したつもりだったのだろうし、クライン家のセキュリティーに穴があったことは明白だろう。
それについては端的に指摘はしていたが、関わったアスランは、そちらの改善を確認して完璧にしておきたかったのも嘘ではない。
シン自身も、この上官がガチガチの石頭ではあるが、非情ではないことも、日常に秘密を有している者のせいか必要以上に完璧主義者なことは仕方ないと知ってもいた。
優しいからこそ、骨を折って猫耳のキラを保護したのだと信じていたし、キラを商品という目で見る者達とは違うと、すぐに分かったはずだった。
商品ならば、いくら愛らしいとはいえ、見返りが大きいければ大きいだけ、利害の前にすれば間単に手放しただろう。
ブローカーやブリーダーがその類たる主たる者だ。
アスランは、キラを本来の猫耳純血種という扱い方をせずにいる。
ザラ家の者すべてが、そのようにキラを扱っている。
それは当たり前のようでいて、接触には最新の注意が払われている結果だった。
あの稚く繊細な容貌と、庇護欲を刺激する華奢な身体を見たなら、本当に動くのかと不安で仕方なくなる。
接触を避けていたというアスランですら、救出した数分で手放せなくなった。
そんな子猫を一度抱き上げたから、きっとシンも神様から貰ったプレゼントのように、抱いて連れ帰った。
何故なら、殺人的な庇護欲と保護欲を刺激する存在を前にして、それに抗うことは、あまりに困難だからだ。
理性的な者であればあるほど、おかしくなる。
直情傾向のシンよりも、アスランやアレックスのほうが結局キラに固執している。
異形に対する強い偏見があれば別だが、稚く愛らしいキラの破壊力と殺傷力は限りなく高い。
沈黙のあと、アスランの深い溜息が響いた。
「結局……俺は知らなきゃいけなかったことを蔑ろにしていたんだ。そればかりか、今回のこのデータを見て初めて、自分が何も知らないことを思い知った。それなのに分かったような顔をして、キラには普通の子みたいに接する事が大事だとか、まだ子供なんだから難しいことよりも伸び伸びさせておけばいいとか……何だか勝手な勘違いばかりしていた」
「ア、いや、もう別にそんなにアンタを責めてるわけじゃないし……っていうか、さっきはちょっと責めてみたけど、あれはつい、カッとなったっていうか」
あーもう! と、前髪を掻き毟るシンの声。
「だって、ねえ! アイツを捨てたことのある俺にアンタを責める資格なんて全くないし、アンタが転々としていた俺らのところまで辿り付いたのも凄いと思ってる……でも! それはアンタがキラを保護してくれてるって前提の話であって、アンタがキラを一番に考えてくれて居るのも分かっていて、何ガ言いたいかって言うと、キラを他所にやるなら許さないって話で、でも、俺は一度捨てた人間で……だから、あー、もう! 黙ってないでアレックスさんも何か言ってくださいよ。こっちまで頭がグルグルしてきた」
「いや、俺もグルグルしているし。それに俺は内向き担当で、詳しく知らないし、アスランはキラと何度も会っているのだと思っていたっていうか、ラクスから相談されて動いていたのもアスランだし、現在進行形で相談されているくらいだから、細かい事は任せていいものだと思っていたし……」
「わー、もう! 俺ら全員グルグルしていて使い物にならないじゃないですか?! ちょっとそれ、貸してください 」
奇声をあげつくしたシンの息遣いが荒い。
「なんていうか、今頃気付くのも申し訳ないが、ラクスは捜査状況を報告してくれるだけで、『こういう細かいキラの情報』は全く話して貰ったことがなかったんだ。他人の大切にしている物に口出しするのも不躾だと思っていたから、興味があるそぶりをするのも何だかいけない事のようで、今にして思えば意地を張っていたのかもしれないけれど」
アスランの『こういう細かい情報』という声をバックに、ページを捲る紙の音が続いた。
そして、さらに幾ばくかの沈黙と深い溜息。
「えーと……アスランさん。これって、アンタが深刻になるほど大事な事なんて書いてないじゃないですか。身長、体重は、今よりもちっこいなあってくらいで。キラの資料とか言うくせに、肝心の写真の添付もないし、好きな食べ物嫌いな食べ物とかいう項目、本当に必要なんですか? この必須事項にある昼寝に必要な時間だとか、寝間着の推奨生地とかいうのは何ですか? まるで動物の飼育マニュアルみたいですが……っていうか、こっちの後ろの方にさりげなく遺伝子情報があるんですけど、本当はこれが一番重要なんでしょ? なんで一番大事なことが、こんなゾンザイな扱いなわけ? アイツ、本当に大事にされてたんですか?」
憤慨するシンに反して、アスランの声は重い。
「多分、自分の元へ戻らない今、これを関係者が見て隠して居ることを想定しているんだろう。きっと、そこでキラが快適に暮らせるようにという配慮じゃないだろうか。一見、どうでもいいことのように見えるが、彼女でなければ知り得ることの出来ない、キラにとって大切なことばかりだと思う。俺はそのどれも配慮してやっていない」
「……いや、それは仕方ないんじゃ」
モゴモゴとシンの小さな声が、アスランの声にかき消される。
「何度もチャンスはあったんだから聞けばよかったようなものだと思うだろうが、不用意に知れば知るだけキラを彼女の元へ戻さなければならなくなるような気がしたし、多分自分のルールでキラを立派に育てているんだという優越感みたいなものに浸っていたんじゃないだろうか。実際に俺はキラがどれだけ淋しがっていたのかも知らない。この中では一番先に出会っていて、ラクスに捜索を頼まれもいるのに、キラのそばにいてやった時間は、シンよりもアレックスよりも少ない。俺はキラを閉じ込めることしかしていない。それはキラにとって良いことではないって、その報告書を見て思い知ったんだ」
「キラを閉じ込めるだけなのは、俺たちだって同じだ」
「そ、そうですよ! 閉じ込めておかなきゃ猫耳がフラフラ外を歩いていたらどうなるか、アンタだって分からないわけじゃないでしょう? ていうか、それ以前に、あの警戒心のないバカを閉じ込めないでどうするんですか。何も分かっていないガキなんだから危ないんですよ。っていうか、ところでアイツ、本当はいくつなの? 報告書っていからには生年月日くらい載ってるはず……と」
声に続いてカサリと紙が擦れる音がしたかと思うと、シーンと部屋が静まり返った。
今まで陽気だったシンの声がなくなると、物音もなくなり、隣の部屋で固まっていたキラは、そっとドアを振り返った。
――もう終わったのかな? みんな、落ち着いたみたい。
はあと息を吐き出した。
ここに何をしにきたのか、すでに完全に忘れていた。
キラの頭はグラグラしていた。
もう本当に撤退しようと、入ってきた窓へと向かおうとしたとき、突然弾けるような笑い声がした。シンだった。
「なーんだ、コレ偽物ですよ! あは、俺たち、何マジになってんの? バカらしー」
やけに明るい声だった。
だが、空気はしらーとしたまま、それに応える返事も笑い声もない。
「まさか、コレを信じたんですか? やだなあ、二人揃って。ちょっと考えたら、こんのあるはずないじゃないですか。決定的な偽情報の証拠ですよ、だいたい生まれた年を間違っているところからして別人でしょう? よくいるんですよね。こういう早とちりする奴って」
「それは、ラクスが直々に関係機関に送っているし、様式も正式なものだ」
「えっと? アスランさん、何いってんの? だってこれ、どう見たってオカシイでしょ? ……って、まさかアンタら、これ本気で信じたんですか? もしこれが本当だったら――アンタらと同じってことですよ?」
「いや、俺達は十月だから、それより五カ月早いってことになるな」
ぼそりと聴こえた声は、キラには双子のどちらのものか分からなかった。だが、うろたえているのは明らかにシンだ。
「いや、だから、オカシイでしょ? アリエナイでしょ?なんで二人して、まるっと信じてんですか? アレックスさん、アンタ、いつもはもっと冷静でしょ?! アスランさん、何、暗くになっているんですか。これ絶対にオカシイですって! 何で、こんなガセ情報にショックを受けてるんですか、ねえ?」
シンの声だけが虚しく響くが、キラには内容が把握出来ない。
――お仕事の話なのかな?
「だから、この報告書が本物のわけないじゃないですか」
弾き飛ばすように自信満々で笑うシンの声がするのに、部屋に漂う緊張感は緩む事はない。
「シン……日付は間違いではないと、思う。朧げではあるが、なんとなく聞いた覚えもある、それから――キラにはまだ」
「あー、いいですって!」
重い口調のアスランに反して、遮るシンはそれを全く取り合う様子はない。
「そのことはこっちに戻ってからすぐに、オタクの執事さんから五月十八日のことは一通り聞いたんですけど、何か説明が面倒だったから、キラには教えなかったんですよ。ホント、ガセ情報を信じて安易に説明しなくてよかったですよ。それじゃなくても『ナゼナニ』煩いのに、下手に教えてたら撤回も面倒ですし。でもまあ、一応聞いたからには、とりあえず俺は、その辺の菓子で機嫌をとっておきましたよ。あと、髪も洗ってやったし、一緒にゲームもしてやったし――って言っても、いつもと同じだから何も気付いてないでしょうけどね。まあ、本人はおろか、こっちも何も知らなかったから、多少は思うところもあったんですが、なんて言うか……ホント、この報告書はないですって! 今月ピンチだから、本物だったら、もう少し良い物を買ってやらなくちゃとか、後ろめたかったからホッとしましたよ」
シンが溜息をついたそのあと、再び沈黙が続いていたが。
「――そんな顔で睨むなよ。言いたいことがあるなら、ハッキリ言えばいいだろ」
不機嫌を押し隠すような声色は、アレックスだろう。
ということは、同じく黙りこんでいたアスランの機嫌も悪いらしい。
「オマエ、いつもそうやって黙ったまま人を動かそうとするよな」
「俺は何も言っていないだろ?」
「じゃあ、教えてやるよ。……俺は一週間ほど前、アデスからその報告書を貰ってすぐに、プレゼントってほどじゃないが、『その辺にあった』ヒヤシンスの水栽培セットを渡しておいたかな」
「へえ、さすがアレックスさんだな。それってキラの部屋の窓にあったあれでしょ? なんか、すごく大事にしているみたいで昨日の夜、見せてくれましたよ」
シンの言葉を聴き、まんざらでもなさそうにアレックスが喉で笑った。
「五月はデザートに毎日ケーキを食べさせていたから、十八日も確実に食べさせてるはずだ、きっと」
「やだなあ、アレックスさんでもあんなのを信じたんですね? でも、冷静に考えて変だって気付いたんでしょ?」
「いや、シン……それとこれとはちょっと」
「いい加減にしろ」
ドンと、大きな音がした。机を叩いたのかもしれない。
「この報告書は本物だ。書いてある内容も、正真正銘の事実で、ラクスの署名もある。それが何よりの証拠だ」
「そんな怒らなくても、っていうか、そんなわけないですって! だって、あんなチビで、菓子のオマケで狂喜乱舞するオコサマですよ? ナイナイ」
手を振る様子が分かるようなシンの声に、アスランの疲れ切った溜息がさらに増えた。
「シン、真面目に聞いてくれ。アレックスもシンによく説明してやってくれ」
「俺はなんとも言えないが、ラクス・クラインの署名が本物なのは確かで――シンの手にある報告書に関しては、それが全てとしか言いようがない」
「え?……えと? だから?」
「クライン家の懇意にしているドクターからきちんと裏も取っている。そのドクターは誕生する前からキラを知っていた。そしてメンデルの極秘資料の中にキラのデータはあったそうだ。キラはメンデルで特別に作られた子供だ」
「メンデルって、あの――」
シンの声が急に細く小さくなって、キラは不安になった。
――メンデルって何? 何かよくない事だろうか?
わからない。
ただ、アスランの声がよどみないのが怖かった。
「信じられないのは俺も同じだ。……結局は普通の子とは違う、そう言う事だ」
「ちょっと待てよ。俺だって、それは分かっていたさ。でも、だってアイツが特別でも、それは猫耳ってだけで、どう見たって普通のガキだし……」
シンは強い口調で憤っていたが、戸惑うように何度も口ごもる。
ただアスランだけは淡々としていた。
「普通なら狙われない。本来なら、このデータも機密に値するんだ」
「そんなことは分かってるさ。でもやっぱりその日付は変だろ、アリエナイ。絶対に信じられるかよ」
シンの声は掠れていて、泣いているように聴こえた。
みんなの声が小さくくぐもり、聴き取るのが難しい。
「シンの気持ちも分かるが、事実は事実として認めたうえで、今後のキラに対する一定の指針を決めておかけなければいけないだろう。それが不十分だとしたら、ここにキラを置いておくことがキラの為にならないことになる。このデータを見せられた以上、子供だからと侮って囲っておけばいいと言うわけにはいかない」
「だから、俺は信じないって言ってるじゃないですか! だって今さらどう接すればいいんですか? アンタだって他人事じゃないんですよ? 数ヶ月とはいえアンタよりも上ってことなんですから」
潜めてはいるが、シンの叫ぶ声が響いた。
キラには良く分からないが、やはりすごく大事な事を話している気がした。
キラには教えて貰えない、大事なこと。
どうせまた、教えて貰えない。
教えて貰っても、きっとどうにもならないことだ。
不安定な身の上は、その精神をも危うくする。
そして、まさに隣の部屋でアスランが危惧していることのひとつは、キラに淋しい思いをさせているということで、キラを淋しがらせているという執事からの報告だった。
ドアの向こうにいる皆が小声になって聴き取りにくくなると、余計に不安になってしまい、キラは、もう一度ドアの近くに寄ろうとした。
少しでも、みんなの近くにいたいのだ。
けれど、猫耳を持つ以上、そう出来ない理由があることも思い知る。
キラにしか見えない垣根があるようだ。
不穏な空気が自分のせいだと分かるから、近寄るのが怖くなる。
――っていうか、本当に猫耳がすべての元凶なんだよね。
平和な世界に紛れ込んだ異端者。
それは今さらだったが、どうにもならないのが可笑しくてキラは笑ってしまう。
けれど、笑ったら涙がこぼれてしまうのは何故なのだろうか。
仕方のない現実なのだから、いい加減慣れなければいけないのに、キラの心は弱くて、勝手に悲しくなって困ってしまう。
平気な顔ができないなら、もう皆の前には出られない。
あのドアに近づいて知ってはいけない。
――とりあえず、見つからないように消えなきゃ。
向こうは、まだ言い争いが続いているのが分かる。
よく『喧嘩じゃなくて話し合い』だとアスランやアレックスは言うが、理解出来ないことが多すぎて不安なのだ。
大好きな人たちが争っているのは自分のせいのような、そんな気がする。
それを確かめる事も、どうにも出来ない事も辛くなる。
考えていると、眩暈がしてくるのだ。
ただ、ひどく悲しい。
にじんだ世界に、ふらりと足を踏み出したそのとき、突然足がもつれて倒れてしまった。
絨毯に膝をついたとき、傍の家具とぶつかったようで何かが落ちる音がした。
そのとたん、騒がしかったドアの向こうの話し声がいっせいに止まり、一転してあたりが静まり返った。
そのまま、何も音がしない。
――どうしよう、バレちゃったかも。
キラは床に手をついたまま、固まった。
胸の奥から不穏な音が鳴り響いて、内側から壊れてしまいそう。
今にも飛び出しそうなその場所を手で押さえて身体を丸め、目を閉じる。
すると、瞼の中の暗闇が重く圧し掛かってきて、キラの力を完全に奪った。
ブラックアウト。
だが、急速に意識が遠のいていったことも、キラが気付くことはなかった。
 


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いまごろですが
あけましておめでとうございます。
年末年始に風邪を引いたお客さんからうつされたり
寒くてへロリとしていたりですが、おおむねげんきです

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ダブルシークレット 6

プラントに忠誠を誓って入隊したのだ。
簡単に辞められるはずがないのは、キラにでも分かる。
口では色々言いながら、シンが仕事に誇りを持っていたのも知っている。
アスランと同じ制服姿はキラの知るどのシンよりもカッコよくて似合っていて、こっそりキラも憧れていた。
けれど、それらすべてを打ち消すようなシンの怒声に、キラは身体を縮めた。
自由になったシンが、どれだけザフトで頑張っているか、キラは知っている。
才能はあったにしろ、並大抵のことではなかっただろう。
それを、シンは捨てると言っている――キラのせいで。
「そもそも俺は、猫耳の俺でもザフトに入れてくれるって言うからアンタの言う事を聞いただけで、キラのことだって、ここにいたら食うものにも困らなくて、病気をしても高い薬も買って貰える。単に便利だから連れ出さなかっただけだ。……でも、それは今までの話ってことなんだろ? アンタらがキラを他所へやるつもりなら、もうアンタらに利用価値なんかないからな」
挑発的な物言いをするシンに、深い溜息が聞こえた。
コーディネイターの聴力ゆえに、それがすぐ傍で聴こえてしまうキラは、勝手に身体が跳ねてしまい、心臓が生き物みたいに暴れている。
もうこれ以上、ここにいてはいけない。
ここでこんな話を盗み聞きしたら、皆の顔が見られなくなってしまう。
作り笑いもできなくなる。
入ってきた窓から出ようと思うのに、身体が言う事をきいてくれない。
「俺は……ここが一番安全だと思っていたし、今でも思っている。俺がいなくてもアレックスかシンか、誰かが屋敷には居るし、ここなら、何かがキラを攫いに来たとしても、そうそう簡単に渡さない自信はある。……でも、キラの幸せを考えたら、そう単純じゃない」
「アイツの幸せはアイツにしか分からないだろ?!」
「……じゃあキラが行きたがる外へだって、ラクスならばマスターの権限で出してやれるかもしれない。たとえばラクスが公の場で猫耳のキラを『自分のものだ』とお披露目すれば、迂闊に誰も手を出せなくなる」
「そんな、見世物になれって言うのかよ!」
「確かに注目はされるだろう。だが――そうやって存在を世間に公表すれば、敵も増えるが味方はもっと増える。シンも要人警護の訓練を受けただろう?」
確かに大勢の認識は、犯罪の抑止力になる。
「でも!」
「猫耳は、もともとそういったものだ。大勢が羨望し、宝石のように大切に愛でるものだ。盗んだり、粗末にするものではけしてないし、保護して愛でるもの。その資質があるからラクスはマスターの権利を与えられたんだ」
「権利なんてそんなものを勝手に決めるのは変だって、俺は言っているんだ! ……キラだって望んでないだろっ!」
やるせなさそうに呻くシンの声とアスランの溜息。
「誰だって親を選んで生まれるわけじゃない。愛してくれない親の元に生まれてくる子もいる。だから、本当の親ではなくとも、愛してくれる保護者がいるのは幸せな事だ」
「……そんなのっ! アンタらの勝手な言い分じゃないか。俺だってキラだって、猫の耳なんてつけて生まれたくはなかったさっ! その気持ちなんか、アンタらには分からないだろう? 俺達は根本の定義から違っているんだよ!」
シンの悲痛な声が、誰もの耳に突き刺さる。
キラの耳にはとなりの部屋の物音が聴こえていた。
アレックスのつま先がイラただしげに床を蹴る音、シンの舌打ち。
それら全部がキラの力を奪い取る。
耳もギュッとおさえれば聴こえないはずなのに、心のどこかで真実を知りたいと思っているのか、押さえていられない。
結果、キラの耳は隣の部屋の声を全部拾ってしまっていた。
皆の立てる音が怖くてたまらないのだ。
どうにかしてここから離れないと、心臓が潰れてしまいそう。
ふるえる息を吐きながら入ってきた窓を振り返れば、光が降り注ぐ窓の外はハレーションで真っ白に見えて、知らない場所のように現実感がない。
フラフラと立ち上がり、初めて歩く人のようにキラはそこを目指す。
背を向けたドアの前に、アスランが立って居る気配がハッキリと分かることも、キラには辛かった。
何故なら、きっとアスランはもう、ここにいていいと言ってくれないと思ったから。
全員が困っているのが聴こえるからだ。
「言いたいことは分かるが、キラにマスターがいるのは紛れもない事実で、マスターには特別な権限がある。そのひとつがキラの情報だ。彼女にしか知り得ない重大な情報の前には俺たちに成す術はない。ラクスが一番キラを守る手段を持ち、キラを幸せにする。それはどうしようもないんだ」
「一番ってなんだよ。キラがここがいいって言うなら、ここが一番ってことじゃないのかよ? 幸せかどうかはキラに聞いてみろよッ! 少なくともアイツはここにきて、見ていて悔しいくらい幸せに見えるさ! 俺と逃げていた頃じゃ、こうは行かなかった。そうしたのはアンタだろう? アンタが俺から奪ってそうしたんだ。それに、キラが幸せならマスターだって本望だろう?」
「……シン」
「何で今さらそんなこと言うんだよ! 結局返すのなら何で俺からキラを取り上げた足で即、そのマスターとやらの元へ連れて行かなかったんだよ? 保護とか言って、何で手元に置いておいたんだよ」
「それは、あの日は雨で……びしょ濡れになって衰弱していたからで、特に理由なんか」
「理由がないわけないだろ? アンタだってキラを所有したいって思ったんだ! 黙っていれば美少女フィギュアみたいに見えるからな、皆そうなんだ」
クスリと笑う声は、嘲笑に他ならない。
「アンタもアレに参ったんだろ? アイツ、起きてるときは無邪気で子供だけど、眠っているときは、やたら儚げでゾクッとするらしいからな」
「俺は別に……そんなことは」 
「じゃあ、違うって言うんなら、あいつがびしょ濡れで意識が朦朧としていて訳の分からないうちに、とっとと返せば良かったんだよ。出来なかったはずはないだろう? でも、アンタはそうしなかった。それが答えだ」
「だから理由なんかない。ただ俺は、キラの性質上、下手な扱いは出来ないと思っていたし、何より深夜だった」
「へえ。見付かったって一言言えば、アンタの言うキラのマスター様なら、たとえ嵐の中でも迎えに来たはずだ」
「それは……そうだが、でも俺は」
意地悪なシンの言葉に口ごもる声は、いつも歯切れの良いアスランとは思えないほど困っていた。
こんな姿を見せられて初めて、シンは頭が冷えてくる。
こうやって、大切な人を傷つけてきたのだ。
いつもシンは、取り返しの付かないほど責めたあとに我に返る。
今回もそうだった。
仮にアスランが本当にそうしていたなら、キラと再会できた可能性は、ないに等しかっただろう。
もう二度と会えない覚悟は、とっくにしたはずだった。
それでも、アスランを信じて託す事が、あのときシンに出来るすべてだったのだ。
キラを手放した後、ブリーダー達に暴行されていたシンを救出してくれたのも、アスランの配慮だったと、シンは後から教えられていた。
キラを救出したアスランに非がないことは、分かっているし、マスターがいると言うのは、親がいるのと同じ。
他人に口は出せないことだと知っている。
どんなにキラが切望し、叶えてやりたくても、未成年の子供のワガママにしかならないし、キラに限らず猫耳の場合法外の値段のついた商品も同然なのだ。
その辺りも、ちゃんとシンは分かっていた。
分かった上で、アスランやアレックスを信じてきたのだ。
だから、その彼らがキラをマスターに渡すと言い出すから裏切られた気持ちでキレたが、ひどく思い悩む姿を目の前で見せつけられると、シンは我に返るしかない。
「あのさ。アンタって不器用だけど結局人がいいからな。何かと、おせっかいで細かいし、いちいち潔癖でカッコつけだから、どうせアイツの着ていた服が小汚かったとか、顔が薄汚れていたとか、そんなことが気になってマスターっていうのに連絡しなかったんだろ? ほら、アンタのことだから汚いまま返したら、自分の管理の甘さを問われるとか思ったんじゃないの? 優等生的にさ」
ハハッと笑うシンの声は、何故か打って変わって明るく響いて空々しいほど。
アレックスは何も喋らなかった。
そのまま、しばらく黙りこんでいたアスランは、独り言のようにぽつりと呟いた。
「俺は――そんなつもりはなかったんだ。だが……いや、でも、もしかしたら気が付いてなかっただけで、シンの言う通りだったのかもしれない」

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